作品タイトル不明
5-3.(エルヴィン)領民の本音
街に詳しい様子のアンに、パン屋に行きたいと伝えた。すると手を繋ぎ、ずんずんと進む。男性が女性のエスコートをするのは知っているが、逆もあるのかな? 平民はルールが違う? いや、僕の知るルールじゃなさそうだ。
任せて踏み込んだパン屋は、記憶と違っていた。棚にパンが並んでいたと思ったのに、大きな作り付けのテーブルにパンが置かれている。すべて籠に入っていた。
「おばちゃん、いつものパン頂戴!」
「焼きたてが出るから少し……おや? 新しい子かね。初めて見る顔だよ」
恰幅のいい女性は店主だろうか。三角の布で髪を巻いていて、清潔感があった。
「外でぶつかったの。エルだって」
「アンの説明は乱暴だね。気に入ったパンがあったら言っとくれ」
パン屋のおばさんは、明るくそう告げて中へ戻ってしまった。盗まれる心配はしないのか? 王都では、店員が常に見張っているのに。
「焼きたてが出るって! 運が良かったね」
アンは無邪気にそう笑い、いくつかのパンを掴んだ。置いてある串で刺して、器用に小さな籠へ移す。
「エルはどれがいいの?」
「焼きたてのをもらおうかな。それと……」
食事にパンは欠かせない。届けてもらうパンもいいが、たまには自分で選んでみたい。好奇心から、いくつかを選んだ。
「これがいいよ、これにしなよ」
無難なパンを選ぶ僕に、アンは見たことがない形のパンを勧めた。美味しいからと繰り返す。切ったバゲットに何かが塗られていた。ジャムではない。迷っている間に、僕が選んだパンの上に積まれた。
「後悔はさせないからさ」
「……押し売りするんじゃないよ、アン。焼きたてはほら、これさ」
焼き上がったパンを載せた籠を運んだおばさんが、一つずつ手元の籠に載せる。まだ湯気が出ていて、店内にいい香りが広がった。籠のパンを全て買い、お礼を言って店を出る。
「礼儀正しいのもいいけどね、子供はやらかしてなんぼだよ」
おばさんは豪快に笑いながら、扉を開けた。僕らの腕がパンの袋で塞がっているからだ。外へ出ると、パンの香りにつられたのか。何人もが店に入って行った。
「人気の店だったんだ」
「こないだ領主様が代わったらしいんだけど、その前が酷くてね。皆が困っていた時に、おばさんはパンを分けてくれたの」
どきりとした。何か知っていて話している? そう疑ったけれど、アンは軽い調子で笑う。
「今度の領主様は、いい人だといいな」
「そうだね」
震えそうな声を絞り出した。痛みもあるけれど、民の視線の大切さが沁みた。こういう声は、領主の視察では聞こえない。姉上に庇護された王都の小屋敷では聞こえなかった、領民の本音を胸に刻んだ。
立派な領主になる――僕の目標が改めて定まった。