軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第022話 リリアの辞退届

夜会の翌朝、リリアは王太子妃候補の辞退届を書いた。

場所は名簿院の相談室だった。

彼女はベルレイン邸へ戻らなかった。ノア様の判断で、一時的に名簿院の保護宿舎へ入ったのである。父は抗議したが、夜会での偽名札装着が記録されているため、強く出られなかった。

リリアは一晩眠れなかったようだった。

それでも、机の前に座ると背筋を伸ばした。

「辞退理由は、どう書けばよいでしょうか」

「ご本人の言葉で」

わたしは答えた。

「法的には、本人名保護のため、強制的な名変更の危険がある婚約手続きから離脱する、で足ります」

「感情は書いてもいいのですか」

「書いてはいけない規則はありません」

リリアは少し考え、筆を取った。

長い時間をかけて書いた文は、飾り気がなかった。

「わたしは王太子殿下を敬愛しておりました。しかし、殿下の隣に立つために、わたしでなくなることを求められるなら、わたしはその隣に立てません。わたしの名前はリリア・ベルレインです。この名前で受け入れられない婚約であれば、辞退いたします」

読み終えたとき、わたしはしばらく声を出せなかった。

リリアは不安そうにわたしを見る。

「おかしいですか」

「いいえ」

わたしは首を振った。

「とても、あなたの言葉です」

リリアの目が潤んだ。

「わたしの言葉」

「はい」

彼女は辞退届に署名した。

リリア・ベルレイン。

その名前の線は、以前より強かった。

辞退届が王太子府へ届くと、ユリウス殿下はすぐに名簿院へ来た。

今度は怒鳴らなかった。

応接室でリリアと向き合う彼は、どこか年相応に見えた。王太子としての衣装は完璧だが、目には戸惑いがある。

「リリア。本気か」

「はい」

「私は君を妃にしたい」

「殿下は、わたしをどの名で妃にしたいのですか」

リリアの問いに、殿下は言葉を詰まらせた。

「それは……王宮の古例が」

「わたしは古例と結婚するのではありません」

その言葉は、静かだった。

けれど強かった。

わたしは記録係として同席していた。ペンを持つ手が少し震えた。妹が、自分の言葉で王太子に向き合っている。

「リリア」

ユリウス殿下の声が弱くなる。

「君まで私を責めるのか」

「責めているのではありません。わたしは、わたしの名前で愛されたいのです」

「愛している」

「なら、なぜ別の名を重ねたのですか」

「君を守るためだ。王宮で認められるように」

「わたしを守るために、わたしを消すのですか」

殿下は答えられなかった。

それは、わたしが聞きたかった言葉でもあった。

リリアは涙をこらえて続けた。

「わたしは、以前、姉を消そうとしました。殿下の隣に立ちたいから。家の期待に応えたいから。そうすれば幸せになれると思いました。でも、自分が消されそうになって初めて、何をしていたのか分かりました」

ユリウス殿下は、わたしの方を見た。

旧名を思い出してはいない。けれど、姉という言葉が彼の中の空白を揺らしている。

「私は、その姉に何をした」

リリアは静かに答えた。

「名前を譲れと言いました。わたしのために」

殿下は目を閉じた。

長い沈黙。

やがて彼は言った。

「私は、君を失うのか」

「殿下がわたしをリリアとして見られるようになるまで、わたしは隣に立てません」

「それは、いつだ」

「分かりません」

リリアの声が震えた。

「でも、今ではありません」

殿下は何も言わなかった。

王太子として命令することもできた。父のように怒鳴ることもできた。けれど、彼はただ立ち上がり、辞退届を見た。

「受理は、すぐにはできない」

ノア様が口を開く。

「本人意思による辞退届は、王太子府が保留しても効力を持ちます」

「分かっている」

殿下は苦々しく言った。

「分かっているが、私の気持ちが追いつかない」

初めて、彼は王太子ではなく一人の青年のように見えた。

それで彼の罪が消えるわけではない。

でも、変わる可能性が完全にないわけではないのかもしれない。

ユリウス殿下は扉の前で立ち止まった。

「リネア」

わたしの名前を呼んだ。

わたしは顔を上げる。

「はい」

「君が誰であったか、私はまだ思い出せない。だが、私がその人を傷つけたことは、少しずつ分かってきた」

わたしは何も言わなかった。

「謝罪には、まだ足りないのだろう」

「はい」

「では、まず学ぶ。名簿院の講義を受ける」

マルタが驚いて筆を止めた。

ノア様は表情を変えない。

「王太子殿下が名簿院基礎講義を?」

「そうだ」

「初級は平民の子どもや新人職員も同席しますが」

「構わない」

「宿題もあります」

「……構わない」

少し間があったので、わたしは思わずリリアを見た。

リリアも涙目のまま、ほんの少し笑っていた。

殿下が本当に変わるかどうかは分からない。

けれど、彼が初めて「自分が分かっていない」と認めたことは、記録する価値があった。

リリアの辞退届は、その日の夕方、名簿院保管箱に写しが納められた。

彼女は保護宿舎の小さな部屋で、初めて自分のための夕食を食べた。

「リネア様」

「はい」

「わたし、少し怖いけれど、息がしやすいです」

「それは良かったです」

「お姉様も、屋敷を出たとき、こうでしたか」

わたしは少し考えた。

「怖くて、悲しくて、でも少しだけ軽かったです」

「そうですか」

リリアは自分の名札を見た。

「わたしも、軽くなりたいです。誰かを踏まないで」

その言葉に、わたしは頷いた。

妹はもう、わたしの名前を欲しがっていない。

それだけで、過去の痛みが少しだけ形を変えた。