作品タイトル不明
第025話 公開審理
公開審理の外廷は、王宮の中でも珍しく市民に開かれる場所だった。
石造りの広い中庭に、半円形の席が並ぶ。中央には証言台、その奥には審理官の席。通常は貴族間の契約紛争や、王都に関わる重大な案件を扱う。
今日の議題は、名譲り制度の不正利用、救貧院児童誘拐未遂、王宮名簿実験の再調査、そして白の名簿の管理権だった。
わたしは名簿院側の証人として、控え室にいた。
手元には母の紙片の写し、自署名日の記録、救貧院の子どもたちの名札保護報告、ベルレイン家の偽名札記録。そして、わたし自身の抹名届の写し。
これを人前で語る。
怖い。
指先が冷える。
ノア様が隣に座っていた。
「無理なら、証言の範囲を絞れる」
「いいえ。話します」
「君の旧名を問われる可能性がある」
「分かっています」
「そのとき、答える義務はない」
「でも、隠し続けることで誰かに利用されるなら、自分の口で言います」
ノア様は少しだけ目を伏せた。
「分かった。記録上、君の選択として残す」
その言い方が、彼らしかった。
わたしの勇気を美談にしない。ただ、選択として正確に記録する。だから信用できる。
外廷に出ると、人の多さに圧倒された。
貴族たちの席には、フェルゼン侯爵の支持者も多い。王妃オレリアは審理官側に近い席に座り、表情を読ませない。王太子ユリウス殿下は王族席の端にいた。リリアは傍聴席の後方、名簿院の保護対象としてマルタの隣にいる。
そして、市民席にはトマたちがいた。
子どもたちは自署控えを胸に下げ、北門守備隊が後ろに立っている。下町の人々も静かに座っていた。
彼らの存在が、わたしの背を支えた。
最初に名簿院から証拠が提出された。
救貧院の名札を奪ったロアンの契約書。白い手袋に縫い込まれていたセラフィーナの名札片。王妃の旧印が偽造、または持ち出された可能性。ベルレイン家夜会での偽名札。王宮祝福灯の不適切な名簿操作。
審理官がフェルゼン侯爵へ問いかける。
「フェルゼン侯爵。あなたはロアンという名の商人と関係がありますか」
フェルゼンは落ち着いて立ち上がった。
「名を扱う業者は多くおります。ロアンという名は聞いたことがありますが、直接の指示関係はありません」
「白の名簿を開くために、弱い名を束ねる研究を行っていましたか」
「研究はしておりました。王国の救済のためです」
堂々とした返答だった。
貴族席の一部が頷く。
「救済のために、児童の名札を奪うことは認められますか」
「認められません。現場の行き過ぎです」
責任を切り離している。
予想どおりだ。
王妃が静かに口を開いた。
「八年前の王宮名簿実験について、あなたは責任者でしたね」
「共同責任者です、王妃陛下。当時のあなた様も承認印を押されました」
外廷がざわめいた。
王妃は動じなかった。
「押しました。ゆえに、その記録を提出します」
女官長が証拠箱を運んだ。
そこには、八年前の実験記録が入っていた。王妃の承認印。フェルゼンの実験計画書。セラフィーナ・アステルの名を使った白の名簿接触試験。
ノア様の手が固く握られている。
審理官が記録を確認する。
「セラフィーナ嬢の本人同意書がありますが、署名が震えています。年齢は十二歳。保護者同意は?」
フェルゼンは答えた。
「王国の利益に照らし、王宮後見で足りると判断しました」
「保護者であるアステル公爵家の署名はありません」
「緊急性がありました」
「何の緊急性ですか」
「王国の未来です」
あまりに大きすぎる言葉は、具体的な責任を消す。
今なら、わたしにはその危うさが分かる。
次に呼ばれたのは、ノア様だった。
彼は証言台に立ち、妹のことを語った。
十二歳のセラフィーナ。中庭で本を読む子。名を覚えるのが好きだった子。実験のあと、記録から消えたこと。名札が見つからず、家族の記憶が曇ったこと。
彼の声は静かだった。
けれど、一言一言が外廷に落ちるたび、空気が重くなる。
「妹は名誉を望んでいませんでした。家族の同意もありませんでした。王宮は彼女の名を使い、失敗し、記録を閉じた」
フェルゼンが口を挟んだ。
「感情的な証言です」
「名を奪われた者の感情を記録から除外すること自体が、問題です」
ノア様の返答に、市民席から小さな拍手が起きた。
審理官が静粛を求める。
そして、わたしの名が呼ばれた。
「名簿院職員リネア。証言台へ」
足が重い。
けれど、一歩ずつ進む。
証言台に立つと、外廷の全員がわたしを見ていた。フェルゼンの視線、王妃の視線、ユリウス殿下の視線、父の視線。そう、父も貴族席の端にいた。顔は青白く、リリアを見ようともしない。
わたしは息を吸った。
「リネアです。名簿院臨時職員として、救貧院児童の名札修復、自署名制度の試験運用、ベルレイン家夜会における偽名札除去を担当しました」
審理官が尋ねる。
「あなたは、聖女名エレノアに関係する人物ですか」
来た。
外廷が静まる。
ノア様の言葉を思い出す。答える義務はない。
けれど、わたしは答えると決めていた。
「はい」
わたしは胸元の白い名札を取り出した。
「わたしはかつて、エレノア・ベルレインという名で、ベルレイン伯爵家の長女として家系図に記録されていました」
ざわめきが広がる。
父が立ち上がりかけた。リリアが両手で口を押さえる。ユリウス殿下は、顔色を失っていた。
「王太子殿下とベルレイン伯爵は、わたしに婚約者の座と名前を妹へ譲るよう求めました。わたしは名譲り証へ署名せず、抹名届に署名しました」
審理官が確認する。
「自らの意思で?」
「はい。名前を奪われないために、自らの意思で家系図から消えました」
父が声を上げた。
「違う! あれは家を混乱させるための」
「ベルレイン伯爵」
審理官が制した。
「発言は後ほど」
わたしは続けた。
「抹名によって、わたしの名は家から白紙に戻りました。結果として、王宮やベルレイン家がわたしの名で結んでいた祝福が失われました。それは、わたしが無償で行ってきた仕事が正式に記録されていなかったためです」
ユリウス殿下が目を伏せる。
「名は器ではありません。本人の同意なく譲れるものではありません。名を失えば、人は生活も記憶も居場所も失います。わたしはそれを経験しました」
フェルゼンが静かに言った。
「しかし、あなたは生きている。新しい名も得た。国のために聖女名を使えば、多くの者が救われる」
わたしは彼を見た。
「誰かが生き延びたことは、奪おうとした行為を正当化しません」
外廷が静まった。
「そして、多くの者を救うために一人の名前を奪ってよいなら、次は七人の子ども、その次は百人の平民、その次は都合の悪い貴族。その線引きは、誰がするのですか」
フェルゼンは答えない。
「わたしは白の名簿を否定しません。本来の目的が、名前を失った人を救うためなら、開く必要があるかもしれません。けれど、本人同意のない名譲り、旧名照会、強制登録を許すなら、白の名簿は救済ではなく支配になります」
わたしは母の紙片を提出した。
「母クラリス・ベルレインは、名簿院協力者として強制名譲りに反対していました。この紙片は、わたしに残された拒否の記録です」
審理官が紙片を読む。
外廷の空気が変わる。
母の声が、やっと表に出た。
「わたしは、エレノアという名を憎んでいません。母がくれた大切な名です。けれど、誰かの都合で奪われるなら、わたしは何度でも拒否します」
わたしは胸元の名札をしまった。
「今の名はリネアです。自分で選び、誰かに呼ばれ、仕事で結び直した名です。この名で証言します。名前は本人のものです」
静寂。
それから、市民席のどこかでトマの声がした。
「リネア!」
マルタが慌てて止めようとしたが、もう遅かった。
次々と声が上がる。
「リネア!」
「名簿院のリネア!」
「名前を守れ!」
審理官が静粛を求める。けれど、その声はただの騒ぎではなかった。
わたしの新しい名前が、多くの人に呼ばれている。
その響きに、白の名簿の扉が遠くで揺れた気がした。