作品タイトル不明
第033話 セラフィーナの席
白紙病の翌日、ノア様は一日休むよう命じられた。
命じたのは名簿院の職員たちだった。
院長代理本人は仕事へ戻るつもりだったが、マルタが受付鈴を机に置き、警備職員二人が廊下を塞ぎ、鑑定室の若い職員が「院長代理の過労は名簿院の業務リスクです」と報告書を提出した。
ノア様はその報告書を読み、珍しく言葉を失った。
「皆、よく準備しましたね」
わたしが言うと、マルタは得意げに頷いた。
「受付は最前線ですから」
「それ、もう何にでも使っていますよね」
「便利なので」
ノア様は結局、半日だけ休むことを受け入れた。
彼が向かったのは、アステル公爵家の屋敷ではなく、名簿院の中庭だった。
セラが本を読んでいたという場所。
わたしも誘われた。
中庭には古い楡の木があり、その下に石の椅子が置かれている。春の葉が風に揺れ、木漏れ日が地面に落ちていた。ノア様はその椅子を見て、しばらく黙っていた。
「ここでセラが本を読んでいた」
彼は言った。
「私はよく、仕事を抜け出した彼女を探しに来た。叱るつもりで来るのに、彼女が本の登場人物の名前を楽しそうに語るから、結局一緒に読んでしまった」
「どんな本ですか」
「冒険譚。彼女は、名前のない旅人が最後に自分の名を見つける話が好きだった」
胸が少し痛んだ。
白の名簿で見たセラは、完全に戻ったわけではない。肉体があるかどうかも分からない。けれど、名は守られた。ノア様は妹の名を呼び、彼女は応えた。
それを十分と言うには、あまりにも足りない。
でも、何もないよりは確かだった。
「セラ様の席を作りませんか」
わたしは言った。
ノア様がこちらを見る。
「席?」
「ここに、小さな名札を置くのです。セラフィーナ・アステル。白の名簿に守られた名として。亡くなったと決めつけるのではなく、消されたままにもせず、ここにいた人として」
ノア様は長く黙った。
「それは、墓ではないのか」
「墓にするかどうかは、ご家族が決めることです。でも、記録の場所は作れます。名前を呼ぶ場所を」
彼は目を伏せた。
「呼ぶ場所」
「はい」
名簿院では、名前は書類の中にあることが多い。でも、呼ぶ場所があってもいい。失われた名を、誰かが声に出せる場所。
ノア様は小さく頷いた。
「作ろう」
その日の午後、わたしたちは簡素な木札を作った。
セラフィーナ・アステル。
ノア様が名前を書き、わたしが薄青い糸で縁を縫った。マルタが記録番号を付け、鑑定室の職員が白の名簿との接続を確認した。
石の椅子の横に、木札を置く。
風が吹いた。
楡の葉が揺れ、小さな光が木札の上に落ちる。
ノア様は膝をつき、妹の名を呼んだ。
「セラフィーナ・アステル」
返事はない。
けれど、木札が淡く光った。
それだけで、彼の肩から少し力が抜けたように見えた。
「ありがとう」
ノア様が言った。
「わたしは提案しただけです」
「それがありがたい」
彼は立ち上がり、わたしを見た。
「君は、名を完全に戻せないときの扱いを知っているのだな」
「前世の仕事で、亡くなった方の記録や、行方不明の方の手続きを扱いました。確定できないことを、確定できないまま記録する書類もありました」
「確定できないまま記録する」
「はい。分からないから消すのではなく、分からないと書く。それも大事だと思います」
ノア様はその言葉を何度か心の中で繰り返すように黙った。
「セラは、確定できないまま記録する」
「はい」
「生者でも死者でもなく、白の名簿に守られた名として」
「はい」
彼は深く息を吸った。
「少し、楽になった」
その声を聞いて、わたしも少し安心した。
誰かの悲しみを消すことはできない。でも、悲しみが置ける場所を作ることはできる。
名前には、そういう力もある。
中庭を出る前、ノア様が言った。
「リネア」
「はい」
「君の名を呼ぶ場所も、名簿院に作りたい」
「わたしの?」
「君が消えた令嬢としてではなく、名簿院職員リネアとして最初に署名した机。そこに記録を残したい。自署名制度の起点として」
「それは少し大げさでは」
「記録は大げさなほど残しておく方が、後で消されにくい」
その言葉に、思わず笑った。
「では、記録してください。ただし、わたしがまだ生きて働いていることも明記してください」
「当然だ」
ノア様も、ほんの少し笑った。
その笑顔を見て、胸の奥が温かくなった。
悲しみの中に、笑いが戻る。
名前を呼ぶ場所は、そのためにも必要なのだと思った。