作品タイトル不明
第037話 名簿院正式職員リネア
臨時職員契約の三か月が終わる前に、名簿院はわたしへ正式採用の辞令を出した。
辞令は、思ったより質素だった。
厚い羊皮紙に、名簿院の徽章。職名は、名簿修復官補佐。担当は、自署名制度、本人名保護相談、白の名簿改革委員会連絡係。
長い。
マルタは辞令を見て言った。
「肩書きが長い人は、だいたい忙しいです」
「喜んでいいのでしょうか」
「給金は上がります」
「喜びます」
ノア様は辞令をわたしへ手渡した。
「受けるか」
「はい」
今回は迷わなかった。
もちろん、不安はある。白の名簿改革は始まったばかりで、フェルゼンの支持者も残っている。ベルレイン家の処分も、王太子位の再審査も、母の調査も終わっていない。
けれど、名簿院の机は、もうわたしの居場所になっていた。
「署名欄を確認しました。旧名照会はありません。本人同意条項も明記されています。給金も記載されています」
わたしが言うと、ノア様は頷いた。
「他に確認したいことは?」
「住み込み部屋の暖房は、冬までに改善されますか」
マルタが笑った。
ノア様は真面目に答える。
「改善する。北門の毛布だけでは足りない」
「では、署名します」
リネア。
正式職員辞令に、自分の名前を書く。
文字が乾くと、名簿院の壁の糸が淡く光った。
臨時ではなく、正式な所属。
家系図ではない。
自分で選んだ職場の名簿に、自分で署名した。
胸の奥が熱くなる。
その日、名簿院の職員たちが小さな歓迎会を開いてくれた。
受付の奥の休憩室に、焼き菓子と茶が並んでいる。北門守備隊から干し肉が届き、救貧院の子どもたちからは歪んだ字の寄せ書きが届いた。リリアは自署名教室の初日を終えて、少し遅れて来た。
「正式採用おめでとうございます、リネア様」
「ありがとうございます。教室はどうでしたか」
「大変でした。トマが先生役をしたがって」
「目に浮かびます」
「でも、楽しかったです。サナが初めて自分の名前の最初の文字を書けました」
リリアは嬉しそうに言った。
その笑顔は、王宮の夜会で見せていた華やかな笑顔とは違う。疲れていて、少し泥がついていて、でも本物だった。
「リリア様も、お疲れさまでした」
「様は、そろそろいらないかもしれません」
彼女は少し照れたように言った。
「リリアで構いません。わたしも、リネア様と呼ぶと、少し距離がある気がして」
わたしは迷った。
妹との距離をどうするか、まだ答えは出ていない。姉妹に戻れるのか。戻りたいのか。分からない。
でも、名前を呼ぶことから始めることはできる。
「リリア」
わたしが呼ぶと、彼女の目に涙が浮かんだ。
「はい、リネア」
姉とは呼ばなかった。
それでよかった。
今は、新しい名前同士で向き合う。
歓迎会の終わりに、ノア様が小さな箱を差し出した。
「正式職員用の針箱だ」
箱は黒檀でできていた。蓋には、開いた本と一本の線が彫られている。中には、名簿院の薄青い糸、銀の針、糸切り鋏、そして小さな空白の名札が入っていた。
「空白の名札?」
「自分で用途を決めるものだ。名簿修復官は、最初に一枚だけ持つ」
「何を書けば」
「急がなくていい」
また、その言葉。
わたしは笑った。
「では、まだ空白にしておきます」
「それでいい」
歓迎会のあと、わたしは自分の机に戻った。
机の上には、最初に署名した臨時契約書の写し、トマが書いたリネアの控え、母の名札の写し、そして正式辞令が並んでいる。
いろいろな線が、ここへつながった。
ベルレイン家の朝食室から、下町の屋台、名簿院、王宮、白の名簿、そしてまたこの机へ。
わたしは空白の名札を手に取った。
まだ何も書かない。
空白は、奪われた跡ではなく、選ぶ前の余白にもなれる。
そう思えるようになったことが、何よりの変化だった。