作品タイトル不明
第042話 空白の名札
正式職員用の針箱に入っていた空白の名札を、わたしはなかなか使えなかった。
何を書くべきか分からなかったからだ。
リネアと書くには、もう自署控えがある。エレノアと書くには、それは過去と条項の中に置いた名だ。二つを並べるには、まだ心の準備ができていない。
空白のまま、机の引き出しにしまっていた。
ある日、ノア様がそれに気づいた。
「まだ空白か」
「はい」
「焦る必要はない」
「そう言ってくださると思いました」
「言いすぎているか」
「いいえ。助かっています」
わたしは名札を取り出した。
白い布。何も書かれていない余白。
かつて、空白は怖かった。家系図から自分の名が消えたとき、白い枝を見て、自分が世界から落ちたように感じた。
今は違う。
空白は、選ぶ前の余白でもある。急いで埋めなくてもいい場所。
「ノア様は、最初の名札に何を書いたのですか」
「ノア・アステル」
「そのまま?」
「当時の私は、家名を背負うことしか考えていなかった」
「今なら?」
彼は少し考えた。
「ノア、とだけ書くかもしれない」
その答えに、少し驚いた。
「公爵家の名は?」
「大事だ。だが、私自身の名を先に確認したいと思うようになった」
白紙病以降、ノア様も変わっていた。
彼は以前より少し休むようになった。セラの席へ時々行き、妹の名を呼ぶ。王妃への怒りは消えていないが、必要な書類は冷静に交わす。わたしを守ろうとして一人で決めることも、少し減った。
完全ではない。
でも、人は完全に変わるのではなく、少しずつ選び直すのだと思う。
「リネア」
「はい」
「君がその名札に何を書くか、私は知りたい。だが、急がなくていい」
「本当に、いつもその言葉ですね」
「君には必要だと思って」
「はい。必要です」
わたしは笑った。
その日の午後、白の名簿改革委員会の第一回会合が開かれた。
出席者は、名簿院、王宮、兵士代表、市民代表、教会、救貧院、貴族院。肩書きも立場も違う人々が、同じ机についた。
議題は、エレノア条項の実施細則。
本人同意の記録方法。自署控えの保管場所。名札紛失時の再発行手続き。未成年者の代理確認。婚姻による名変更の選択制。家系図管理権限の監査。
地味だった。
白の名簿を開いたときのような光はない。フェルゼン裁判のような劇的な場面もない。紙、紙、紙。確認、修正、差し戻し。
けれど、この地味さこそが大事なのだと思う。
手続きがなければ、次のリネアは守られない。次のリリアは自分の名前を保てない。次のトマは名札を奪われたとき戻れない。
会合の途中、貴族院代表が言った。
「婚姻時に家名を保持する選択制は、貴族家系を混乱させる」
わたしは資料を示した。
「家系図には、出生名、婚姻後名、本人使用名を分けて記録できます。混乱を避けるには、本人使用名を正式欄に入れる方がよいです」
「女性が婚家の名を名乗らない例が増えれば、家の威信が」
セレスティア王女が口を開く。
「威信より、本人同意です」
貴族院代表は黙った。
強い。
ユリウス殿下は議事録を取りながら、時々質問した。王太子が議事録を取る必要はないが、彼は「学ぶため」と言って続けている。
リリアは救貧院代表補佐として参加し、子どもたちが文字を書けない場合の印や絵の扱いについて意見を出した。
「サナのパンの絵は、本人が強く認識しています。文字だけを正式な自署とすると、幼い子や文字を学ぶ機会がなかった人が不利になります」
彼女の意見は採用された。
会合が終わるころ、わたしはくたくたになっていた。
派手な魔法より、会議の方が疲れるかもしれない。
ノア様が茶を置いてくれた。
「よくやった」
「まだ一回目です」
「一回目がなければ二回目はない」
「それは確かに」
わたしは茶を飲みながら、空白の名札を取り出した。
今日の会議で、少し分かったことがある。
わたしの名札に書くべきなのは、完成した答えではない。
今のわたしの状態だ。
わたしは薄青い糸を針に通した。
名札の中央に、まずリネアと縫う。
その下に、小さく線を引く。
そして、裏側にエレノアと縫った。
表はリネア。
裏はエレノア。
隠すためではない。
いつも見える名と、内側で支える名。
両方あって、今のわたしだ。
縫い終えると、名札が淡く光った。
ノア様が静かに見ている。
「よい名札だ」
「ありがとうございます」
「君らしい」
その言葉に、胸が温かくなった。
わたしは名札を針箱に戻した。
空白は埋まった。
でも、余白が消えたわけではない。
これからも、わたしは自分の名前の意味を少しずつ書き足していくのだと思った。