作品タイトル不明
第043話 公爵家の晩餐
アステル公爵家へ招かれたのは、春の気配が戻り始めたころだった。
名目は、白の名簿改革委員会における名簿院職員への慰労。実際には、ノア様がわたしを家族に紹介するためだったと思う。
そう気づいたのは、馬車の中である。
「アステル公爵家には、どなたがいらっしゃるのですか」
わたしが尋ねると、ノア様は少し間を置いた。
「母と叔母。それから、遠縁の子どもが二人」
「事前に心の準備をした方がよい情報では」
「すまない」
「いえ。業務の慰労だと思っていました」
「業務でもある」
「でも、それだけではありませんよね」
ノア様は窓の外を見た。
耳が少し赤い。
「君を、私の大切な人として紹介したい」
馬車の中が急に狭くなった気がした。
大切な人。
その言葉を、わたしはすぐに処理できなかった。
ノア様は続けた。
「ただし、君に何かを迫るつもりはない。家族に紹介することが負担なら、慰労会として扱う。君の意思を」
「行きます」
わたしは言った。
少し声が大きかった。
「行きたいです。緊張しますが」
ノア様はわたしを見た。
「そうか」
「はい」
馬車の窓に映る自分の顔は赤かった。
アステル公爵家は、王宮ほど華やかではないが、静かな品があった。庭には派手な花ではなく、薬草と白い小花が植えられている。屋敷の扉には、家名だけでなく、住む者の個人名が小さな名札で並んでいた。
ノア・アステル。
エレナ・アステル。
ミリア・アステル。
そして、少し離れたところに、セラフィーナ・アステル。
白の名簿保護名。
それを見て、胸が温かくなった。
ノア様の母エレナ公爵夫人は、銀髪の上品な女性だった。彼女はわたしを見ると、深く礼をした。
「あなたがリネアさんですね。息子と、娘の名前を守ってくださってありがとう」
「わたしだけの力ではありません」
「それでも、母としてお礼を言わせてください」
その言葉に、胸が詰まった。
母として。
クラリスとは違う人の母の声。
晩餐は穏やかだった。
公爵家の食卓と聞いて緊張していたが、エレナ夫人は堅苦しい儀礼を嫌う人らしい。料理は温かく、会話は静かで、誰もわたしの旧名を詮索しなかった。
遠縁の子どもたちは、自署名教室の話を聞きたがった。
「パンの絵でも名前になるの?」
「本人がそれを自分の名へつなげていれば、控えになります」
「じゃあ、僕は竜の絵がいい」
「まず自分の名前も書きましょう」
子どもたちは不満そうだったが、ノア様が「竜だけでは配給名簿が困る」と言うと納得した。
食後、エレナ夫人がわたしを中庭へ案内してくれた。
そこには小さな碑があった。
セラフィーナ・アステル。
名簿院の中庭に置いた名札と同じように、ここにも彼女の名がある。
「この碑を置くまで、私は娘の名前を口にするのが怖かったのです」
エレナ夫人は言った。
「忘れてしまったらどうしよう。呼んでも返ってこなかったらどうしよう。そう思って、逆に呼べなかった」
「今は」
「朝、呼びます。夜にも。返事は聞こえませんが、木札が光ることがあります」
彼女は微笑んだ。
「十分ではありません。でも、何もないよりずっといい」
ノア様と同じ言葉だ。
親子なのだと思った。
「リネアさん」
「はい」
「息子は、守ることと抱え込むことをよく混同します」
わたしは少し笑った。
「分かります」
「あなたは、守られるだけの方ではないのでしょう」
「守られることも、少しずつ学んでいます」
「では、息子にも学ばせてください。誰かを守りながら、その人に守られることも」
その言葉に、胸が温かくなった。
帰りの馬車で、ノア様が尋ねた。
「母に何か言われたか」
「秘密です」
「そうか」
「でも、よいお母様ですね」
「強い人だ。セラの件で一時はほとんど眠れなかった。それでも、名簿院を責めなかった。私が名簿院に残ることも許してくれた」
「ノア様は、名簿院を離れようと思ったのですか」
「何度も」
「なぜ残ったのですか」
「セラの名を、誰かが探し続ける必要があったから」
彼は少し黙った。
「今は、それだけではない」
「何ですか」
「君がいる」
また、馬車の中が狭くなる。
わたしは窓の外を見た。
春の夜、王都の灯りが流れていく。
「ノア様」
「何だ」
「その言葉は、かなり強いです」
「そうか」
「はい」
「では、記録しておく」
「記録しないでください」
彼が少し笑った。
わたしも笑った。
名前を奪われかけた朝から、ずいぶん遠くまで来た。
誰かの家へ招かれ、大切な人として紹介される。そんな未来があるとは、あの朝のわたしは思わなかった。
まだ答えを急ぐ必要はない。
でも、ノア様の隣にいると、自分の名前が静かに落ち着く。
それは、確かなことだった。