作品タイトル不明
第028話 白紙病
最初に倒れたのは、貴族席の若い令嬢だった。
胸元の名札が白く滲み、彼女は自分の手を見つめたまま呟いた。
「わたし……誰……?」
周囲が悲鳴を上げる。
次に、市民席の老職人が膝をついた。北門の兵士が名札を押さえて呻く。トマは自署控えを握りしめ、顔を真っ青にしていた。
白い糸が石畳から伸び、人々の名を吸い上げている。
フェルゼンの声が外廷に響いた。
「白紙病。八年前の実験で偶然生まれた副産物です。名の記録が乱れると、人は自分の名を保持できなくなる。白の名簿を中央管理すれば防げるが、あなた方は拒んだ」
「あなたが起こしたのでしょう!」
わたしは叫んだ。
「証明できますか」
フェルゼンは笑った。
「今必要なのは責任追及ではなく対処です。さあ、聖女名の娘。白の名簿を開きなさい。開かなければ、ここにいる者たちの名が消える」
最悪の脅迫だった。
人々を危険に晒し、その救済を理由に自分の主張を通そうとしている。
ノア様が外廷の糸を切ろうとしたが、白い糸はすぐに再生した。
「地下書庫から伸びている」
彼は険しい顔で言う。
「白の名簿の外殻が、無理に起動している」
「フェルゼンが?」
「おそらく、セラの名札片を使った」
セラ。
ノア様の妹の名が、また利用されている。
怒りで胸が焼ける。
けれど、今は人々を守らなければならない。
「自署控えを持っている人は、名前を声に出してください!」
わたしは叫んだ。
「名札だけでなく、自分で書いた控えを見て! 声に出して!」
トマがすぐに反応した。
「トマ・ミエル! トマ・ミエル!」
子どもたちが続く。
北門の兵士たちも、自分の名前を唱え始めた。下町の人々が控えを握る。白い糸に吸われかけた名が、声と署名に支えられて踏みとどまる。
自署名制度が、初めて大きな力を発揮した。
けれど、控えを持たない貴族たちは混乱していた。家系図に頼ってきた彼らは、自分で名を確認する習慣がない。
リリアが動いた。
「ベルレイン家の名簿を!」
彼女は父の方へ走り、彼の外套から家系図の写しを奪う。
父は抵抗したが、白紙病で自分の名が揺らぎ始めていた。彼の口から、自分の爵位がうまく出てこない。
「お父様、あなたの名前はカール・ベルレインです!」
リリアが叫ぶ。
「わたしの名前はリリア・ベルレイン! あなたの娘です! でも、あなたの所有物ではありません!」
父の目が揺れた。
白い糸が少し弱まる。
リリアは貴族席の人々へ向かって叫んだ。
「自分の名前を言ってください! 爵位ではなく、家名だけでもなく、あなた自身の名前を!」
それは、貴族たちにとって慣れないことだった。
彼らはいつも、爵位や家名で呼ばれる。個人名は家の中のもの、あるいは親しい者のものだ。
でも、名札が白くなる恐怖の前では、体面など保てない。
「エミリア・ローデン!」
「ガルム・ハイト!」
「ソフィア・レンベル!」
声が広がる。
王太子ユリウス殿下も、王族席で立ち上がった。
「ユリウス・アルク・レオナール!」
王族の長い名が、外廷に響く。
王妃も続いた。
「オレリア・サフィア・レオナール!」
王族が自分の名を声に出す。それだけで、白い糸の流れが少し乱れた。
フェルゼンの顔から笑みが消える。
「無駄だ。声だけでは長く保たない」
確かに、糸はまだ伸び続けている。
白紙病の源を止めなければ、いずれ全員が疲れ、名を失う。
ノア様がわたしを見る。
「地下書庫へ行く」
「はい」
「白の名簿の扉まで、君を連れて行くことになる」
「分かっています」
「フェルゼンも来るだろう」
「止めます」
マルタが受付鈴を抱えたまま言った。
「私は外廷に残ります。ここで自署控えの確認を続けます」
「危険です」
「受付は最前線ですから」
彼女は笑った。
「リネアさん、地下はお願いします」
「はい」
トマがわたしの袖を掴んだ。
「リネアさん、戻ってくる?」
「戻ります」
「約束?」
約束という言葉は重い。
でも、ここで曖昧にしたくなかった。
「約束します。自分の名前で」
トマは頷き、自分の控えを握った。
ノア様、わたし、そして王宮地下書庫を知る王妃の女官長が地下へ向かうことになった。ユリウス殿下も同行を申し出たが、ノア様が止めた。
「殿下は外廷で名を支えてください。王族が自分の名を唱えることに意味があります」
ユリウス殿下は悔しそうだったが、頷いた。
「分かった。リリアを守る」
リリアが言った。
「わたしも自分で守れます。でも、周りの人を手伝ってください」
「ああ」
短いやり取り。
以前の二人とは違う距離だった。
地下へ向かう階段の前で、王妃がわたしを呼び止めた。
「リネア」
「はい」
「白の名簿を開くなら、フェルゼンの条件ではなく、あなたの条件で」
「分かっています」
「そして、セラフィーナ嬢の名があれば、ノアを止めて」
ノア様が王妃を睨む。
王妃は目を伏せた。
「八年前、私は止められなかった。今度は、誰かを犠牲にして誰かを救う道を選ばないで」
その言葉には、初めて本当の悔いがあった。
わたしは頷いた。
地下への扉が開く。
白い糸が、階段の奥へ吸い込まれている。
わたしたちは、その糸を追って王宮地下書庫へ降りた。