作品タイトル不明
第026話 フェルゼンの反論
フェルゼン侯爵は、わたしの証言のあとも動揺しなかった。
むしろ、待っていたように立ち上がった。
「美しい証言でした」
その声には、薄い笑みが混じっている。
「名は本人のもの。拒否の権利。自署。若者や民衆が好む言葉です。しかし、国家は美しい言葉だけでは維持できない」
彼は外廷を見渡した。
「皆様、考えていただきたい。孤児の名札が破れたとき、誰が直すのか。戦場で兵士が死に、身元不明となったとき、誰が家族へ知らせるのか。疫病で村が滅び、記憶する者が消えたとき、その名は誰が保つのか」
市民席のざわめきが少し静まった。
フェルゼンは言葉を選ぶのがうまい。
彼の主張には、真実の欠片がある。名簿は必要だ。個人だけでは守れない名がある。だからこそ、危険だ。
「白の名簿は、そうした混乱を防ぐための究極の制度です。中央が名を記録し、必要に応じて修正する。名の安定こそ、国の安定です」
貴族席から頷く者が増えた。
「では、本人同意は不要なのですか」
審理官が問う。
「不要とは言いません。しかし、同意を絶対条件にすれば、緊急時に救えない者が出る。幼子、病人、行方不明者、戦死者。本人が署名できない場合、誰かが代理しなければならない」
理屈は通っているように見える。
でも、そこにはすり替えがある。
わたしは証言台を降りていたが、手を挙げた。
「反論を許可します」
審理官が頷いた。
「本人が署名できない場合の代理制度は、必要です」
わたしは言った。
「けれど、それは本人同意を軽視する理由ではありません。むしろ、代理の条件を厳格にする理由です。事前自署控え、周囲の証言、第三者名簿師の確認。複数の線で本人の名へ近づくべきです」
フェルゼンが笑う。
「煩雑ですな」
「はい。人を消さないための手続きは、煩雑であるべきです」
その言葉に、ノア様が小さく頷いた。
フェルゼンは杖を鳴らした。
「では、王国が攻め込まれ、一刻を争うときにも同じことを言うか」
「戦場の兵士名簿には、事前自署控えを導入できます。北門守備隊ではすでに試験可能です。緊急時に備えるために、平時の同意記録を厚くするのです」
グレン隊長が市民席で立ち上がった。
「北門守備隊は協力します!」
審理官が静粛を求めるが、兵士たちの表情は明るかった。
フェルゼンの眉がわずかに動いた。
「理想論だ。民衆は手続きに飽きる」
「昨日、百二十七人が自署控えを作りました」
マルタが記録を掲げる。
「本日までに追加で三百四十二人。全員、自分の名前を確認するために並びました」
市民席から拍手が起きる。
フェルゼンの声が少し低くなった。
「数百人で国は動かない」
「始まりです」
わたしは答えた。
「聖女エレノアも、最初は焼けた村の名を一つずつ拾ったはずです」
フェルゼンの目が鋭くなる。
「聖女を語るな。あなたはその名を捨てた」
「奪われないために白紙へ戻しました」
「詭弁だ。あなたは聖女名を持ちながら、国のために使うことを拒んでいる。名を自分のものと言いながら、実際には多くの人々の救済を妨げている」
その言葉は重かった。
市民席にも、少し不安が広がる。
白の名簿を開けば救われる人がいるかもしれない。なら、わたしの拒否はわがままなのか。
その問いは、わたし自身も何度も考えた。
だからこそ、答えは決めていた。
「わたしは白の名簿を開くこと自体を拒んでいません」
外廷が静かになる。
「ただし、開く条件を求めています。本人同意を例外で消さないこと。名簿院と王宮だけでなく、市民代表と兵士代表の監査を入れること。白の名簿を使って名を変更する場合、救済目的に限定し、本人または代理確認を記録すること。違反時には王族であっても処分されること」
貴族席がざわめく。
王族であっても。
その言葉は外廷の空気を切った。
フェルゼンが嘲るように言う。
「王権を縛る気か」
「名を縛らないために、権力を縛る必要があります」
王妃がわずかに身じろぎした。
ユリウス殿下も顔を上げる。
「白の名簿を開く鍵がわたしにあるなら、わたしはその条件なしに扉の前へ立ちません」
「なら、あなたを鍵から外せばよい」
フェルゼンの声が変わった。
冷たい。
「聖女名エレノアは、あなた個人のものではない。王国史に属する名だ。あなたが拒むなら、名を取り上げる手続きもあり得る」
外廷が凍りついた。
審理官が眉をひそめる。
「そのような手続きは現行法にありません」
「現行法を変えればよい」
フェルゼンは貴族席へ向き直る。
「皆様。この娘一人の拒否で、白の名簿という国家資産を眠らせてよいのですか。個人名の自由などという新しい流行で、王国の根幹を揺るがしてよいのですか」
貴族席の一部から賛同の声が上がった。
怖い。
人々の声が、こちらへ押し寄せるようだった。
そのとき、リリアが立ち上がった。
「わたしは反対します」
全員が彼女を見る。
リリアは震えていた。
それでも、前へ出た。
「わたしはベルレイン伯爵家の次女リリアです。王太子妃候補を辞退しました。理由は、わたしの名に別の名を重ねられたからです」
父が顔を歪める。
「リリア、座れ」
「いいえ」
リリアは父を見なかった。
「わたしは以前、姉の名を譲ってもらえば幸せになれると思っていました。けれど、自分の名前を変えられそうになって初めて、それがどれほど恐ろしいことか分かりました」
彼女はフェルゼンを見た。
「侯爵様は、国のためと言います。でも、その国の中に、名前を奪われるわたしたちは入っているのですか」
フェルゼンは答えない。
「わたしは、もう誰かの名を着ません。誰にも、わたしの名を勝手に変えさせません。姉の名も、リネア様の名も、国の道具ではありません」
姉。
リネア。
両方を、彼女は言った。
市民席から拍手が起きた。今度は貴族席の一部からも。
ユリウス殿下が、ゆっくり立ち上がった。
「私も証言する」
審理官が驚いたように目を見開く。
王太子が予定外に証言することは異例だった。
けれど、彼は証言台へ進んだ。
顔は青白い。
それでも、逃げなかった。
フェルゼンの反論は、まだ終わっていない。
だが、流れは少しずつ変わり始めていた。