軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第006話 リリアという名前

名簿院へ戻ると、見積書より大きな問題が待っていた。

ベルレイン伯爵家から抗議文が届いていたのである。

「長女の抹名は錯誤によるものであり、家長の権限により無効とする。ついては名簿院は、当該女をベルレイン家へ引き渡し、聖女名を次女へ譲渡させること」

マルタが棒読みしたあと、顔をしかめた。

「当該女って、言い方が嫌ですね」

「名前を思い出せないのでしょう」

わたしは抗議文を眺めた。

父らしい文章だと思った。命令と体面だけが先に立ち、そこに人間がいない。

ノア様は紙を一瞥した。

「無効理由がない。却下だ」

「返答はそれだけでいいのですか」

「十分だが、納得しないだろうな」

彼の予想どおり、翌朝、ベルレイン伯爵が名簿院へ来た。

伯爵家の馬車は、以前より飾りが少なく見えた。いや、実際に少なくなっていた。車体に刻まれていた白い花の紋様が消え、扉の縁を飾る祝福銀もくすんでいる。

わたしが十三歳のとき、母の遺した図案をもとに直した紋章だ。

それも、わたしの抹名とともに白紙へ戻ったらしい。

父は受付で怒鳴った。

「院長代理に会わせろ!」

マルタは笑顔で応じた。

「予約はございますか」

「ベルレイン伯爵が来たと言え!」

「予約名はベルレイン伯爵様ですね。ご用件は?」

「娘のことだ!」

父の口からその言葉が出た瞬間、わたしは作業室の奥で手を止めた。

娘。

父は、わたしを娘と呼んだ。

けれど、その言葉には名前がなかった。怒りと所有だけがあって、呼びかけがない。

マルタの声は変わらない。

「どちらのお嬢様でしょうか」

「それは……」

父は詰まった。

作業室の扉は半開きだった。父の姿が見える。昨日より老けて見えた。髪の乱れを直す余裕もなく、杖を握る手が強張っている。

「黒髪の女だ。昨日、いや一昨日まで我が家にいた。家系図から勝手に消えた女だ」

「名簿院の職員を名でなく容姿で呼ぶことはお控えください」

「職員だと?」

父の顔が赤くなる。

「貴様らが匿っているのか!」

奥からノア様が出てきた。

「名簿院の職員に対する侮辱は、記録します」

「アステル公爵。これは我が家の問題だ」

「家系図から抹名された者は、貴家の成員ではありません」

「一時的な錯誤だ!」

「本人署名の抹名です。錯誤を主張するなら、本人が判断能力を失っていた証拠を提出してください」

父は唇を震わせた。

「娘は昔から従順だった。家に逆らうような子ではない。誰かに唆されたに違いない」

その言葉で、胸の奥が冷えた。

従順。

父にとって、わたしを表す言葉はそれだったのだ。

エレノアでも、娘でも、人でもなく。

従順。

ノア様は静かに言った。

「従順でなくなったことは、判断能力の喪失を意味しません」

父が言葉を失う。

わたしはその場で立ち上がりそうになった。言いたいことが山ほどあった。わたしは人間です。十年間、家のために働きました。母の名を守りました。あなたは一度でも、わたしが何を望んでいるか聞きましたか。

けれど、扉へ手を伸ばす前に、誰かが受付へ駆け込んできた。

「お父様!」

リリアだった。

薄い外套を羽織り、息を切らしている。王宮で見た華やかな姿ではない。髪も少し乱れていた。

「リリア、なぜ来た」

「お父様こそ、名簿院で何をなさっているのですか」

「お前のためだ。あの女から名を取り戻す」

リリアは顔を歪めた。

「わたしのため、と仰らないでください」

父が固まった。

「何?」

「わたし、昨日考えました。聖女名を名乗ろうとするたびに、息ができなくなるのです。殿下の前では言えませんでした。でも、分かりました。わたしはエレノアになりたいのではありません」

彼女は震える手で胸元を押さえた。

「わたしは、リリアです」

受付に沈黙が落ちた。

父は、まるで初めて妹を見たかのような顔をした。

「何を馬鹿なことを。お前が王太子妃になるには」

「わたしが王太子妃になるために、誰かを消す必要があるなら、わたしはずっと消された人の影を踏んで立つことになります」

「それが貴族の務めだ」

「違います」

リリアは泣いていた。

けれど、声は昨日よりしっかりしていた。

「お姉様は、わたしの名前はリリアだと言いました」

その言葉で、父だけでなく、わたしも息を止めた。

覚えているのだ。

名前は思い出せなくても、あの朝の言葉は残っている。

リリアは受付の奥へ視線を向けた。わたしがいる場所を知っているわけではない。けれど、何かを探すような目だった。

「だから、お父様。もうやめてください」

「お前は分かっていない。王太子妃の座を失えば、ベルレイン家は」

「家のために、もう誰かの名前を使わないでください」

父は手を振り上げた。

わたしは反射的に扉を開けた。

けれど、ノア様の方が早かった。

父の手首を掴む。静かな動きだったが、父は一歩も動けなくなった。

「名簿院内での暴力行為は、即時退去の対象です」

「放せ!」

「退去を」

ノア様が言うと、警備職員が二人出てきた。

父は抵抗したが、貴族としての体面が最後に勝ったのだろう。乱暴に手を振りほどき、リリアを睨んだ。

「後悔するぞ」

リリアは涙をこぼしながらも、答えた。

「後悔しても、自分の名前でします」

父は名簿院を出ていった。

馬車の扉が閉まる音が、遠く響く。

受付には、リリアだけが残った。

わたしは扉の影から出なかった。

出れば、何かが壊れる気がした。

リリアは深く頭を下げた。

「名簿院の皆様。ご迷惑をおかけしました」

ノア様が頷く。

「用件は以上ですか」

「ひとつ、お願いがあります」

リリアは小さな包みを差し出した。

真珠の髪飾りだった。あの朝、床に落ちたもの。

「これを、直してくださった方に返してください。わたしには、もう使えません」

わたしは息を呑んだ。

髪飾りには、わたしが縫い込んだ祝福糸がほとんど残っていなかった。けれど、真珠そのものは割れていない。

ノア様は包みを受け取った。

「預かります」

リリアはもう一度頭を下げ、出ていった。

受付が静かになる。

わたしはしばらく動けなかった。

ノア様が作業室へ入ってきて、包みを机に置いた。

「どうする」

「まだ、分かりません」

わたしは真珠の髪飾りに触れた。

リリアがわたしを傷つけたことは消えない。けれど、彼女もまた、父と王太子に名前を都合よく使われようとしていた。

許すかどうかは、まだ決められない。

でも。

「これは、預かります」

わたしは言った。

「リリアという名前が、本当に彼女のものになるまで」

ノア様は頷いた。

その日、わたしは初めて、妹を敵ではなく一人の人間として考えた。