作品タイトル不明
第029話 王宮地下書庫
王宮地下書庫は、名簿院の閉架書庫よりも古かった。
石壁には王国建国時代の紋章が刻まれ、天井は低く、空気は水のように冷たい。階段を降りるたび、外廷のざわめきが遠ざかり、代わりに紙をめくるような音が聞こえてくる。
白い糸は壁の隙間を這い、奥へ奥へと伸びていた。
女官長エリーズは、灯りを掲げながら言った。
「この先は、王族と王妃の許可がなければ入れない場所です。私は案内だけで、扉の内側へは入れません」
「十分です」
ノア様が答える。
彼の表情は硬い。
セラの名札片がここで使われている可能性がある。妹の名を取り戻したい気持ちと、フェルゼンを止める責務。その両方が彼の中でぶつかっているのが分かった。
わたしはそっと声をかけた。
「ノア様」
「何だ」
「一人で決めないでください」
彼はわたしを見た。
そして、ゆっくり頷いた。
「君もだ」
「はい」
地下書庫の最奥には、白い扉があった。
木でも金属でもない。羊皮紙を何千枚も重ねたような質感で、表面に無数の名前が薄く浮かんでは消えている。扉の中央には、空白の円があった。
そこが鍵穴なのだろう。
扉の前に、フェルゼン侯爵が立っていた。
外廷にいたはずの彼が、どうやって先回りしたのか。おそらく身代わり名札か、地下通路を使ったのだろう。
彼の手には、白い名札の束があった。
「遅かったですね」
「白紙病を止めなさい」
わたしが言うと、フェルゼンは笑った。
「止めるために、ここへ来たのでしょう」
ノア様が一歩前に出る。
「セラの名札を渡せ」
「兄というものは面白い。八年経ってもまだ妹の名に縛られている」
フェルゼンは名札の束から一片を取り出した。
セラフィーナ。
完全ではない。けれど、以前見た破片よりはっきりしている。
ノア様の息が止まる。
「返せ」
「白の名簿を開けば、返せるかもしれません」
「かもしれない?」
「名がどの程度残っているかによります。扉の向こうで再構成できれば、セラフィーナ嬢は記録上戻るでしょう」
「本人は」
「本人? 八年も前に消えた娘の肉体を気にするのですか」
その言葉で、ノア様の顔が凍った。
わたしは理解した。
フェルゼンにとって、人間は名の器でしかない。セラ本人が生きているか、苦しんだか、家族が泣いたか。そんなことは関係ない。記録上戻れば、それで成功なのだ。
「白の名簿は、記録を戻す道具ではありません」
わたしは言った。
「人を戻すためのものです」
「同じことだ」
「違います」
わたしは胸元の名札を取り出した。
エレノアの刺繍が淡く光る。
扉が反応した。
空白の円に、白い光が揺れる。
フェルゼンの目が輝いた。
「やはり、あなたが鍵だ」
「わたし一人では開けません」
そう感じた。
扉はわたしの旧名に反応している。でも、それだけではない。リネアとして呼ばれた声、自署名日の記録、母の拒否印、ノア様のセラへの記憶。それらが扉の前で糸のように絡んでいる。
白の名簿は、名そのものではなく、名を守る意志に反応する。
「ノア様。扉の条件を読めますか」
彼は扉の古語を見た。
「三つの線を結べ、とある」
「三つ?」
「与えられた名。選んだ名。呼び返す名」
与えられた名は、エレノア。
選んだ名は、リネア。
呼び返す名は?
ノア様が言った。
「誰かに呼ばれる必要がある。君をリネアとして、そしてエレノアであった者として認める声が」
その声は外廷から届くのだろうか。
遠くで人々が名前を唱える響きが、微かに聞こえる。リネア。リネア。トマの声、マルタの声、リリアの声。白い扉が震える。
けれど、フェルゼンが名札の束を掲げた。
「ならば、呼び返す名をこちらで用意しましょう」
彼は名札を扉へ押し当てた。
子どもたちから奪った名札の写し。名売買で集めた弱い名。セラの名札片。それらが白い扉に吸い込まれそうになる。
扉が苦しむように軋んだ。
「やめなさい!」
わたしは薄青い糸を投げた。
名札の束に絡め、引き戻す。
フェルゼンは杖で糸を切ろうとした。ノア様がその前に立ち、杖を払う。
地下書庫に鋭い音が響く。
「リネア、扉へ!」
「でも」
「私は止める」
ノア様とフェルゼンが対峙する。
わたしは扉の前に立った。
胸元の名札。
母の紙片。
トマが書いたリネアの控え。
全部を手に持つ。
「エレノア」
わたしは自分の古い名を呼んだ。
その名は痛みを伴っていた。父に奪われかけた名。王太子妃候補として背負わされた名。けれど、母が縫ってくれた名でもある。
「リネア」
次に、新しい名を呼ぶ。
自分で選び、仕事で結び、人々に呼ばれた名。
扉の空白が光る。
最後の線。
呼び返す名。
遠くから、声が届いた。
「リネア!」
トマ。
「リネア様!」
リリア。
「修復者リネア殿!」
グレン隊長。
「名簿院職員リネア!」
マルタ。
そして、隣から。
「リネア」
ノア様の声。
静かで、確かな声だった。
扉が開いた。
白い光が、地下書庫を満たした。