作品タイトル不明
第045話 ベルレイン家の新しい家系図
ベルレイン伯爵家の家系図監査は、春の終わりに完了した。
処分は厳しかった。
父カール・ベルレインは、家系図管理権限を十年間停止された。婚姻、相続、名譲りに関する決定は、第三者名簿師と貴族院監査の承認が必要となる。ベルレイン家は王太子妃候補問題に関する不正で罰金を科され、領地運営の一部も監督下に置かれた。
爵位剥奪までは至らなかった。
被害者であるわたしとリリアの意見も考慮された結果だ。父を完全に消すことではなく、権限を制限し、被害を防ぎ、責任を記録する。それが名簿院の方針だった。
監査完了の日、わたしはベルレイン邸を訪れた。
ノア様と第三者名簿師、そしてリリアが同行した。
門をくぐると、あの朝の記憶がよみがえる。
門番がわたしを見て、深く礼をした。
「名簿院のリネア様」
「お世話になります」
もう、お嬢様ではない。
それでいい。
屋敷の中は、以前より静かだった。無理な祝福紋は外され、必要なものだけが修復されている。食堂の水避け、使用人給金名簿、倉庫の鍵。豪華さは減ったが、生活は安定していた。
セドリックが案内してくれた。
「リネア様。使用人たちは皆、給金名簿の件を感謝しております」
「仕事ですから」
「それでも、感謝は記録とは別に申し上げたく」
彼らしい言い方だった。
監査の最後に、家系図の箱が開かれた。
あの朝、わたしが抹名届を取り出した黒檀の箱。
父は椅子に座っていた。以前より痩せている。リリアが彼の隣に立つ。父はわたしを見て、長い沈黙のあと、言った。
「リネア」
「はい」
「今日は、何をする」
「ベルレイン家の家系図に、監査注記を入れます。強制名譲り未遂、偽名札使用、家系図管理権限停止。それから」
わたしは少し息を吸った。
「わたしの抹名記録を、本人意思によるものとして明確化します」
父の顔が歪んだ。
家系図には、わたしの名前は戻らない。
戻さない。
けれど、空白のままにもしておかない。
そこに注記を入れる。
「長女エレノア・ベルレインは、本人意思により抹名。名譲りは成立せず。現在名リネア。ベルレイン家成員ではない。旧名の無断使用を禁ずる」
第三者名簿師が読み上げる。
父は目を閉じた。
「それで、お前は本当に戻らないのだな」
「はい」
「私が謝っても」
その言葉に、わたしは父を見た。
謝る。
初めて、父がその単語を自分から口にした。
「謝罪は、戻るための条件ではありません」
わたしは静かに言った。
「謝罪したいなら、わたしを戻すためではなく、あなたがしたことを認めるためにしてください」
父は長く黙った。
やがて、かすれた声で言った。
「私は、お前の名前を奪おうとした。家のためだと言って、お前を見なかった。すまなかった」
短い謝罪だった。
十分ではない。
十年分の無視も、あの朝の痛みも、これで消えるわけではない。
でも、謝罪ではあった。
「受け取りました」
わたしは言った。
「許すかどうかは、まだ分かりません」
「そうか」
父は頷いた。
以前なら、許さないと言われたら怒っただろう。今は、怒る力もないのかもしれない。あるいは、少し学んだのかもしれない。
リリアが家系図へ自分の名を確認した。
リリア・ベルレイン。
その横には、本人名保持の注記が入る。婚姻や養子縁組があっても、本人同意なく名を変更しない。
「これで、わたしの名前も守られるのですね」
「はい」
リリアは父を見た。
「お父様。わたしはベルレイン家の娘ですが、家の道具ではありません」
父は静かに頷いた。
「分かった」
どこまで本当に分かっているかは、時間が示す。
だから、記録と監査がある。
家系図の箱を閉じる前に、わたしはあの朝の自分を思い出した。
蜂蜜のパン。父の命令。リリアの涙。ユリウス殿下の手。抹名届。
あのときのわたしは、ただ奪われないために逃げた。
今のわたしは、逃げた先で得た名前で、家系図に注記を入れている。
戻らないために。
そして、次に誰かが奪われないために。
屋敷を出ると、春の風が吹いた。
あの日と同じ風だった。
でも、門が閉まる音はもう軽いだけではなかった。
過去の一部を、正しく記録した音だった。