軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 呼び戻しは「本日中」

届いたのは、昼過ぎだった。

執事のウィルが玄関の呼び鈴に応じて出て行き、戻ってきたときの表情で、すでにわかっていた。困惑でも怒りでもない。「運びたくなかったものを持ってきた」という顔だった。

「フィリーネ様。王宮よりご使者が」

その後ろから、紺の外套を着た男が廊下に入ってくる。胸の留め金に、本国王家の封蝋と同じ意匠が施されていた。

廊下に立ったまま、私は1度だけ息を整えた。

「応接間へ」

自分の声が、思ったよりも静かだったことに少し驚いた。

応接間に入ると、レオン様が窓際の椅子から立ち上がった。午前中から招聘状の清書に付き合っていただいていた。机の上には、昨日から直し続けた草稿が積まれたままだった。使者が部屋を見渡し、ほんの短い間だけその紙束に目を向けた。私は咄嗟にその視線の先に立ちたいような気がしたが、体は動かなかった。

使者は名乗らなかった。名乗る必要がない立場なのだろう。命令を届けるだけの者に、名はいらない。

「フィリーネ・クレスト様あてに、王宮よりご通達申し上げます」

紙を広げる音が、応接間の空気をきつく張らせた。

「本日中にご帰還いただきたく――」

窓が開いていた。

気づいたのは、使者が読み上げている最中だった。春先の薄い風がかかって、レースのカーテンがゆるく揺れていた。

私は、それを見なかった。

正確に言えば、見ようとしなかった。6年間、そうしてきた。王宮の執務室にも窓はあったが、外を見る時間は存在しなかった。申請書を書き、却下され、書き直し、また却下される。それを繰り返す間に、窓というものの存在を、私はいつのまにかどこかに仕舞い込んでしまっていた。見てはいけないと思っていたのか、それとも見れば壊れると思っていたのか。今はもう、どちらだったかもわからない。

「――外交に支障が出ております。至急、ご対応ください」

語尾だけが丁寧だった。逃げ道がないほど、丁寧だった。

使者が折り畳んだ紙を机に置いた。表面に赤い刻印がある。「本日中」という文字が、紙の中心で静かに主張していた。

ウィルが茶を運んできた。使者が礼儀でひと口含んだ直後、熱さにむせた。小さく咳き込み、体面を保とうとして無表情のまま、ゆっくりと自分の喉を撫でた。

私は気づいたら、卓上の小さな籠に手を伸ばしていた。薬草飴が入っている。来客に出すようなものではないが、ウィルが「喉に良い」と言っていつも置いておくものだ。

「――よろしければ」

使者が固まった。

命令を持ってきた相手から施しを受けるという状況が、想定にないのだろう。私も渡しかけて、半拍遅れてから気づいた。なぜ今、飴を差し出しているのか。

癖だ、と思った。

誰かが困っていたら手を伸ばす。怒鳴られていても、指摘される前に整えてしまう。6年間、そうやって周りを先回りすることで、仕事を回してきた。その癖を、私はまだ持っていた。

使者は飴を受け取らなかった。ただ、小さく目を逸らした。

「外交の支障、というのは」

私は使者に向いた。声は、思ったより揺れなかった。

「昨日始まったのではありません」

使者の眉が、ほんの少し動いた。

「翻訳文の遅延は3か月前からです。暗号辞典が使えなくなったのは、担当者交代のあと、4回の申請が却下されたためです。対応できなかったのではなく、対応するための手段が止められていたのです」

使者が何かを言いかけた。

「予算の件は――」

でも、そこで黙った。

黙ったこと自体が、答えだった。

知っている、と思った。全部知っている。それでも持ってきたのだ、「本日中」という言葉を。薄い紙に赤い刻印を押せば、それだけで済むと思って、持ってきたのだ。

テーブルの向こうで、レオン様が口を開きかけて、止まった。

わかった。何か言いたいことがある。でも、言えない。ヴァイス侯国の外交特使として本国に来ている以上、公式の場で本国の内政判断に口を挟むことはできない。それがわかっているから、今、特使の顔をしながら黙っている。

その沈黙が、妙に重かった。

目が、合った。

レオン様が、ほんの少しだけ首を振った。声は出さなかった。でも、その動きの意味は伝わった。急かさなくていい。あなたが決めていい。そう言っていた。

「お返事を、いただけますか」

使者が促した。

その瞬間、私の口が動こうとした。

――かしこまりました。

6年分の反射が、喉の奥から這い上がってきた。

従う。頷く。「はい」と言えばこの場が収まる。ずっとそうしてきた。そうすることで、場が続いた。仕事が続いた。怒鳴られなかった。叱られなかった。少しだけ、息ができた。

でも今、その言葉が出かかった瞬間に、何かが止まった。

従う癖こそが搾取の入口だと、初めてはっきりと思った。

私の戦いは「本日中」という紙ではない。喉の奥から這い上がってくる、この反射に勝つことだ。

怒りではなかった。静かな、確信だった。

「お返事は――」

レオン様が、静かに口を開いた。

「3刻後に、改めてうかがいます」

使者が少し目を細めた。特使が口を挟んだことへの反応だろう。でも、形式上は問題ない。返答の猶予を求めただけだ。

使者はゆっくりと立ち上がり、深く礼をして出ていった。

廊下に足音が遠ざかるのを聞きながら、私は手の中にまだ薬草飴を握っていた。

レオン様が、こちらを向いた。

「急がなくていい」

短い言葉だった。

急がなくていい――それは、3刻以内に返答しなくていいという意味ではない。従うかどうかを、あなたが決めていいという意味だと思った。

そう理解したのに、喉が詰まった。

言いたいことは、もうわかっていた。6年分の疲れが、ゆっくりと言葉の形を取ろうとしていた。机の草稿が風でめくれ、窓の方から光が差し込んでいた。私は今度だけ、少しだけそちらを見た。

いつから、窓を見るのが怖くなったのだろう。

答えが出る前に、喉がまた閉じた。

言葉は、まだ、出てこなかった。