軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第005話 祝福灯が消えた婚約式

王宮へ向かう馬車は、名簿院のものだった。

黒塗りの質素な車体で、扉に開いた本と糸の徽章が刻まれている。ベルレイン家の馬車のような飾りはない。けれど、乗り心地は思ったよりよかった。

隣にはノア様が座っている。

向かいには、護衛兼記録係として名簿院職員のマルタがいた。彼女は受付で笑顔を崩さない人だが、今日は厚い帳簿と短剣を膝に置いている。

「短剣も持つのですね」

「受付は最前線ですから」

マルタは平然と言った。

「苦情を言う貴族、泣く平民、怒鳴る騎士、名札を食べる犬。全部来ます」

「名札を食べる犬」

「去年、三件ありました」

わたしは思わず笑ってしまった。

王宮へ行くのが怖くないわけではない。ユリウス殿下に会うかもしれない。リリアに会うかもしれない。父に会うかもしれない。

それでも、馬車の中で笑える。

わたしはもう一人ではないのだと思った。

王宮の正門では、衛兵がわたしたちを止めた。

「修復者リネアを確認する」

「名簿院職員三名、王太子府依頼第九十八号の作業で入城する」

ノア様が淡々と答える。

「修復者の顔を」

「作業許可書に顔確認の条項はない」

「しかし、殿下の命令で」

「作業を遅らせるなら、遅延加算を入れる」

衛兵は慌てて門を開けた。

マルタが小声で言う。

「五倍に加えて遅延加算。王太子府の会計係、今夜泣きますね」

「泣くのは無料です」

「リネアさん、それ気に入ってますね」

馬車は王宮の敷地へ入った。

懐かしい景色だった。

白い回廊。噴水。季節の花。昔のわたしは、この庭を歩くたびに背筋を伸ばしていた。王太子妃候補として相応しくあらねばならない。笑いすぎてもいけない。怒ってもいけない。疲れてもいけない。

今は、作業用の紺色の服を着ている。裾の短い外套。腰には糸切り鋏と針箱。靴は歩きやすい。

王宮は同じなのに、わたしの足取りは別人のものだった。

式典大広間へ入ると、祝福灯は本当にすべて消えていた。

天井から吊るされた銀の灯籠が、黒い殻のように沈黙している。いつもなら婚約式のために淡い金色の光を放ち、参列者の名を祝福の糸で結ぶはずだった。

けれど今は、糸が絡まり、ところどころ白く切れている。

「ひどいですね」

わたしは呟いた。

「昨日、誰かが無理に妃候補名簿へ別名を入れようとしたらしい」

ノア様が灯籠の下を見上げる。

「祝福灯は候補者名を軸に点く。軸が空白なのに別名を押し込めば、灯りの方が拒む」

「つまり、自業自得です」

マルタが帳簿にそう書きかけたので、わたしは慌てて止めた。

「公式記録には別の言葉を」

「では、原因は不適切な名簿操作、と」

「それでお願いします」

作業台を広げていると、広間の反対側の扉が開いた。

ユリウス殿下だった。

金髪は整えられているが、目の下には疲れが見えた。隣にはリリアがいる。昨日よりずっと青白い顔をして、薄桃色のドレスの袖を握りしめていた。

わたしの心臓が、一度だけ強く跳ねた。

ユリウス殿下は、わたしを見た。

眉をひそめる。

分からないのだ。

目の前にいるのが、十年間婚約者だった女だと。

それでも、どこか引っかかるものがあるのだろう。彼は苛立ったように口を開いた。

「お前がリネアか」

「名簿院臨時職員のリネアです。王太子府依頼第九十八号、祝福灯修復のため参りました」

「形式はいい」

「形式がないと、請求書が通りません」

マルタが小さく肩を震わせた。笑いを堪えている。

ユリウス殿下の顔が険しくなった。

「お前は、昨日ベルレイン家にいた女か」

「その質問は、作業範囲外です」

「答えろ」

ノア様が一歩前に出た。

「殿下、旧名照会は禁止されています。違反すれば、名簿院は作業を停止します」

「アステル。お前は誰の側だ」

「名の側です」

短い答えだった。

ユリウス殿下は舌打ちをした。昔のわたしなら、その音だけで体が固まったと思う。殿下の機嫌を損ねた。取り返さなければ。そう考えただろう。

けれど今は、灯籠の状態の方が気になった。

切れた糸を放置すると、隣の祝福紋まで傷む。

「作業を始めます」

わたしは台に上がり、最初の灯籠を開けた。

内部の銀芯は黒く焦げていた。祝福灯は魔法の炎ではなく、名前に結ばれた祈りを光へ変える道具だ。名前を無理にねじ込めば、祈りの流れが詰まり、芯が焼ける。

「妃候補名を空白のまま、参列者の安全灯だけ復旧します」

「妃候補名も直せ」

ユリウス殿下が言った。

「リリアを登録すればいい」

わたしは針を止めなかった。

「リリア様ご本人は、その名で登録を望まれていますか」

広間が静かになった。

リリアが顔を上げる。

「わたしは……」

ユリウス殿下が彼女の肩に手を置いた。

「当然だ」

「殿下ではなく、ご本人に聞いています」

自分の声が思ったより冷たく響いた。

リリアは唇を震わせた。

「わたしは、殿下の妃になりたいです」

「はい」

「でも、エレ……その、聖女名を名乗ると、胸が苦しくなります。わたしの名前ではないから」

ユリウス殿下の手に力が入る。

「リリア」

「殿下。わたし、リリアです」

か細い声だった。

それでも、初めて妹が自分の名前を自分のために口にした気がした。

「リリア・ベルレインとして、殿下の隣に立つことはできないのですか」

神官が困ったように目を伏せた。

「王家の古例では、王太子妃候補には聖女名が望ましいとされています」

「望ましい、ですか」

わたしは問い返した。

「必須ではありませんね」

神官が目を瞬く。

ノア様が口元を押さえた。たぶん、笑ってはいない。ただ、少しだけ面白がっている。

「古例上は、必須ではありません」

「では、名簿院としては、本人の名による登録が可能です。ただし妃候補名簿は本件作業範囲外なので、別依頼として法務確認のうえお申し込みください」

マルタがものすごい速さで記録している。

ユリウス殿下は怒りで頬を赤くした。

「リリアに恥をかかせるつもりか」

「名前を借り物にする方が、よほど恥をかかせます」

言ってから、息を呑んだ。

昔のわたしなら、絶対に口にしなかった言葉だった。

ユリウス殿下も驚いたようにわたしを見ている。誰かに似ている、という目だ。思い出せない。けれど、腹立たしい。そんな表情だった。

「お前は何者だ」

「請求書に書いてあります」

わたしは最後の糸を結んだ。

祝福灯の一基が、淡く光る。

金ではなく、柔らかな白い光だった。参列者を飾るためではなく、足元を照らすための光。

ひとつ点くと、隣の灯籠も応じる。広間の天井に、小さな星が戻っていく。

リリアが見上げて、小さく呟いた。

「きれい」

わたしは台から降りた。

「安全灯のみ復旧しました。妃候補名簿には触れていません」

ノア様が検収書を差し出す。

「王太子府の署名を」

ユリウス殿下は悔しそうに筆を取った。

かつて、わたしが婚約者として何度も見た手だった。王命の草案、遠征の指示書、祝祭の挨拶。彼の署名はいつも迷いがなく、美しかった。

けれど今日、その署名の線は乱れていた。

わたしは検収書を受け取り、王宮を出た。

背中に、リリアの視線を感じた。

振り返らなかった。

まだ話すには早い。

けれど、彼女が自分の名を口にしたことだけは、胸の奥に残っていた。