作品タイトル不明
第049話 名前を返す日
王都で「名前を返す日」が始まったのは、白紙病から一年後のことだった。
正式名称は、自署名確認日。
けれど、下町の人々が自然にそう呼び始めた。
名前を返す日。
奪われた人に返す。忘れかけた人に返す。自分で書いたことのない人に、自分の名前を返す。
その名前が広まり、ついには王宮の布告にも併記されることになった。
当日、王都の広場には長い机が並んだ。
名簿院、救貧院、兵士、教会、商人組合、貴族院。多くの団体が参加した。子どもも大人も、貴族も平民も、王族も、自分の名前を確認する。
最初に署名したのは、王妃オレリアだった。
彼女は自分の名を書き、続けて責任記録基金の署名も更新した。王妃としてだけでなく、オレリア個人として。
次にユリウス殿下とセレスティア王女。
ユリウス殿下は、王太子権限制限中の署名欄へ自分で確認印を入れた。セレスティア王女は「兄上の字が少し丁寧になりましたね」と言い、彼は「宿題の成果だ」と返した。
リリアは救貧院の机にいた。
彼女の周りには子どもたちが集まっている。サナは今年、パンの絵の隣に自分の名前を三文字書けるようになっていた。トマはもう、受付の補助をしている。
「次の人、名前を言って!」
「急かさない」
リリアに注意され、トマは舌を出した。
北門守備隊は、兵士名簿の自署更新を行った。グレン隊長は、兵士たちに個人名を大声で言わせている。通りが少し騒がしいが、誰も文句を言わなかった。
ベルレイン伯爵家からは、セドリックが使用人代表として来た。
父は来なかった。
まだ人前で自分の名を確認することに抵抗があるのだろう。あるいは、体面を捨てきれないのかもしれない。
ただ、彼の自署控えはセドリックが持ってきた。
カール・ベルレイン。
字は少し乱れていた。
「旦那様は、これを書くのに三日かかりました」
セドリックが言った。
「何度も破り、何度も書き直し、最後にこれを預けられました」
「そうですか」
「リネア様に見せるべきか迷われていました」
わたしはその控えを見た。
父の名前。
以前なら、父は爵位で自分を示した。ベルレイン伯爵。それが彼のすべてだった。今、彼は個人名を書いている。
遅い。
でも、記録する価値はある。
「受け取りました、とお伝えください」
「承知しました」
午後、わたしは中央の机で受付を担当した。
名前を聞き、署名を見て、控えを作る。単純な作業だ。けれど、一人ずつ違う。
震える手で初めて名前を書く老女。
結婚後も出生名を併記したいという女性。
亡くなった夫人の名を、墓標に正しく入れたいという男性。
読み書きできない移民の子が、母国語の音で自分の名を歌う。
どれも、名前だった。
夕方、ノア様が隣に座った。
「交代する」
「まだ大丈夫です」
「昼食を抜いている」
「どうして分かるのですか」
「君は集中すると食べない」
彼はパンを差し出した。
蜂蜜を塗ったパンだった。
一瞬、あの朝の記憶がよみがえる。
父の言葉。半分残ったパン。名前まで妹に譲れと言われた朝。
ノア様が気づいた。
「嫌なら別のものを」
「いいえ」
わたしはパンを受け取った。
「食べます」
蜂蜜の甘さが、舌に広がる。
あの朝のパンとは違う。これは、わたしが自分の仕事の合間に、自分の名前で受け取ったパンだ。
記憶は上書きではなく、重なっていく。
嫌な記憶の上に、別の温かい記憶を置けることもある。
広場の中央では、名前を返す日の最後の儀式が始まった。
白の名簿に接続された大きな布へ、参加者全員の自署控えが光として映る。文字、絵、印、歌の波形。いろいろな形の名前が、夜空の星のように広がった。
トマが叫ぶ。
「リネアさんのもある!」
確かに、布の一角にリネアの文字が光っていた。
その裏に、小さくエレノアの線もある。
わたしはそれを見上げた。
奪われそうになった名前と、自分で選んだ名前。
どちらも、今はわたしを苦しめるだけのものではない。
ノア様が隣で言った。
「綺麗だな」
「はい」
「君の名前が、光っている」
「ノア様の名前も」
彼は少し照れたように視線を逸らした。
広場の灯りが、ゆっくりと夜に溶けていく。
名前を返す日。
それは、わたし自身にも名前が返ってきた日だった。