軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第020話 母の名札の秘密

王妃の署名が名簿院に保管された夜、母の名札が初めて声を出した。

声、といっても人の声ではない。

宿直室で名札を手に取った瞬間、白い布の刺繍が淡く光り、耳の奥で糸が震えるような音がした。

エレノア。

それは、わたしの名前を呼ぶ響きだった。

けれど同時に、母の声でもあった。

「……お母様?」

答えはない。

白い名札の裏側に、今まで見えなかった縫い目が浮かんでいる。わたしは針箱を取り出し、慎重に糸をほどいた。

裏地の中に、小さな紙片が隠されていた。

古い紙だ。何度も折り畳まれ、汗と時間で柔らかくなっている。そこに書かれていたのは、母の筆跡だった。

「この名を奪われそうになったら、家ではなく名簿院を頼りなさい。あなたの名は、あなたのもの。聖女名の鍵は、譲渡ではなく拒否によって目覚める」

わたしは息を止めた。

母は知っていた。

わたしが名前を奪われる可能性を。聖女名が鍵であることを。そして、名を守るためには家を出るしかないかもしれないことを。

紙片の下には、さらに小さな記号があった。

開いた本と、一本の糸。

名簿院の徽章。

母はベルレイン伯爵家の夫人である前に、名簿院と関わりがあったのだろうか。

わたしはすぐにノア様へ紙片を見せた。

彼は文面を読み、表情を変えた。

「この署名印は、先代名簿院長のものだ」

「母は名簿院の職員だったのですか」

「職員名簿を調べよう」

深夜だったが、閉架書庫の一部は緊急閲覧できる。ノア様は記録箱を開け、二十年前の名簿院協力者一覧を出した。

そこに、母の名があった。

クラリス・ベルレイン。旧姓、クラリス・ミュラー。名簿院外部協力者。専門、家系図修復、貴族女性の名札保護、強制名譲り相談。

「お母様が」

指先が震えた。

わたしが知らない母が、そこにいた。

母はいつも静かな人だった。父の前では控えめで、屋敷の中では柔らかく笑っていた。けれど、わたしに名前の大切さを教えるときだけ、目が強かった。

なぜもっと話してくれなかったのだろう。

いや、話せなかったのだ。

父の家で、聖女名を持つ娘を守るには、目立ってはいけなかったのかもしれない。

「強制名譲り相談」

わたしはその項目を見つめた。

「当時も、名を奪われる女性がいたのですね」

「政略結婚や相続で、名を移す圧力は昔からあった。君の母上は、その相談を受けていたようだ」

記録の束には、母の手紙がいくつも残っていた。

夫の家で名前を変えさせられそうな女性。亡くなった姉の名を継がされそうな妹。跡継ぎがいないために家名を背負わされる幼い娘。母は一つ一つ、本人同意の必要性を説き、名簿院へ保護を求めていた。

わたしは読みながら、胸が熱くなった。

母は、わたしが知る前からずっと戦っていた。

その母が、なぜ父と結婚したのか。なぜベルレイン家に留まったのか。それは記録だけでは分からない。

けれど、最後の記録に、わたしの名前があった。

「エレノア・ベルレイン。聖女名保持者。本人が成人するまで、名譲り防止のため個人名札に拒否印を仕込む」

拒否印。

わたしは胸元の名札を見る。

白い布の中に、母はわたしが拒否する力を縫い込んでくれていた。

あの朝、名譲り証ではなく抹名届を選べたのは、わたし一人の勇気だけではなかった。

母が残した糸が、わたしを支えていたのだ。

涙が落ちた。

ノア様は何も言わず、ハンカチを差し出してくれた。

「わたし、お母様のことを何も知らなかった」

「記録は残っている」

「はい」

「知ることは、今からでもできる」

その言葉に、少し救われた。

母の記録を読んでいると、別の名前が何度も出てきた。

フェルゼン侯爵。

当時、彼は名譲り制度の拡大を進めていた。家のため、国のため、血統の安定のため。母はそのたびに反対意見を書いている。

そして、母が亡くなる半年前の記録には、短い警告があった。

「フェルゼン侯爵は、聖女名保持者の名を国家管理へ移す計画を持つ。対象、エレノア。危険」

わたしは震えた。

母の死は病死とされている。

けれど、本当にただの病だったのか。

ノア様も同じことを考えたのだろう。顔が険しくなった。

「この記録は、王宮裁判で重要になる」

「裁判?」

「フェルゼンを止めるには、違法な名売買、王宮実験、子どもの誘拐、そして強制名譲り計画を公にする必要がある。名簿院だけでは処分できない」

「王宮が裁くのですか」

「王宮だけでは危険だ。貴族院、名簿院、王妃の署名を使って、公開審理へ持ち込む」

公開。

それは、わたしの過去も多くの人に知られるということだ。

ベルレイン家の朝食室で何があったか。王太子が何を求めたか。父が何をしたか。わたしが抹名したこと。

怖い。

でも、隠したままでは、同じことがまた起きる。

母は記録を残してくれた。

なら、わたしも記録を表に出すべき時が来ているのかもしれない。

「ノア様」

「何だ」

「公開審理になったら、わたしは証言します」

彼はすぐには答えなかった。

「つらいぞ」

「はい」

「君の旧名を問われる可能性がある」

「リネアとして証言します。必要なら、エレノアであった事実を、自分の言葉で説明します」

母の名札を握る。

エレノアは奪われる名前ではない。わたしが選び直す過去だ。

「分かった」

ノア様は静かに頷いた。

「君の証言を、名簿院が守る」

その夜、わたしは母の紙片を名簿院の証拠箱へ入れた。

少し寂しかった。

でも、母の言葉はもう布の裏に隠しておくものではない。

名前は、守るために表へ出すこともある。

母が残した拒否の糸を、わたしは次の人を守る線へ変えたいと思った。