作品タイトル不明
第038話 自署名教室
リリアの自署名教室は、救貧院の食堂から始まった。
長い机を三つ並べ、インク壺と木札と練習用の紙を置く。椅子の高さが合わない子には、古い箱を足台にした。壁には、マルタが大きく書いた注意書きが貼られている。
「名前は丁寧に。間違えても怒らない。人の名前を笑わない。順番を守る」
最後の一文だけ、赤い線が引いてあった。
リリアは最初、とても緊張していた。
彼女は王宮の礼儀作法や詩の暗唱なら完璧に教えられる。けれど、下町の子どもたちは貴族の子女とは違う。椅子に座っていられない子もいるし、インクで遊ぶ子もいる。トマは先生役をしたがり、サナはパンの絵ばかり描く。
「リリア、肩の力を抜いてください」
わたしが言うと、彼女は困った顔をした。
「抜いたら、教室が崩壊しそうです」
「少し崩壊してから整えるくらいで大丈夫です」
「それは、わたしには高等技術です」
真面目に答えるので、笑ってしまった。
最初の生徒はサナだった。
彼女は小さな手で筆を握り、紙の上に丸を描いた。パンの絵だ。リリアは一瞬、文字を書かせようとしたが、すぐに思い直したようだった。
「これは、サナの印ね」
「パン」
「ええ。パンのサナ印。では、この隣に、サ、という音を一つ書いてみましょう」
サナは舌を出しながら、震える線を書いた。
サ、には見えなかった。
でも、リリアは笑わなかった。
「できました。これは、あなたが初めて書いたサナの最初の音です」
サナは目を丸くした。
「名前?」
「名前の始まり」
サナは紙を抱きしめた。
リリアの表情が変わった。
誰かが自分の名前を初めて書く瞬間に立ち会う。それは、社交界で拍手を浴びるよりずっと静かで、ずっと強い喜びだったのだろう。
次にトマが来た。
「俺、もう書ける」
「では、もっと読みやすく書く練習をしましょう」
「読めるよ」
「本人だけでなく、名簿師や配給係にも読めると、もっと強い名前になります」
その説明に、トマは真剣になった。
「じゃあ、強くする」
彼は何度も自分の名前を書いた。途中で飽きて、リネアと書き始めたので、わたしは止めた。
「自分の名前を先に」
「リネアさんの控えも必要だろ」
「もう持っています」
「予備」
リリアが笑った。
教室は思ったより混乱したが、終わるころには十七人分の自署控えができた。文字になっていないものもある。絵、音、指で押した印。でも、それぞれが本人の名へつながっている。
リリアは片付けながら、ぽつりと言った。
「わたし、今まで人に教えることを、上から与えることだと思っていました」
「貴族教育では、そうなりがちです」
「でも、名前を書く練習は違うのですね。その子の中にある名前が、外へ出るのを手伝うだけ」
「はい」
「お姉……リネアは、ずっとそういうことをしていたのですね」
彼女は言い直した。
姉と呼ぼうとして、やめた。
わたしはそれに気づいたが、指摘しなかった。
「わたしも、学んでいる途中です」
「わたしもです」
リリアは手についたインクを見た。
「この手で、以前は姉の名前を欲しがりました。今は、誰かが自分の名前を書くのを手伝っています。不思議です」
「変わったのだと思います」
「許されるために変わるのではなく?」
「自分のために変わるのだと思います」
リリアは静かに頷いた。
帰り道、救貧院の外でユリウス殿下が待っていた。
護衛は少ない。王太子の豪奢な外套ではなく、簡素な上着を着ている。彼はリリアを見て、少し緊張したように背筋を伸ばした。
「リリア。教室を見学してもいいか」
リリアは驚いた。
「殿下が?」
「名簿院の宿題で、名の現場を見よ、と出された」
わたしはノア様を見た。
ノア様は何も言わないが、たぶん本当に出したのだろう。王太子への宿題は容赦がない。
リリアは少し迷い、言った。
「見学するなら、子どもたちの邪魔をしないでください」
「分かった」
「それから、殿下ではなく、ユリウス様として自己紹介してください。子どもたちが王太子という肩書きで固まってしまいます」
ユリウス殿下は一瞬戸惑った。
だが、頷いた。
「分かった。ユリウスとして」
それを聞いて、わたしは少しだけ安心した。
二人の関係が戻るかどうかは分からない。戻る必要があるかも分からない。ただ、リリアが自分の条件を言えるようになり、ユリウス殿下がそれを聞くようになった。
それは前進だ。
名簿院へ戻ると、ノア様がわたしの机に書類を置いた。
「自署名教室の正式事業化案だ」
「もうですか」
「現場報告が良かった。リリアの記録も使える」
「リリアが?」
「彼女は教え方の気づきを細かく書いている。貴族教育と平民教育の差も分析していた」
わたしは少し驚いた。
リリアはただ可憐な妹ではなかった。自分の場所を得れば、観察し、考え、働ける人だったのだ。
「彼女にも正式に協力員契約を出そうと思う」
「本人に確認してください」
「当然だ」
ノア様は軽く頷いた。
当然。
その言葉が、この場所では本当に当然になっている。
わたしは自署名教室の報告書を読みながら、ふと思った。
名前を自分で書く日。
いつか王都中で、それが当たり前になるかもしれない。
子どもも、兵士も、貴族も、王族も。
自分の名前を自分で確認することが、特別な改革ではなく日常になる。
そのための一歩が、インクで汚れた小さな食堂から始まった。
派手な祝福灯より、ずっと明るい光だと思った。