作品タイトル不明
第023話 フェルゼン侯爵
フェルゼン侯爵は、王宮公開審理の準備が始まる前に、名簿院へ自ら現れた。
年老いた男だった。
白髪を後ろへ撫でつけ、杖をついている。けれど、目は油のように濁っていて、力を失っていない。服装は質素だが、袖口には古い王宮書記局の印が刺繍されている。
受付で彼は名乗った。
「フェルゼン。名簿院長代理に会いたい」
その声を聞いた瞬間、ノア様の表情が変わった。
妹を消した実験の責任者。
母が警戒していた名譲り拡大論者。
ロアンの背後にいる可能性が高い人物。
名簿院の応接室に通されたフェルゼン侯爵は、わたしを見るなり笑った。
「あなたがリネアか。いや、聖女名の娘と呼ぶべきかな」
「リネアです」
「自分で選んだ名か。若い人は美しい幻想を好む」
「幻想ではありません」
「名とは制度だ。制度とは力だ。力は、個人の感情では維持できない」
挨拶もなく、彼は語り始めた。
ノア様は立ったまま言う。
「用件を」
「白の名簿を開きなさい」
あまりに直接だった。
フェルゼンは杖を床についた。
「王国は衰えている。貴族の家系は乱れ、平民は名札をなくし、移民が増え、孤児が増える。個人の同意を一つ一つ確認していては、国は沈む。白の名簿を開き、中央で名を管理する必要がある」
「管理とは、書き換えですか」
わたしは尋ねた。
「必要ならば」
「誰にとって必要なのですか」
「国にとって」
「国とは誰ですか」
フェルゼンの目がわずかに細くなった。
「王、貴族、土地、歴史。子どものような問いだ」
「子どもの名前を商品番号にした方に言われたくありません」
応接室の空気が冷える。
フェルゼンは笑みを消した。
「ロアンは行き過ぎた。だが、弱い名を束ねれば白の名簿が反応するという仮説は正しい」
ノア様の声が低くなる。
「セラの名を使ったな」
「セラフィーナ嬢は尊い協力者だった」
「妹は十二歳だった」
「王国のために選ばれた。名誉なことだ」
その瞬間、ノア様の手が杖に伸びかけた。
わたしは彼の袖を掴んだ。
怒りは正しい。でも、ここで殴ればフェルゼンの思う壺だ。
ノア様は歯を食いしばり、手を下ろした。
フェルゼンはその様子を楽しむように見た。
「アステル公爵。あなたは名簿院の規定に囚われすぎている。名は守るものではない。使うものだ。使われない名に価値はない」
「母は、あなたに反対しました」
わたしは言った。
フェルゼンの目がこちらへ向く。
「クラリスか」
「ご存じなのですね」
「優秀な女だった。だが、感傷的だった。名は本人のものだなどと、貴族社会を知らぬ理想論を語った」
「母は、わたしに拒否印を残しました」
「それが厄介だった」
彼はあっさり認めた。
わたしの背筋が冷える。
「あなたは、母の死に関わっていますか」
問いは重かった。
部屋の全員が息を止めた。
フェルゼンは、ほんの少し笑った。
「病は神の領域だ」
「答えになっていません」
「証拠があるなら、公開審理で出しなさい」
その言葉で分かった。
証拠がないことを知っている。
母の死について、彼は自分が裁かれないと確信している。
怒りで手が冷たくなった。
けれど、わたしはその冷たさを針を持つ感覚に変えた。
「公開審理には出ていただけるのですね」
「もちろん。むしろ望むところだ」
フェルゼンは立ち上がった。
「民衆は同意など理解しない。貴族は家名の安定を望む。王宮は白の名簿を欲しがる。あなたが個人の名を叫んでも、大きな流れは止められない」
「流れは、線の集まりです」
わたしは言った。
「一人一人の名前を無視して作った流れなら、いつか堤が崩れます」
「若い」
「はい。母より若く、あなたより未来があります」
フェルゼンの顔から笑みが消えた。
初めて、彼の目に怒りが浮かんだ。
「聖女名の娘。あなたは自分が何を拒んでいるか分かっていない」
「分かっています。誰かがわたしの名前を勝手に使うことを拒んでいます」
「白の名簿は、いずれ開く」
「開くとしても、あなたのためではありません」
フェルゼンは何も言わず、応接室を出ていった。
扉が閉まると、ノア様が深く息を吐いた。
「すまない。冷静さを欠いた」
「わたしも怒っています」
「だが、君は言葉にした」
「殴る力がないので」
マルタが小さく「言葉もかなり強かったです」と呟いた。
フェルゼンの訪問は、名簿院内で正式に記録された。
彼は自信を持っている。公開審理で自分の思想を語れば、支持を得られると思っている。貴族の中には、実際に彼へ賛同する者もいるだろう。名を家や国の都合で操作できれば便利だと考える人は多い。
だからこそ、わたしは自署名日の記録を広げる必要があった。
名は制度だ。
それは正しい。
でも、制度は人を消すためではなく、人を守るためにあるべきだ。
フェルゼンが名を力だと言うなら、わたしは名を声にしたい。
公開審理まで、残された時間は少なかった。