軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第030話 白の名簿

扉の向こうに、本はなかった。

そこにあったのは、川だった。

白い光の川。水ではなく、無数の名前が流れている。書かれた文字、呼ばれた声、泣きながら署名した線、母が縫った糸、子どもが描いた絵。すべてが光の粒になって流れていた。

白の名簿。

それは一冊の本ではなく、名前の記憶そのものだった。

わたしは足を踏み入れた瞬間、膝をつきそうになった。

あまりにも多い。

生まれたばかりの子の名。死者の墓標。戦場で叫ばれた名。忘れられた村。海を渡った移民。家系図に書かれた貴族の名。配給名簿の端に残された子どもの名。

全部が、ここにある。

けれど、川の一部が濁っていた。

白く空白になった渦。フェルゼンが外から無理に動かした部分だ。そこから糸が伸び、外廷の人々の名を吸い上げている。

「止めるには、渦を閉じる必要があります」

わたしは直感でそう言った。

ノア様は扉の内側へ入ってきた。フェルゼンも続こうとしたが、扉が彼を拒んだ。

「なぜだ!」

彼は叫んだ。

「私は白の名簿の研究者だ!」

扉は開いたままだが、彼の前に薄い膜がある。名を守る意志がない者を拒んでいるのだろう。

フェルゼンは顔を歪め、セラの名札片を膜に押し当てた。

膜が揺れる。

ノア様の顔が変わる。

「セラを使うな!」

彼が戻ろうとした瞬間、わたしは手を掴んだ。

「ノア様」

「だが」

「一人で決めないでください」

彼は苦しそうにわたしを見る。

セラの名を取り戻したい。その気持ちは当然だ。けれど、フェルゼンはそれを利用している。

白の川の中から、細い声が聞こえた。

兄様。

ノア様が凍りついた。

「セラ?」

川の濁った渦の奥に、小さな光があった。

少女の形をしている。十二歳ほど。銀灰色の髪、深い青の目。顔はぼやけているが、ノア様に似ていた。

セラフィーナ。

彼女は完全な肉体ではない。名の記憶として、白の名簿の中に残っていた。

「兄様、来てはだめ」

声は水面のように揺れる。

ノア様が手を伸ばす。

「セラ、生きているのか」

「分からない。わたしは、ここにある名前の残り。外にいた体のことは、思い出せない」

その言葉は残酷だった。

ノア様の手が震える。

「戻せるか」

彼の問いに、セラは悲しそうに笑った。

「誰かの名を使えば、記録上は戻れるかもしれない。でも、それはわたしではない」

フェルゼンが外から叫ぶ。

「騙されるな、アステル公爵! 白の名簿なら再構成できる。弱い名を束ねれば、器を作れる!」

「器ではない」

ノア様の声は低かった。

セラは光の手を伸ばした。

「兄様。わたしの名前を覚えていてくれてありがとう。でも、わたしを戻すために、誰かを薄くしないで」

ノア様の目から、涙が落ちた。

初めて見る涙だった。

わたしは彼の手を握ったまま、何も言えなかった。

セラはわたしを見た。

「あなたがリネア?」

「はい」

「兄様を止めてくれて、ありがとう」

「セラ様、白紙病を止めるにはどうすれば」

「渦の中心に、拒否の名を結ぶ。聖女エレノアが残した規則。名を奪う流れには、本人の拒否を重ねる」

母の拒否印が光った。

「拒否の名」

「あなたが一度、奪われることを拒んだから開いた扉。だから、あなたの拒否は強い。でも、一人では足りない」

「では」

「外の人たちが、自分の名前で拒否する必要がある」

自署控え。

名を声に出す人々。

わたしは理解した。

白の名簿を閉じるのは、わたしだけではない。一人一人の「勝手に変えさせない」という意志だ。

わたしは川の中央へ向かった。

濁った渦は冷たく、足元の名前を吸い込もうとする。そこには、ロアンが集めた弱い名の残骸があった。商品番号、偽名札、名隠し墨。名前を商品に変えた痕跡。

わたしは薄青い糸を取り出した。

「リネアとして、拒否します」

糸を渦へ結ぶ。

「エレノアとして、拒否します」

母の名札を重ねる。

「名前を本人の同意なく奪い、譲り、書き換えることを拒否します」

渦が激しく揺れた。

外から、声が流れ込んでくる。

トマ・ミエル、拒否します。

ミラ・コット、拒否します。

グレン・バルク、拒否します。

リリア・ベルレイン、拒否します。

ユリウス・アルク・レオナール、拒否する。

オレリア・サフィア・レオナール、拒否します。

名前と拒否の声が、川へ注ぐ。

渦が小さくなっていく。

フェルゼンが膜の向こうで怒鳴った。

「やめろ! 個人の拒否で国家の名簿を縛るな!」

セラの光が、彼の手元の名札片へ伸びた。

「わたしの名前も、拒否します」

名札片が白く燃えた。

フェルゼンが悲鳴を上げる。

彼の手からセラの名が離れ、川へ戻る。ノア様がそれを追おうとしたが、セラが首を振った。

「兄様、わたしを覚えていて。それで十分」

「十分ではない」

「うん。十分ではないよね。でも、誰かを犠牲にして戻るより、兄様に覚えていてもらう方がいい」

ノア様は泣きながら頷いた。

白紙病の渦が消えた。

外廷へ伸びていた白い糸が切れる。

白の名簿の川は、少しずつ穏やかさを取り戻した。

けれど、フェルゼンはまだ諦めていなかった。

彼は自分の杖を折り、中に仕込まれていた黒い名札を取り出した。

「ならば、王国総名簿を私の名で上書きする」

黒い名札には、彼自身の名前が刻まれていた。

フェルゼン・ロウ・アルバート。

彼は自分の名を犠牲に、白の名簿へ入り込もうとしていた。

膜が破れ始める。

セラが叫んだ。

「リネア、閉じて!」

扉を閉じれば、フェルゼンは外に残る。

でも、白の名簿を完全に閉じれば、救済の可能性も閉じるかもしれない。

一瞬の判断。

わたしは扉ではなく、契約書を思い出した。

閉じるか、開くかではない。

条件を書く。

「ノア様、白紙の羊皮紙を!」

彼はすぐに差し出した。

わたしは白の名簿の川の前で、震える手で新しい条項を書き始めた。