作品タイトル不明
第036話 王妃の署名
王妃オレリアの再審理は、静かに始まった。
フェルゼンほど派手ではない。王妃は罪を否定しなかった。八年前の実験に承認印を押したこと。セラフィーナの保護者同意を確認しなかったこと。実験後、記録を封じる判断を止めなかったこと。
彼女は一つずつ、自分の名で認めた。
王妃を裁くことは簡単ではない。
王族に直接刑を科すには、王と貴族院、名簿院の合意が必要だった。王は病床にあり、実務の多くを王妃と王太子が担っている。政治的な反発もある。
結論として、王妃は白の名簿管理から永久に外され、王宮名簿改革委員会の監督対象となった。また、八年前の被害者調査と補償基金を、王妃個人の資産から設立することになった。
軽いと感じる者もいるだろう。
ノア様にとっても、十分ではないはずだ。
審理後、王妃は名簿院へ来た。
中庭のセラフィーナの席の前で、彼女はしばらく立っていた。
「ここに、彼女の名前を置いたのですね」
ノア様は無言だった。
王妃は膝をつき、木札を見た。
「セラフィーナ・アステル」
彼女が名を呼ぶと、木札が淡く光った。
王妃の顔が歪む。
「私は、この名前を八年、避けていました」
「避ければ消えると思ったのですか」
ノア様の声は冷たい。
「いいえ。避けなければ、自分が壊れると思った」
「妹は壊れました」
「ええ」
王妃は反論しなかった。
「だから、許されたいとは言いません」
彼女は一枚の書類を出した。
「セラフィーナ・アステル被害記録。王妃オレリアの署名で、王宮公式記録に入れます。病死ではなく、名簿実験による名喪失として」
ノア様の手が震えた。
八年間、セラは病死として処理されていた。家族の記憶が曖昧になり、記録も封じられた。その公式記録が、やっと変わる。
「遅すぎる」
ノア様が言った。
「はい」
「これで許すとは言えない」
「はい」
「だが、記録は必要だ」
彼は書類を受け取った。
王妃は深く頭を下げた。
王妃が公爵に頭を下げる。
その光景を、わたしは少し離れて見ていた。
謝罪には、受け取られないものもある。許しに届かないものもある。それでも、責任の記録は必要だ。
王妃は次に、わたしの方へ来た。
「リネア」
「はい」
「あなたの母クラリスについても、再調査を始めました」
胸が強く鳴った。
「何か分かったのですか」
「フェルゼンの私的記録に、クラリス夫人への監視命令がありました。死因に直接関与した証拠はまだありません。ただ、彼女が聖女名保持者保護に関する資料を隠したこと、そしてあなたの名札に拒否印を縫い込んだことを、フェルゼンは知っていたようです」
「母は、殺されたのですか」
聞くのが怖かった。
王妃は静かに答えた。
「現時点では断定できません」
断定できない。
その言葉は苦しい。
けれど、今のわたしはその扱いを知っている。
「分からないことを、分からないまま記録してください」
「ええ」
「母の名前を、便利な殉教者にしないでください」
王妃は少し驚いたようにわたしを見た。
「母は戦った人です。でも、母にも生活があり、怖さがあり、わたしを抱いてくれた時間がありました。聖女名を守った母、だけにしないでください」
王妃は深く頷いた。
「クラリス・ベルレイン。旧姓ミュラー。名簿院協力者。母。妻。相談員。すべて記録します」
その言葉に、胸の奥が少しだけほどけた。
母も、一つの役割だけではなかった。
わたしがエレノアであり、リネアであるように。
王妃は去り際に言った。
「白の名簿改革委員会に、あなたを正式委員として推薦します」
「わたしは臨時職員です」
「だからこそ」
「荷が重いです」
「重い名を、軽く扱わない人が必要です」
そう言われると、断りづらい。
ノア様が横で言った。
「受けるかどうかは、本人が決める」
「もちろんです」
王妃は少し笑った。
「名簿院に来ると、毎回それを思い出させられますね」
王妃が去ったあと、ノア様がわたしを見る。
「どうする」
「考えます」
「急がなくていい」
「はい」
急がなくていい。
その言葉を聞くたび、わたしは自由を感じる。
署名を急かされないこと。名前を急いで決めなくていいこと。役割を押しつけられないこと。
白の名簿改革委員。
重い仕事だ。
けれど、わたしはもう、重いから逃げるだけの人間ではない。
自分で選べるなら、重い仕事も持てる。
それが、リネアとして生きるということなのだと思った。