作品タイトル不明
115 やたらと甘やかされるのですが
「――それで?」
食堂には、いまだに誰の立ち入りもない。
アルノルトは給仕を呼ぶことなく、リーシェを宥めるのに努めてくれた。
椅子に座らせ、自分もその左隣に腰を下ろし、リーシェの頭を撫でながら尋ねる。
「ゆっくりでいい。何処にも行かないから、落ち着いたら状況を話してみろ」
「私の侍女たちは、各部屋のお掃除をしてくれていたのですが……」
先ほど彼女たちに聞いた話を、リーシェはなんとか説明する。
「掃除中、誰もいないはずの隣の部屋から、窓を開けたような音がしたのだそうです。少し軋んでいて、甲高い、独特の音が」
「……海辺の城だからな。蝶番が錆びているのだろう」
「びっくりした侍女が窓を見ても、その部屋の窓は開いていなかったと。気のせいかと思い、桶の水を変えようと廊下に出た途端、遠くの方にぼんやりした人の影が……!!」
それを聞いた時の恐怖を思い出し、リーシェはふるふると身を丸めた。
「普通の人間がそこにいたなら、足音のひとつもするはずでしょう? だけど人影は音もなく、滑るように移動していって……」
見てもいないはずの光景が、脳裏にはっきりと想像できる。
「次の瞬間、すうっと消えてしまったんだとか」
「…………」
リーシェは幽霊が恐ろしい。
リーシェ自身が何度も死に、不思議な運命でここにいる以上、『幽霊なんていない』とは言えないと思っている。「死んで魂だけになった人が存在しない」とは、限らないではないか。
リーシェの話を聞きながら、アルノルトはじっとこちらを見つめてきた。
「つまりお前は、その消えた人間が怖いのか」
「殿下は怖くないのですか……!?」
「仮に存在していたとして、実体のないものに何が出来る」
「お、お化けが怖くない人だけが言える理論……!!」
だが、心強さも湧いてくる。
「……こういうものは、周りの人が怖がっていると、ますます怖くなるでしょう?」
アルノルトに頭を撫でられながら、リーシェはそっと俯いた。
「侍女たちが真っ青になっていたので、ついつい平気なふりをしてしまって。幽霊なんかいないと宥めた結果、侍女たちは安心してくれたのですが、『やっぱり私も怖い』とは言い出せず……」
「それでこの食堂にひとりで籠って、俺が帰るのを待っていたのか」
リーシェはこくりと頷いた。
「……テーブルの上に、大量の燭台が並んでいるが」
「だって、ちょっとでも明るくしたいから……」
侍女たちの部屋に居ようとも思ったが、それだと誤魔化しが効かなさそうだ。
帰ってきてくれるまでのあいだ、心の中でたくさんアルノルトの名前を呼んだ。そのことは話したりしないまま、ちらりと上目遣いに見上げる。
アルノルトは、リーシェのことを一切笑ったりしない。
「……ところで殿下、ご飯は……」
「お前を撫でるので忙しい」
「……???」
それはもう、最優先の仕事だと言わんばかりの口ぶりだ。甘えるわけにもいかないと思うのだが、安心感がすごい。
「……私、海がとても好きなんです」
「だろうな」
「でも幽霊が出るかもしれない部屋で、夜に聞く波の音は、ちょっと怖いというか……」
「……」
「ひとりで部屋にいるのは、難しいというか」
右手で自分のドレスの裾を、左手でアルノルトの上着を握り締める。
「……アルノルト殿下……」
名前を呼ぶと、アルノルトが複雑そうな表情をした。
それを見て、リーシェは慌てる。
「や、やっぱりご迷惑ですよね!? いい大人が、一緒の部屋で寝かせてほしいだなんて……!」
「そうではない」
そうして瞑目し、大きな溜め息をつかれた。
「……そうではない……」
(二度言われた……)
何故だろうか。けれどもアルノルトは渋面のまま、こう続ける。
「……四階の南に、確かふたり部屋があるだろう。あそこは使える状態になっているか」
「は、はい! 侍女たちに城中をお掃除してもらったので、ぴかぴかですが……」
答えつつも、リーシェはぱちりと瞬きをした。
「一緒の部屋で、寝てくださるのですか?」
「……この状態のお前を、引き剥がして部屋に戻せるわけがない」
この状態とは、アルノルトの上着を掴んだ左手のことを指すのだろう。
恥ずかしいけれど、もう少しだけ離さずにいたかった。
しかし、食堂の扉をノックする音が聞こえて、リーシェはぱっと手をほどく。
「失礼いたします、アルノルト殿下。先ほど使者が到着いたしました」
姿を見せたのは、近衛騎士のひとりだった。
(と、咄嗟に手を離して良かった……!)
情けない姿は見せられないので、リーシェは膝の上に手を重ねる。
「小舟に乗った使者が、先行して伝令に参りました。カーティス王子殿下の乗られた船は、数時間ほどで港に着く見込みとのこと」
それを聞いてほっとする。ハリエットも、兄の到着をきっと喜ぶことだろう。
アルノルトは何の感慨もなさそうな様子で、騎士の伝令に応える。
「分かった。では、急いでオリヴァーを呼び戻せ」
「承知いたしました。また、カーティス殿下は船内で食事を済ませられているため、今夜の歓待については気遣い不要とのことです」
「港の警備はどうなっている?」
「は。それについては――……」
(……そういえばシグウェル国の海辺には、幽霊船の噂があったのよね……)
一体なぜ、余計なことを思い出してしまったのだろう。
(〜〜〜〜っ)
リーシェは慌てて思考を掻き消し、俯いてじっと沈黙した。
(アルノルト殿下から離れると、やっぱりまだちょっと心細い……)
けれど、さすがに騎士の前では慎まなければ。
そう自分に言い聞かせた、直後のこと。
「――!」
アルノルトの手が、するりとリーシェの手に触れた。
テーブルの下でお互いの指が絡み、戯れるように繋がれる。
驚いてアルノルトを見るけれど、彼はまったく素知らぬ顔だ。リーシェと手を繋いだ状態で、騎士との事務的な話を続けている。
繋いだ手と手は、テーブルの陰に隠したままだ。
(でも、他の人がすぐそこにいるのに……!!)
そう思うと、恐怖心どころではなくなっていた。
こんな秘密は心臓に悪すぎる。どうにか手を離そうとすれば、アルノルトは却って強く握り直すのだ。
それでいて、声音はやっぱり淡々としている。
誰にも内緒で手を繋ぎ、アルノルトのそんな声を聞いていると、耳まで火照って熱くなるのを感じた。
「……明日の予定は、いま伝えた通りに組み直す。他の者にもそう伝えろ」
「仰せのままに。それでは殿下、リーシェさま、失礼いたします」
「は、はい……!」
一礼した騎士が退室し、食堂の扉が閉まる。
あの騎士は、アルノルトとリーシェの椅子がやたら近いことや、食事がいまだ運ばれていないことを変に思わなかっただろうか。色々と考えてしまうのだが、依然として問題は左手だ。
「あ、アルノルト殿下……」
「ん?」
少し柔らかな返事と共に、彼の指がリーシェの薬指をなぞった。
「繋いでくださって、ありがとうございます。あの、でも、その」
「……」
反対の肘掛けに頬杖をついた彼の目は、薬指の指輪へと向けられている。
これは、アルノルトがリーシェに贈ってくれた指輪だ。
「このところ、いつもこの指輪をつけているな」
「……だ、大事なので……」
事実だが、指摘されると妙に気恥ずかしい。
(私がどんな装いをするかなんて、アルノルト殿下は興味がないと思っていたのに……)
もしかして、ことあるごとにこのサファイアを光に透かしたり、石の表面をいつまでも眺めたりしていることまで気付かれているのだろうか。
そう思うとますます恥ずかしくなって、動揺する。
「金細工はコヨルの技術か。これほど細かい細工にもかかわらず、よく手入れされている」
「っ、で、殿下……」
「なんだ」
アルノルトは目を伏せて、指輪の上をするりとなぞった。
リーシェの顔が赤いのを、彼は一体どう思っているのだろう。
気になるけれど、直接聞けるはずもない。リーシェは勇気を振り絞り、まったく違うことを口にした。
「そ、そろそろご夕食を……! カーティス王子殿下は、船内でお食事をなさっているそうですし、アルノルト殿下もお出迎えまでに済ませていただきませんと……!!」
「……」
アルノルトはふっと笑い、緩やかにリーシェから手を離す。
「仕方ない。お前の震えも止まったようだしな」
(仕方ないってなに……!?)
だが、まずは心臓の鼓動を落ち着かせる方が先だ。
リーシェは大きく深呼吸をし、給仕を呼ぶベルを鳴らしたのだった。