作品タイトル不明
第021話 ベルレイン家の夜会
ベルレイン伯爵家が夜会を開くという知らせは、王都の笑い話になりかけていた。
家紋祝福が消え、馬車扉の認証も壊れ、客室暖炉の名簿も未修復。そんな状態で夜会を開くなど、普通なら考えない。
けれど父は、体面を何より重んじる人だった。
王太子妃候補問題で落ちた評判を回復するため、彼はリリアを主役に据えた夜会を強行した。招待状には「リリア・ベルレイン嬢の正式名祝福を祝う」とある。
リリアが望んだものではない。
彼女から名簿院へ、短い連絡が来た。
「父が夜会で、わたしを聖女名に近い響きの別名で紹介しようとしています。止めたいのですが、家の中で発言権がありません」
わたしはその文面を見て、息を吐いた。
「行きます」
ノア様に言うと、彼は眉を上げた。
「夜会へ?」
「名簿相談者リリア様の本人名保護です。業務として」
「ベルレイン家へ戻ることになる」
「戻るのではありません。訪問します」
自分で言って、胸が少し震えた。
あの屋敷の門をくぐることが怖くないわけではない。朝食室、家系図の箱、父の声。全部が体のどこかに残っている。
でも、今のわたしには名簿院の徽章がある。リネアの署名がある。ノア様とマルタが同行する。
そして何より、父の家はもうわたしの家ではない。
夜会当日、ベルレイン邸の門は以前より寂しく見えた。
祝福紋が消えた門柱は灰色で、庭園の水路も止まっている。使用人たちは忙しそうに動いていたが、どこか不安げだった。
門番はわたしを見て、礼をした。
以前のようにお嬢様としてではない。名簿院職員として。
「名簿院の方ですね。リリア様がお待ちです」
その言葉に、胸が少し軽くなった。
客間では、父が貴族たちに笑顔を振りまいていた。頬は少しこけているが、声は大きい。
「本日は娘リリアの名祝福にお越しいただき、感謝いたします。王太子殿下との婚約も、近日中に正式な形となるでしょう」
リリアは父の隣で立っていた。
顔色が悪い。ドレスは美しいが、胸元に見慣れない名札がついている。
エレリア。
エレノアとリリアを混ぜたような、気味の悪い名だった。
わたしは足を止めた。
リリアの名前を、また誰かが加工している。
父はわたしたちに気づくと、顔をこわばらせた。
「名簿院。招いた覚えはない」
「リリア・ベルレイン様から本人名保護の相談を受けています」
ノア様が答える。
「夜会の場で不正な名変更が行われる可能性があるため、立ち会います」
「これは我が家の儀礼だ!」
「本人同意のない名変更は、家の儀礼ではなく違法行為です」
周囲の貴族たちがざわめいた。
父は笑顔を取り繕う。
「誤解だ。エレリアは愛称のようなものだ。聖女名への敬意と、娘リリアの名を合わせた祝福名で」
「リリア様」
わたしは父ではなく、妹を見た。
「その名を望みますか」
リリアは唇を震わせた。
父が小さく言う。
「リリア」
脅しの含まれた声。
昔のわたしなら、その声で黙った。
けれど、リリアはゆっくり息を吸った。
「望みません」
広間が静まり返った。
「わたしの名前は、リリア・ベルレインです。エレリアではありません。聖女名も、姉の名も、わたしには必要ありません」
姉。
その言葉に、胸が揺れた。
リリアはわたしの名前を思い出していない。それでも、姉がいたことを認めた。
父の顔が青くなった。
「何を言っている」
「お父様。わたしは、家のために誰かの名前を着ることはできません」
「黙れ!」
その瞬間、広間の家紋祝福が完全に消えた。
壁の紋章が白く抜け、天井の灯りが揺れる。客たちが悲鳴を上げた。暖炉の火が逆流し、煙が広間へ流れ込む。
ベルレイン家の名を支えていた祝福が、父の怒号に耐えられず崩れたのだ。
わたしは反射的に動いた。
「全員、広間の中央から離れてください! 灯りの下に立たないで!」
名簿院職員の声として叫ぶ。
ノア様が暖炉の糸を切り、マルタが避難名簿を広げる。わたしはリリアの胸元の偽名札を外した。
エレリア。
名札は熱を持っていた。無理にリリアの名へ食い込もうとしている。
「痛い」
リリアが呻いた。
「大丈夫。外します」
薄青い糸で偽名の縫い目を切る。父が何か叫んでいたが、聞かなかった。客の前で体面を失う父より、目の前で痛がる妹の名が大事だった。
偽名札が外れた瞬間、リリアは膝から崩れた。
わたしは彼女を支えた。
「リリア・ベルレイン」
「はい……」
弱い返事だったが、名は戻った。
広間では、貴族たちが父を見ていた。尊敬ではなく、疑いと軽蔑の目で。
セドリックが使用人たちを誘導し、客を安全な客室へ移している。彼の働きは見事だった。父の命令ではなく、自分の判断で動いている。
やがて、暖炉の煙が収まった。
夜会は完全に失敗した。
父はわたしを睨んだ。
「お前が来たからだ」
その言葉に、わたしは静かに首を振った。
「いいえ。ベルレイン伯爵。あなたが名前を道具にし続けたからです」
「貴様、誰に向かって」
「名簿院職員リネアとして、正式に記録します。本夜会において、リリア・ベルレイン様への本人同意なき偽名札装着、および家紋祝福の不適切運用を確認しました」
マルタがすぐに記録を取る。
父の顔から血の気が引いた。
「記録するな」
「もうしました」
マルタの返事は明るかった。
客たちの中から、誰かが小さく言った。
「ベルレイン家は終わりだな」
父はその声に振り向いたが、誰が言ったか分からない。名を軽んじる人は、最後には自分の家名の信頼を失う。
リリアはわたしの腕の中で震えていた。
「ごめんなさい」
「今は息をしてください」
「わたし、お父様に逆らいました」
「はい」
「怖いです」
「怖くても、言えました」
ノア様が以前わたしに言ってくれた言葉を、わたしは妹へ渡した。
リリアは泣きながら頷いた。
その夜、ベルレイン家の夜会は醜聞になった。
けれど同時に、リリア・ベルレインという名は、初めて彼女自身の声で貴族社会に示された。
父の家名は沈み、妹の名前は立ち上がった。
奇妙な夜だった。