軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第008話 ベルレイン家の請求書

ベルレイン伯爵家は、一週間で三度、名簿院へ書類を送ってきた。

一通目は抗議文。二通目は抹名取消請求。三通目は、修復依頼だった。

ただし、その依頼書には支払い欄が空白のまま残されていた。

「家紋祝福、食堂防腐、水避け、銀器管理、馬車扉の認証、使用人給金名簿、領地倉庫の鍵、客室暖炉、庭園水路……多いですね」

マルタが読み上げる。

「要するに、わたしが直していたものが全部壊れたのですね」

わたしは作業台の上で指を組んだ。

ベルレイン家の生活は、思っていた以上にわたしの名に依存していたらしい。母が亡くなってから、家の小さな祝福はほとんどわたしが整えていた。父はそれを娘の当然の仕事と思い、リリアはいつも「お姉様は細かいことが得意ね」と笑っていた。

得意だから、ではない。

誰かがやらなければ家が回らなかったからだ。

「支払い欄が空白です」

ノア様が言った。

「差し戻しですね」

「いや、見積もりはこちらで作る」

彼はわたしへ視線を向けた。

「受けるかどうかは君が決めていい」

ベルレイン家。

その名前を聞いただけで、胸の奥が硬くなる。戻りたいわけではない。むしろ、二度とあの朝食室に入りたくない。

けれど、使用人給金名簿という項目が目に入った。

そこにいる人たちは、わたしを忘れているかもしれない。けれど、彼らが給金を受け取れないのは困る。料理人のハンナは腰が悪い。庭師のオズには三人の子がいる。洗濯係のミーナは弟の薬代を払っている。

父のためではない。

使用人のためなら、直してもいい。

「人の生活に関わるものだけ受けます」

わたしは言った。

「使用人給金名簿、領地倉庫の鍵、食堂の防腐。家紋祝福、客室暖炉、庭園水路、馬車扉の認証は後回しです」

「料金は?」

「通常料金で」

ノア様が少しだけ眉を上げた。

「いいのか」

「使用人の方々から取るわけではありません。請求先は伯爵家ですから」

「では、伯爵家案件としては三倍にしよう」

「三倍?」

「本人への不当な抹名取消請求、旧名照会、名簿院内での暴言がある。迷惑加算だ」

マルタが嬉しそうに帳簿を開いた。

「迷惑加算、正式名称は何でしたっけ」

「特別対応加算」

「便利な言葉ですね」

見積書を作るうちに、わたしは妙な気分になった。

ベルレイン家の中で、わたしはいつも費用を削る側だった。花代が高ければ、庭の花を使う。祝福銀が足りなければ、古い装飾を溶かす。父に褒められたことはないが、家計が破綻しなかったのは、その積み重ねのおかげだった。

今、わたしは初めて、外部業者としてベルレイン家へ請求する。

それは、小さな復讐のようで、同時に正当な仕事でもあった。

翌日、ベルレイン伯爵家の執事が名簿院へ来た。

老執事セドリックは、わたしが幼いころから屋敷にいる人だ。白い髪を整え、いつも静かに廊下を歩いていた。彼もわたしを忘れているのだろうか。

受付で見かけたとき、胸が少し痛んだ。

「名簿院より見積書をいただきました」

セドリックは丁寧に頭を下げた。

「当家の主人は金額に不服を申しておりますが、使用人給金名簿の復旧を優先していただけるなら、私個人としては感謝いたします」

わたしは奥から出るべきか迷った。

ノア様が視線で尋ねる。

わたしは小さく頷いた。

「担当のリネアです」

セドリックはわたしを見た。

一瞬、彼の目が揺れた。

「リネア様」

「様は不要です」

「いえ」

彼は手袋を外し、深く頭を下げた。

「あなた様がどなたであったか、私は思い出せません。ですが、屋敷の廊下で、誰かが夜遅くまで帳簿を直していたことは覚えております。その方に、私は何度も温かい茶をお持ちしました」

喉が詰まった。

セドリックは続けた。

「その方は、いつも礼を言ってくださいました。ありがとう、セドリック、と」

名前を呼んだ記憶は残っている。

けれど、呼んだ相手の名はない。

それでも、十分だった。

「お茶、美味しかったです」

わたしは言ってしまってから、息を止めた。

セドリックの目に涙が浮かんだ。

「やはり、あなた様でしたか」

「わたしは、ベルレイン家の者ではありません」

「はい。承知しております」

彼は静かに答えた。

「ですから、今回は正式に依頼いたします。使用人たちの給金名簿を、どうか直してください。費用は、私が主人を説得して必ず支払わせます」

その言葉に、胸の中の硬いものが少し緩んだ。

屋敷にいたすべての人が敵だったわけではない。

忘れられても、何かは残る。

「お受けします」

わたしは言った。

「ただし、支払い遅延があれば二度目はありません」

セドリックは驚いた後、ふっと微笑んだ。

「以前より、少しお強くなられましたな」

「以前のことは、存じません」

「失礼いたしました。リネア様」

その日、わたしはベルレイン家の使用人給金名簿を修復した。

ハンナ、オズ、ミーナ、セドリック。一人ずつ名を確認し、給金が本人へ届くよう糸を結ぶ。父の名は必要最低限の支払い責任者としてだけ使った。

作業後、請求書を送った。

ベルレイン伯爵家宛、特別対応加算込み。

翌朝、父から短い抗議が来た。

「この金額は法外である」

ノア様は返答を書いた。

「法外ではない。規定内である」

わたしはその控えを見て、声を出して笑った。

笑いながら、少し泣きそうになった。

自分の仕事に値段がつくこと。自分を傷つけた家に、正しく請求できること。それは想像以上に、わたしを自由にした。