軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第035話 王太子の空白

ユリウス王太子は、白紙病の後、自ら王太子府の名簿監査を申し出た。

王族が自分の部署を監査に出すのは異例だった。側近たちは反対したが、彼は押し切った。理由は簡潔だった。

「私が名を器だと思っていた場所から、まず直す」

名簿院からはノア様、マルタ、そしてわたしが監査に入った。

王太子府の書庫には、膨大な名簿があった。儀礼名簿、婚約候補者名簿、側近名簿、地方視察名簿、恩賞名簿。どれも美しく整っているが、本人同意の記録は少ない。

特に婚約候補者名簿はひどかった。

候補者本人の希望ではなく、家の意向、爵位、血統、祝福名の格が優先されている。女性の名には、結婚後に求められる名変更候補まで書かれていた。

わたしはその項目を見て、指先が冷えた。

「これを、以前のわたしも見ていたのに」

気づけなかった。

自分がその中にいたから。そういうものだと思っていたから。

ユリウス殿下は隣で書類を見つめていた。

「私も見ていた。何も疑わなかった」

「殿下は、今後どうなさるのですか」

「婚約候補者名簿を廃止する」

わたしは顔を上げた。

「完全に?」

「王太子妃を選ぶために女性の名を格付けする名簿は廃止する。候補者本人が希望する場合のみ、本人署名の志願名簿へ変更する」

マルタが素早く記録する。

「志願制ですね。本人同意欄、辞退欄、旧名照会禁止欄、婚姻後名保持欄も必要です」

「作ってくれ」

「王太子府案件なので、通常料金ですか?」

マルタがわたしを見る。

わたしは少し考えた。

「制度改革案件なので、減額しても」

ノア様が言った。

「公的改革支援費を適用する。ただし、過去の不備修正は王太子府負担だ」

ユリウス殿下は苦笑した。

「分かった。会計係には私から説明する」

彼は変わった。

完全ではない。時々、命令口調が出る。自分の理解が遅いことに苛立つこともある。けれど、学ぼうとしている。

その日、監査の最後に、彼は一枚の白紙を出した。

「リネア」

「はい」

「私は、王太子としての適性を再審査にかけるつもりだ」

室内が静まった。

「廃嫡を望む、という意味ですか」

「望むというより、必要だと思う。白紙病のとき、私は王権を制限する必要があると証言した。なら、私自身もその対象になるべきだ」

ユリウス殿下は白紙を見た。

「王太子であることが、私の名前を覆っていた。ユリウスという個人が何を考えているか、自分でも分かっていなかった」

それは、彼なりの空白なのだろう。

権力の名に隠れて、自分の個人名を見ていなかった。

「再審査で王太子位を失うかもしれません」

ノア様が言う。

「その場合は受け入れる。王位継承は、私一人の感情ではなく、王国のために判断されるべきだ」

「王国のため、という言葉には注意が必要です」

わたしが言うと、彼は少し笑った。

「名簿院の講義で習った。大きな言葉を使うときは、具体的な名を確認せよ、だったな」

「はい」

「では、具体的に言う。リリア、君、セラフィーナ嬢、救貧院の子どもたち、北門の兵士たち。私の未熟さで傷ついた、あるいは傷つく可能性があった人々の名に対して、責任を取る」

彼は白紙に署名した。

ユリウス・アルク・レオナール。

王太子位再審査申立書。

わたしはその署名を見た。

かつて、彼の署名は迷いがなく美しかった。今の署名には迷いがある。けれど、その迷いは悪いものではない。

考えた人の線だった。

「リリア様には話したのですか」

「これから話す。彼女に許されるためではない。だが、彼女に隠したくない」

それは正しいと思った。

監査が終わったあと、わたしは王太子府の廊下を歩いた。

以前のわたしなら、この廊下でいつも緊張していた。殿下に嫌われないように。王妃に失礼のないように。父に恥をかかせないように。

今は、仕事用の靴で歩いている。

廊下の壁に映る自分は、王太子妃候補ではなく、名簿院職員リネアだった。

それが誇らしかった。

帰り際、ユリウス殿下が言った。

「リネア。君に頼みがある」

「内容によります」

「いつか、名簿院の講義で私の失敗を教材に使ってくれ」

わたしは瞬いた。

「よろしいのですか」

「同じ過ちを繰り返さないためだ。名前は伏せなくていい。責任は、名前とともに記録されるのだろう」

その言葉を、わたしはしばらく考えた。

「分かりました。教材名は、“王太子府婚約候補者名簿不備事例”で」

「硬いな」

「名簿院ですので」

ユリウス殿下は、少しだけ笑った。

その笑いに、昔のような胸の痛みはなかった。

わたしは彼を許したわけではない。

でも、彼が自分の名前で責任を取ろうとしていることは、記録したいと思った。