作品タイトル不明
332.生活感のない部屋で手を繋ぐ
執務室へ向かい、夫の部下である文官達に挨拶をする。レオンは、ヘンリック様の頭にぺたりと張り付いていた。扉を潜るときに、頭をぶつけないよう身を倒したのだけれど……この格好が気に入ったみたい。
「ケンプフェルト公爵閣下が、こんなに子煩悩とは思いませんでした」
「奥様のこともよく話しておられ、仲のいいご夫婦で羨ましいです」
「私どもも、最近は定時で帰宅できるため、家族の時間を増やしています」
やや気恥ずかしい内容から、嬉しい話まで。彼らは色々と教えてくれた。恥ずかしくなったのか、ヘンリック様が低い声で止めに入る。ぴたりと口が止まったのが、驚くやらおかしいやら。笑みが漏れてしまった。
執務室は公的な職場なので、昼食を食べるのに適さない。説明しながら廊下に出て、いくつか通り過ぎた先の扉を開けた。明るい部屋だが、家具は少ない。客間に似た感じで生活感が乏しかった。
「こちらは?」
「俺が与えられた私室だ。かつてはここで寝泊まりしていた」
今も休憩中は使うらしい。すぐ近くで便利な反面、職場が近過ぎて落ち着かなかったでしょう。休む間も仕事の延長みたいだわ。ヘンリック様は当たり前とこなしたけれど、先代王……いえ、今は先先代の国王ね。その方のなさりようは、最低だった。
己の子孫が無能なら、有能な者に支えさせればいい。王族の血筋を繋ぐことを優先した。国の頂点に立つ一族ゆえの決断だとしても、非情すぎる。支えてもらえるような息子に育てられなかった時点で、親の失敗なのに。
生まれた子供は誰もが天使だわ。育て方や導く人が間違っていなければ、それぞれの才能を花開かせる。その花が、生まれた地位に似つかわしくない人もいるでしょう。それでも絵の才能があれば、個人的に描く時間を持つことで、気が楽になるはずだわ。
子育てに失敗した親が、その責任をよその子に負わせるだなんて。ぞっとした。狂気の沙汰だと思う。ヘンリック様は先代王の代わりに、政務全般を担当した。責任感の強い人だから、すべてを背負ってしまったのね。
部屋に私物がほとんどないこと。それらを持ち帰った姿を見ていないこと。答えは明白で、住んでいた頃から何もなかったのだろう。何もない部屋で眠るだけの休息を終え、すぐに仕事に復帰する。想像だけで胸が苦しくなるのに、ヘンリック様は気にした様子がない。
幼く無防備で、どこまでも純粋な人だった。よく歪まなかったわ。抱きしめて褒めてあげたい気分だけれど、さすがにおかしいわよね。
「この部屋からは、王宮自慢の庭園の薔薇が見えるそうだ」
他人事のように語り、バルコニーの扉を開け放つ。二階から見える景色は鮮やかで、並び立つヘンリック様の手をそっと握った。
「本当に、目に沁みるほど綺麗な景色ですね」
この景色を初めて見たのだろう。ヘンリック様も驚いたような顔をしていた。夜中に部屋に戻って、薔薇の季節すら知らぬまま眠って起きる。もうそんな思いはさせない。繋いだ手にきゅっと力を込めた。
「温室に薔薇を植えて、家族のお茶会をしましょう。他には何を植えようかしら」
「……百合」
ぽつりと呟いた後、ヘンリック様は花の説明を始めた。それって、ユリ科のチューリップね。上を向いて開く黄色や赤の花、中心を守るような花びらの形状、間違いなさそう。
「ええ、それも植えてみたいわ」
同意して、想像した。鮮やかな花が咲いたら、この人はどんな顔で喜ぶかしら。