軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第027話 王太子の宿題

ユリウス王太子は、証言台に立つとしばらく黙った。

彼は人前で話すことに慣れている。祝祭の挨拶、軍の閲兵、貴族会議。声を張り、相手を従わせる訓練を受けてきた人だ。

けれど、その日の沈黙は、言葉を探す沈黙だった。

「私は、名を器だと言った」

やがて、彼はそう話し始めた。

外廷が静まる。

「誰に言ったのか、抹名の影響で当初は思い出せなかった。だが、名簿院で学び、記録を読み、今ここで証言を聞いて、理解した。私は婚約者であった女性に、名前を譲れと求めた」

彼はわたしの方を見た。

旧名を呼ばなかった。

ただ、深く頭を下げた。

「名簿院職員リネア。かつてエレノア・ベルレインであったあなたに、私は取り返しのつかないことを求めました」

王太子が頭を下げる。

その光景に、外廷がざわめいた。

わたしは胸元の名札を握った。

謝罪を聞く準備はできていないと思っていた。けれど、彼が初めて、政治的な不利益ではなく自分の行為として語ったことは分かった。

「あなたに許しを求める資格が、今の私にあるとは思わない」

彼は続けた。

「私はリリアを愛していると言いながら、リリアの名を見ていなかった。王太子妃にふさわしい器を探し、そこへ彼女を入れようとした。それは愛ではなく、私の都合だった」

リリアが涙をこぼした。

ユリウス殿下は、彼女へも頭を下げた。

「リリア。君の名を守れなかった。いや、守るどころか、変えようとした」

リリアは何も言わなかった。

けれど、目を逸らさなかった。

フェルゼンが苛立ったように杖を鳴らす。

「殿下、感情的な謝罪は結構。しかし国家論は別です。王太子たる者、個人の後悔で政策を左右してはならない」

「そうだ」

ユリウス殿下は頷いた。

「だから私は、後悔ではなく学んだことを述べる」

彼は懐から一枚の紙を出した。

「名簿院基礎講義の宿題です」

外廷が一瞬、妙な沈黙に包まれた。

マルタが小さく吹き出しそうになって、帳簿で口を隠した。

ノア様は無表情だが、目がわずかに揺れている。

王太子は真剣だった。

「課題は、“名簿が権力の道具となる危険について、具体例を挙げて述べよ”。私は最初、名簿は王国の秩序を保つ道具であり、王権が管理するのは当然だと書いた」

彼は紙を読み上げる。

「しかし、名簿が王権の道具であるなら、王に都合の悪い名は消せる。王太子に都合のよい名は重ねられる。名簿に載らない者は、配給も医療も裁判も受けにくくなる。これは秩序ではなく、支配である」

彼の声は少し震えていた。

「王太子である私がこれを理解していなかったことは、王国にとって危険だった」

王妃が目を伏せた。

フェルゼンは苦々しい表情を浮かべる。

「私は、白の名簿を開くことに反対しない。だが、王権だけで管理することには反対する。名簿院、市民代表、兵士代表、教会、そして王宮の共同監査を支持する。本人同意条項に例外を設ける場合は、事前条件を厳格化すべきだ」

貴族席のざわめきが大きくなった。

王太子が、王権を制限する側に立った。

それは政治的に大きな意味を持つ。

フェルゼンが声を上げた。

「殿下は一時の感傷に流されている。名簿院の小娘に言い負かされ、平民の拍手に惑わされているのです」

ユリウス殿下は彼を見た。

「そうかもしれない」

意外な返答だった。

「私は未熟だ。名を器だと思っていた。その未熟さで人を傷つけた。だからこそ、名簿を一人の判断に任せるべきではないと分かる。私が未熟であるなら、王太子一人の署名で名を動かせる制度は危険だ」

フェルゼンが言葉を失った。

自分の弱さを制度論に変えた。

それは、以前のユリウス殿下にはなかった発想だと思った。

リリアが小さく息を吐いた。

許したわけではないだろう。わたしも許したわけではない。

でも、彼が変わろうとしていることは分かった。

審理官が証言を記録した。

そのあと、王妃オレリアも立ち上がった。

「私も、王太子の意見を支持します」

外廷に驚きが広がる。

「八年前、私はフェルゼン侯爵の計画に承認印を押しました。セラフィーナ・アステル嬢が消えた責任の一端は私にあります。だからこそ、同じ過ちを繰り返す制度には反対します」

王妃が自ら責任を認めた。

これは、彼女にとって大きな危険だろう。

けれど、王妃の署名があることで、フェルゼンの「王宮のため」という主張は弱まった。

フェルゼンは杖を握りしめた。

「愚かな。国を民衆の感情に明け渡すつもりか」

「いいえ」

わたしは思わず言った。

審理官の許可を待たずに声が出たが、彼は止めなかった。

「国を一人の都合から取り戻すのです」

フェルゼンの目が、わたしに向く。

その目に、初めて明確な殺意のようなものが宿った。

次の瞬間、外廷の地面が白く光った。

石畳の隙間から、細い糸が無数に伸びる。

名の糸ではない。

名前を吸い上げる、白い空白の糸。

「全員、名札を押さえて!」

わたしは叫んだ。

フェルゼンは笑っていた。

「では、見せてあげよう。白の名簿を開かずに放置したとき、何が起こるか」

外廷にいた人々の名札が、次々に白く染まり始めた。