作品タイトル不明
第050話 リネア・エレノア
将来協議申込書から半年後、わたしとノア様は正式な婚約契約書を作った。
作成には三週間かかった。
理由は、わたしがすべての条項を細かく確認したからであり、ノア様もそれを当然として受け止めたからであり、マルタが「教材にするならもっと分かりやすい表現に」と赤を入れたからである。
結果、婚約契約書は非常に実用的なものになった。
本人同意。婚約解消時の名の扱い。婚姻後の使用名。職務継続。居住選択。家名併記の可否。旧名照会禁止。子が生まれた場合の命名手続き。互いの名を相手の権限で変更しないこと。
ロマンチックとは言いがたい。
けれど、わたしには何より安心できる契約書だった。
署名欄の前で、ノア様が言った。
「本当に、この名でいいのか」
婚約契約書のわたしの名は、リネア・エレノアとした。
家名はまだ入れない。
リネアは今の名。
エレノアは内側に置いてきた旧名であり、母からもらった名であり、エレノア条項の名だ。
婚約にあたり、わたしはその名を隠すのではなく、自分で選んだ第二名として扱うことにした。ベルレイン家のエレノアではない。王太子妃候補の聖女名でもない。
リネアの中にある、エレノア。
「はい」
わたしは答えた。
「この名で署名します」
「アステルを入れなくていいのか」
「婚姻時に協議します。今は婚約です」
「正確だ」
「名簿院ですので」
ノア様は笑った。
わたしは署名した。
リネア・エレノア。
その文字を見た瞬間、胸元の名札が温かくなった。
表のリネア。裏のエレノア。
二つが、初めて同じ紙の上で並んだ。
ノア様が隣に署名する。
ノア・アステル。
婚約は、名簿院の小さな応接室で行われた。立会人はマルタ、リリア、ユリウス殿下、セレスティア王女、エレナ公爵夫人、グレン隊長、そしてトマ。
人選が混沌としていると言われたが、わたしとノア様にとって大切な人たちだ。
トマは立会人欄に名前を書くとき、手を震わせた。
「俺、字うまくなっただろ」
「はい。とても」
「リネアさんの婚約の記録に残る?」
「残ります」
彼は満足そうに頷いた。
リリアは泣いていた。
「おめでとう、リネア」
「ありがとう、リリア」
「ノア様、リネアを泣かせたら」
言いかけて、彼女は止まった。
昔なら「許しません」と可愛らしく言っただろう。今のリリアは少し考え、言い直した。
「リネアが嫌だと言ったことを、聞き流さないでください」
ノア様は真剣に頷いた。
「約束する」
ユリウス殿下は、少し離れて祝福した。
「リネア・エレノア。ノア・アステル。おめでとう」
彼がわたしの名を正しく呼んだことに、胸が静かに反応した。
もう痛みだけではなかった。
「ありがとうございます、ユリウス殿下」
リリアとユリウス殿下は、まだ面会記録を続けている。婚約し直す話は出ていない。ただ、彼は教室へ定期的に通い、彼女は自分の仕事を続けている。二人の未来は、二人のものだ。
婚約式の後、ノア様と中庭へ行った。
セラフィーナの席に、婚約の報告をするためだ。
ノア様が妹の名を呼ぶ。
「セラフィーナ・アステル」
木札が淡く光った。
わたしは微笑んだ。
「セラ様。ノア様の名前の隣に、わたしの名前を書きました」
風が吹く。
楡の葉が揺れる。
返事は聞こえない。
でも、祝福された気がした。
ノア様がわたしの手を取った。
「リネア・エレノア」
「はい」
「君の名前を呼べることを、誇りに思う」
胸がいっぱいになった。
「わたしも、ノア・アステルの名前を呼べることを、嬉しく思います」
わたしたちは、しばらく手をつないで立っていた。
婚約は終わりではない。
これからも書類は増えるし、改革は続くし、問題も起きる。名前を守る仕事に終わりはない。
でも、隣に名前を並べたいと思える人がいる。
それは、わたしにとって十分すぎるほど幸福なことだった。