作品タイトル不明
第041話 母の墓標
母クラリスの再調査は、フェルゼン裁判の後も続いた。
直接の殺害証拠は見つからなかった。
病死の記録はある。医師の署名もある。けれど、その医師はフェルゼンの息がかかった人物で、診療記録の一部が欠けていた。母が亡くなる前に名簿院へ送った手紙も、数通が行方不明になっている。
分からない。
それが最終報告だった。
以前のわたしなら、その曖昧さに耐えられなかったと思う。白黒をつけたい。母の死に誰が関わったのか、はっきり知りたい。そう思っただろう。
今も思う。
けれど、分からないことを無理に物語へ押し込めることも、母の名を歪めるのだと知った。
だから、母の記録にはこう書かれた。
「クラリス・ベルレイン。旧姓ミュラー。名簿院協力者。強制名譲り相談員。聖女名保持者エレノアの母。死因は公式には病死。ただし、フェルゼン侯爵による監視および資料妨害が確認されており、死に至る経緯には未解明の疑義あり」
未解明の疑義あり。
冷たい言葉だ。
でも、嘘よりずっといい。
わたしはその写しを持って、ベルレイン家の墓地へ行った。
同行したのはノア様とリリアだった。
ベルレイン家の墓地は、屋敷の裏手の小さな丘にある。母の墓石には、クラリス・ベルレインとだけ刻まれていた。妻、母、伯爵夫人。その肩書きもない。父が建てた墓は、形式だけ整っていて、母の人柄を何も語らない。
わたしは墓石の前に膝をついた。
「お母様」
声が震える。
「あなたが守ってくれた名前で、わたしは逃げました。今はリネアとして働いています」
墓石は何も答えない。
でも、胸元の名札が温かかった。
「エレノアという名を、誰かを縛るものではなく、拒否するための条項にしました。勝手に使ってごめんなさい。でも、そうしたかったのです」
リリアも隣に膝をついた。
「クラリスお母様。わたしは、姉の名前を欲しがりました。あなたが守った名を、奪おうとしました。ごめんなさい」
リリアの声は涙で揺れていた。
「今は、子どもたちが自分の名前を書く手伝いをしています。少しでも、償いになるかは分かりません。でも、続けます」
風が吹いた。
墓地の草が揺れる。
ノア様は少し離れて立っていたが、やがて前へ来て、花を置いた。
「クラリス夫人。あなたの記録が、白の名簿を守りました。名簿院として感謝します」
母は、こんな未来を想像しただろうか。
娘が家系図から消え、リネアと名乗り、名簿院で働き、公爵と一緒に墓へ来る未来。
たぶん、想像しなかっただろう。
でも、母はわたしが拒否できるように糸を残した。
その糸が、ここまでつながった。
わたしは正式記録の写しを小さな防水箱に入れ、墓石の横へ埋めた。墓碑を改めるにはベルレイン家の手続きが必要だが、名簿院の保護記録として母の名をここに置くことはできる。
リリアが言った。
「墓石にも、いつか旧姓と名簿院協力者の記録を足したいです」
「ベルレイン家の家長権限が停止中です」
「はい。だから、正規の手続きで申請します。お父様の許可ではなく、母の記録に基づいて」
彼女は本当に変わった。
父の顔色を窺う娘ではなく、手続きを学ぶ人になった。
墓地を出る前に、わたしは墓石へ触れた。
「お母様。わたしは、エレノアを捨てたわけではありません。でも、戻るわけでもありません。リネアとして、あなたの名を覚えています」
胸元の名札が、もう一度温かくなった。
その温かさは、母の手のようだった。
帰り道、ノア様が言った。
「君は大丈夫か」
「分かりません」
「そうか」
「でも、分からないまま歩けます」
彼は頷いた。
「それは強い答えだ」
分からないことを、分からないまま記録する。
悲しみも、怒りも、母の死も。
それでも、名前を呼ぶことはできる。
クラリス・ミュラー・ベルレイン。
母の名を心の中で呼びながら、わたしは冬の丘を下りた。