作品タイトル不明
第044話 新しい祝福灯
春の王宮舞踏会は、毎年、貴族社会で最も華やかな行事だった。
以前のわたしは、その舞踏会に王太子妃候補として出席するため、何週間も前から準備していた。ドレス、髪飾り、挨拶、立ち位置、踊る順番。すべてが決められていて、間違えればベルレイン家の恥になると言われた。
今年、わたしは名簿院職員として出席した。
目的は、新しい祝福灯の点灯確認である。
白紙病以降、王宮の儀式祝福は大きく見直された。祝福灯は参加者の名を勝手に結ぶのではなく、入場時に本人が同意札を通した場合のみ、足元を照らす。婚姻や忠誠や家名への結びつきは発生しない。
ただの灯り。
けれど、人の名前を勝手に使わない灯り。
それは、大きな進歩だった。
わたしは紺色の礼装を着ていた。名簿院職員用の正装で、胸元には開いた本と一本の線の徽章がある。華やかではないが、動きやすく、針箱も持てる。
マルタはわたしを見て言った。
「リネアさん、完全に仕事用ですね」
「仕事ですので」
「でも、ノア様が見たら喜びそうです」
「なぜですか」
「似合うからです」
そう言われると、少し落ち着かなくなった。
大広間は以前と同じように美しかった。
白い花、磨かれた床、楽団の音。けれど、天井の祝福灯は変わっていた。金色ではなく、柔らかな白。名を飾るためではなく、歩く人の足元を守る光。
わたしは一基ずつ確認していた。
そこへ、ユリウス殿下が来た。
「リネア。点灯状況はどうだ」
「良好です。参加者同意札の反応も安定しています」
「そうか」
彼は少しほっとしたようだった。
王太子権限は制限中だが、舞踏会の主催補佐として働いている。以前なら、彼はこうした細かな確認を側近に任せていた。今は自分で名簿を見ている。
「リリアは来ているか」
「はい。救貧院自署名教室の協力員として招待されています」
「そうか」
彼の声には緊張があった。
「殿下」
「何だ」
「リリアに会う前に、同意札を通してください。今日の祝福灯は全員同じ手続きです」
彼は一瞬きょとんとしてから、笑った。
「王太子もか」
「王太子もです」
「分かった」
ユリウス殿下は同意札へ自分の名を書いた。
足元の灯りが淡く点く。
その光は、王太子だから強いわけではなかった。トマの同意札が点ける光と同じ、柔らかな白。
彼はそれを見て、小さく言った。
「悪くない」
リリアは、白と淡桃色の簡素なドレスで来ていた。
以前のように、誰かに守られる花のような装いではない。自分で選んだ服だと分かる。胸元には、リリア・ベルレインと自分で刺繍した名札があった。
彼女は子どもたちを連れていた。
救貧院の代表として、トマ、サナ、ミアが招待されたのだ。貴族たちは最初驚いていたが、白紙病の後では誰も露骨に文句を言えなかった。むしろ、子どもたちの自署札を興味深そうに見る者もいた。
「リネア!」
トマが走ってきた。
「王宮の床、すげえ滑る!」
「走らないでください」
「走ってない。速く歩いた」
「それを走ると言います」
サナは祝福灯を見上げて、パンの絵の同意札を握っていた。
「光った」
「サナが同意したからです」
「パンでも?」
「はい。パンでも」
その会話を、数人の貴族が聞いていた。
以前なら笑ったかもしれない。けれど、今は誰も笑わなかった。名前の形は一つではない。白紙病を経験した王都では、それを多くの人が理解し始めている。
舞踏会の途中、新しい儀式が行われた。
王宮名簿改革の宣言。
王妃、ユリウス殿下、セレスティア王女、名簿院、兵士代表、市民代表、救貧院代表が並び、エレノア条項の実施を正式に告げる。
その中心に、わたしも立った。
以前なら、王太子妃候補としてユリウス殿下の隣に立つはずだった場所だ。
今は違う。
名簿院職員リネアとして、ノア様の隣に立っている。
王妃が宣言する。
「名は、本人が名乗り、他者が呼び、共同体が認めることで成立する。王宮は、本人同意なく名を譲渡、消去、上書きしない。白の名簿は、救済のためにのみ用い、共同監査のもとで管理する」
大広間の祝福灯が淡く光った。
拍手が起きる。
貴族、平民、兵士、子どもたち。全員が同じ光の中にいた。
式の後、ノア様がわたしへ手を差し出した。
「一曲、踊るか」
驚いた。
「仕事中です」
「点灯確認は終わった」
「でも」
「断ってもいい」
その言葉が、逆に背中を押した。
断れると分かっているから、選べる。
「踊ります」
わたしは彼の手を取った。
ノア様の踊りは、正確で静かだった。王宮の華やかな踊りというより、相手の歩幅を確認しながら進むような踊り。わたしは昔の教育で踊りを習っていたが、こんなに息がしやすい舞踏は初めてだった。
「怖くないか」
「少し」
「大広間か」
「はい。ここには、昔の記憶が多いので」
「帰ってもいい」
「いいえ。今は、ここで踊りたいです」
ノア様は頷いた。
曲がゆっくりと流れる。
視界の端で、リリアとユリウス殿下が話しているのが見えた。二人は踊らない。ただ、同じ高さで向き合っている。リリアが何か言い、ユリウス殿下が真剣に頷く。
それでいいと思った。
急いで元に戻る必要はない。
曲の終わりに、ノア様が静かに言った。
「リネア。君がこの広間で、自分の名前で立っていることを嬉しく思う」
胸が熱くなった。
「わたしもです」
拍手の中、祝福灯が足元を照らす。
名前を縛らない灯り。
その光の下で、わたしは初めて王宮を少しだけ好きになれた気がした。