軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第018話 自分で署名する日

救貧院の子どもたちは、名簿院の保護室で一晩を過ごした。

全員、名前は戻った。けれど、名札を外されていた時間の影響は残っていた。トマは何度も自分の胸元を確かめ、ミアは眠る前に自分の名前を三回唱えた。小さなサナは、朝になってもわたしの袖を離さなかった。

名前を失いかけることは、子どもにとって夜より深い闇なのだと知った。

わたしは彼らの仮保護名簿を作りながら、あることに気づいた。

救貧院の名簿は、院長が管理している。配給屋台は、名簿に載った名札を確認する。子どもたちは、その名札を持っている。けれど、彼ら自身が自分の名前を署名する仕組みはなかった。

名札をなくしたり、破かれたり、奪われたりすれば、彼らはすぐに名簿の外へ落ちる。

それは子どもだけではない。

平民、移民、使用人、兵士。名簿に載る人は多いが、自分の名を自分で確認する機会は少ない。貴族は家系図があり、王宮には儀礼名簿がある。けれど、弱い立場の人ほど、名を他人に管理されている。

「自署名制度?」

ノア様は、わたしの提案書を読んでそう言った。

「はい」

わたしは緊張しながら頷いた。

「配給名簿や救貧院名簿に載っている人が、自分の名を定期的に自分で署名、または読み上げる日を設けます。文字が書けない人は、本人の声紋と名札の糸で確認します。幼い子どもは、本人が名に反応することを職員が記録します」

「つまり、名簿の管理者だけでなく、本人側にも名の控えを持たせる」

「はい。前世では、本人確認書類の再発行に複数の証明が必要でした。この世界でも、名札一枚に頼るのは危険です」

前世の言葉が出てしまったが、ノア様はもう驚かなかった。

彼には、わたしが別の世界の記憶を持つことを少しだけ話してある。窓口で名前を扱っていたこと。紙の手続きが、人の生活を支えること。彼は信じるとも信じないとも言わず、ただ「君の知識として扱う」と言った。

それがありがたかった。

「制度としては有効だ」

ノア様は提案書に印をつけた。

「だが、実施には人手と費用がかかる。王宮が渋る」

「王宮予算ではなく、名簿院の緊急保護費から始められませんか。救貧院三箇所で試験的に」

「できる」

「それから、北門守備隊にも協力をお願いできます。兵士たちは自分の名札管理に関心が高いはずです」

「グレン隊長なら乗るだろう」

ノア様は少しだけ笑った。

「君は味方を使うのがうまくなった」

「使うというより、お願いです」

「お願いも、正しい相手に出せば力になる」

マルタは提案書を読んで、目を輝かせた。

「これ、受付が楽になりますよ。名札をなくした人に“自署控えありますか”って聞けるようになる」

「仕事が増えるのでは」

「増えます。でも、揉めごとが減るならいいです」

その日から、名簿院は救貧院で自署名日の試験を始めた。

最初の日、子どもたちは不安そうだった。机に並んだ木札、薄青い糸、名前を書くだけの紙。文字を書けない子は、絵を描いてもいい。自分の名前を呼ばれて返事をするだけでもいい。

トマは大きな字で、自分の名前を書いた。

トマ・ミエル。

少し歪んでいたが、強い字だった。

「これで、俺の名前、二つになる?」

「控えが一つ増えるわ」

「じゃあ、また取られても戻れる?」

「戻れる可能性が高くなる」

「よかった」

その言葉が、胸に刺さった。

子どもに、また取られることを前提に安心させなければならない世界。それを変えたいと思った。

サナは字が書けなかったので、自分の名前の横に小さな丸いパンを描いた。ミアは歌を一節歌い、その音を糸に記録した。エルドは妹の名前も一緒に書こうとして、わたしに止められた。

「妹さんの名前は、妹さんが書くか返事をするの」

「でも、妹はまだ小さい」

「小さくても、自分の名前は本人のものよ」

エルドは真剣な顔で頷いた。

その様子を見ていた院長エダが、ぽつりと言った。

「今まで、私は子どもたちを守っているつもりでした。名簿も、配給も、寝床も。でも、名前まで私が預かりすぎていたのかもしれません」

「守るために必要だったのだと思います」

「ええ。でも、守ることと握りしめることは違うのですね」

その言葉は、わたしにも刺さった。

名前を守るとは、誰かの手の中に閉じ込めることではない。本人が持てるように支えることだ。

自署名日の記録は、すぐに下町で噂になった。

名簿院が子どもに自分の名前を書かせている。名札を奪われても戻れるようにしている。修復者リネアが、パンの絵でも名前として扱った。

翌週には、救貧院の前に大人たちの列ができた。

洗濯女、荷運び、靴磨き、老いた職人、移民の母親。彼らは自分の名札を握りしめていた。

「私たちも、自分の名前の控えを作れますか」

そう聞かれたとき、わたしは言葉に詰まった。

制度としてはまだ試験段階。人手も足りない。王宮の承認もない。

でも、目の前の人たちは、自分の名前を自分で守りたいと願っている。

ノア様はわたしの隣で言った。

「名簿院として、臨時受付を開く」

「よろしいのですか」

「必要な仕事だ」

マルタが受付机を運び出した。

「では、並んでください。怒鳴る人は最後尾に戻します。名前は大事ですが、順番も大事です」

下町の人々が笑った。

その笑いの中で、わたしは受付に座った。

「お名前をどうぞ」

最初の女性が、自分の名を言う。

「ミラ・コットです」

「では、こちらへご自身で書ける範囲で」

ミラは震える手で名前を書いた。

その文字は美しくなかった。けれど、彼女のものだった。

自分で名前を書く。

ただそれだけのことが、こんなにも人の背を伸ばす。

夕暮れまでに、百二十七人の自署控えができた。

名簿院の職員たちは疲れ切ったが、誰も不満を言わなかった。むしろ、いつもの書類仕事とは違う熱があった。

帰り際、トマがわたしに小さな紙を渡した。

「リネアさんの名前も、俺が書いた」

紙には、大きく歪んだ字でリネアと書かれていた。

「これは?」

「リネアさんの名前の控え。リネアさんも、取られないように」

わたしはその紙を受け取った。

涙が出そうになった。

「ありがとう」

トマは照れくさそうに笑った。

その小さな紙を、わたしは母の名札の隣にしまった。

エレノアと、リネア。

母が縫ってくれた名と、子どもが書いてくれた名。

どちらも、わたしを支えている。

この日を境に、下町の人たちはリネアの名を知った。

王宮が思い出せない令嬢としてではなく、自分の名前を書く場所を作った名簿師として。