作品タイトル不明
第032話 フェルゼン侯爵の名前
外廷へ戻ると、白紙病は収まっていた。
人々は疲れ切っていたが、自分の名前を覚えていた。名札が白くなりかけた者も、自署控えや周囲の呼び声で踏みとどまった。貴族の中には、泣きながら自分の個人名を何度も唱えている者もいた。
トマがわたしを見つけて走ってくる。
「リネアさん!」
彼は勢いよく抱きついてきた。
わたしはよろけたが、受け止めた。
「戻りました」
「約束したからな!」
「はい。自分の名前で」
マルタも駆け寄ってきた。手には帳簿と、大きすぎる受付鈴。
「エレノア条項、外廷側の署名記録、全部取りました。もう腕が折れそうです」
「ありがとうございます」
「でも、すごかったです。王太子殿下、宿題より真剣に自分の名前を唱えてました」
ユリウス殿下は少し離れた場所に立っていた。
彼は疲れた顔でこちらを見ていたが、近づいては来なかった。今は距離を取るべきだと分かっているのだろう。
リリアは父を支えていた。
ベルレイン伯爵は白紙病の影響で混乱している。自分の爵位は覚えているが、個人名を思い出すのに時間がかかる。リリアが何度も呼んでいた。
「カール・ベルレイン。お父様の名前です」
「私は……ベルレイン伯爵で」
「爵位ではなく、名前です」
父は苦しそうに顔を歪めた。
リリアは泣いていたが、声は強かった。
その姿を見て、わたしは胸が締めつけられた。
父はわたしたちの名前を道具にした。けれど、今リリアは父の名前を消さないために呼んでいる。彼女は本当に、自分の名前で立ち始めたのだ。
フェルゼン侯爵は、警備職員に拘束されていた。
彼の胸元の名札はひび割れている。わたしが仮固定しなければ、完全に白くなっていただろう。彼は何度も自分の名を言おうとして、詰まっている。
「フェ……フェル……」
それを見た貴族の一人が言った。
「名を奪った者が、名を失う。相応しい罰ではないか」
その言葉に、ノア様が振り向いた。
「違う」
低い声だった。
「名を失わせることを罰にしてはならない。彼は裁判で裁かれ、記録に罪を刻まれるべきだ。名を消せば、責任も曖昧になる」
外廷が静まった。
わたしはその言葉を聞いて、あらためて思った。
ノア様は、妹を奪われた人だ。フェルゼンを憎む理由なら誰よりある。それでも、彼は名を奪うことを罰にしない。
それは、名簿院が守るべき線だった。
審理官も頷いた。
「フェルゼン侯爵の名は仮保護し、正式裁判まで拘禁する。名札は名簿院が管理する。ただし、本人の名を消去してはならない」
フェルゼンは、かすれた声で笑った。
「甘い……」
「甘さではありません」
わたしは彼の前に立った。
「あなたの罪を、あなたの名前で記録するためです」
彼の目がわずかに揺れた。
「名前は、責任でもあります。あなたが誰として何をしたのか、消しません」
フェルゼンは初めて、恐怖のような表情を浮かべた。
名を消されるより、名を残して裁かれることを恐れたのかもしれない。
王妃オレリアが審理官席から立ち上がった。
「本日の審理は緊急事態により中断されたが、十分な証拠と新たな条項が記録された。フェルゼン侯爵は拘禁。白の名簿の暫定管理は、エレノア条項に従い、名簿院、王宮、市民代表、兵士代表の共同監査下に置く」
その宣言に、外廷は静まり返った。
王妃はさらに続けた。
「また、八年前の王宮名簿実験について、王妃である私自身の責任も審理対象とする」
驚きの声が上がる。
ユリウス殿下が王妃を見た。
「母上」
「責任は名前とともに記録されるものです」
王妃はわたしを見た。
「そうでしょう、リネア」
わたしは少し迷い、頷いた。
「はい」
誰かが責任を取ると言うとき、それがどこまで本当かは行動でしか分からない。でも、少なくとも王妃は自分の名で審理対象になると宣言した。
それは記録に残る。
外廷の片隅で、父が小さく呻いた。
「リネア……」
わたしは振り向いた。
父の目が、わたしを見ていた。
彼はわたしを思い出したのだろうか。それとも、リリアが何度も呼んだ新しい名を覚えただけなのか。
「お前は……」
父の唇が震える。
「私の、娘で」
わたしは静かに言った。
「かつては、そう記録されていました」
父は顔を歪めた。
後悔か、混乱か、怒りか。分からない。
「戻れ」
その言葉を聞いて、胸の奥にあった何かが静かに冷えた。
こんなときでも、父は謝罪ではなく命令を選ぶ。
「戻りません」
わたしは答えた。
「わたしはリネアです。名簿院職員です」
「家が」
「家は、家の責任を取ってください」
父は何か言おうとしたが、リリアが彼の腕を押さえた。
「お父様。もうやめて」
リリアの声は疲れていた。
「姉は戻りません。わたしも、家の道具には戻りません」
父はリリアを見た。
初めて、娘を見るような目だった。
遅すぎるかもしれない。
それでも、何かが始まるなら、それは父自身が自分の名前で責任を取ってからだ。
白紙病の夜は、王都中に語り継がれることになった。
けれど、わたしの記憶に最も残ったのは、派手な奇跡ではない。
トマが自分の名を叫んだこと。
リリアが父の個人名を呼んだこと。
ノア様がフェルゼンの名を消すなと言ったこと。
名前は、罰にも商品にもしてはいけない。
名前は、責任と居場所を結ぶ線なのだ。