軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 返書の刻限――外に恥が出る

封蝋の色が、いつもと違った。

ヴァイス侯国の定紋を刻む深青の蝋は、平時ならば儀礼の青に見える。だが今日の封筒は鉛のような暗みを帯びていた。私の目が澱んでいるせいではない。指先が正直に言ってきた――中身が、重い。

「最短便です」

伝令が廊下で胸を張った。靴の泥が白い石床に10とも数えるほどの点を残している。叱ろうとして、やめた。泥は後で拭ける。この封筒の中身は、拭けない。

文書室へ向かった。翻訳官に渡すと、封を切りながら表情が沈んだ。音もなく、椅子ごと下がるように。

「……宛名の敬称が、3段階落ちています」

補足は要らなかった。3段階とは外交語彙で、「協議相手として認める」から「書面で事実を確認する義務がある相手」への降格だ。先方は怒っているのではない。怯えている。返事のない国に見捨てられたと判断しかけている者の文字だ。

文面から目を上げた瞬間、封筒の右上の角が目に入った。外壁の石で擦れたわけでも旅の衝撃で潰れたわけでもない、妙に馴染んだ柔らかさで角が丸くなっている。折り目が1本、内側へ折れていた。誰かが何度も開き、閉じ直した痕だ。同じ封筒を繰り返し手に取り、紙の感触で何かを確かめた者がいる。

誰が、とは言わなかった。

執務室へ移ると、殿下は机の前で返書の白紙を前にして止まっていた。翻訳官が文言を読み上げるたびに、部屋の温度が下がっていく。担当者変更の正式要求。回答期限は5日。相手国が求めるのは、担当者の名と経歴、解任の経緯の説明、後任の提示、使用暗号鍵の更新確認。

1項目目で殿下の筆が遅くなった。2項目目で止まった。

「……担当者の名を」

声が途切れた。

1秒。2秒。3秒。

名が出なかった。

私はそれを見届けた。責める気はない。ただ事実として見届けた。6年間この机のそばで書簡を書き続け、暗号を組み、追伸を添えていた者の名前を、今の殿下は3秒かけても口から出せない、という事実を。

「担当者の要件を、読み上げます」

私は淡々と列挙した。前任者の氏名。担当期間。関連書簡の件数。引き継ぎ先となる後任者の資格要件。外交礼儀としての陳謝文の書式。暗号鍵の証明書類。

1項目ごとに殿下の肩が落ちた。5項目目で、背もたれに沈んだ。

「……代わりはいるか」

「名の欄が、埋まりません」

翻訳官が静かに答えた。後任がいない、という意味ではない。そもそも担当者名を記入できる者が、今この室内に存在しない、という意味だ。

殿下が目を閉じた。

「外に出すな。……外に、恥を出すな」

私は何も言わなかった。外に恥を出さないために今すぐ必要なのは名前を書ける人間だ。その人間はここにいない。恥はすでに外に漏れている。5日後に量が可視化されるだけだ。

そこで私は気づいた。殿下はまだ「返書は文章力の問題だ」と思っている。書ける者を探せば書ける、と。しかし今この白紙の前で止まっているのは文章力の話ではない。誰が何年かけて関係を築いたか、という体制と信頼の話だ。文章が書けないのではなく、書く資格のある記録が最初から作られてこなかった。どこにも残っていない名前は、どこからも出てこない。

会計官の執務室に向かったのは日が傾いてからだ。

返書を出すための最低限の予算申請書を持参した。翻訳補助料と急便費用と暗号照会費、合わせて3件。控えめな額だ。

会計官は申請書の端を爪で弾いた。

「前例が、ありません」

「作ってください」

「規定の確認が、」

「期限は5日です。確認に何日かかりますか」

答えがなかった。赤い印が手の中に収まり、止まった。押す書類を探している。先日の会議で関係のない書類に印を押したこの手が、今夜もまだ迷っている。止める場所を間違えた印が積み重なって今の崩壊になっているのに、その崩壊を補修するための申請書の前でもまだ同じ動作を繰り返している。

「……確認の上、追って」

「承知しました。追って、ではなく、明日の朝一番でお願いします」

私は申請書を机に残して部屋を出た。

執務室に戻ったのは夜だった。翻訳官は帰り、殿下だけが白紙の前に残っている。燭台の火が揺れる。

私は申請書の控えを机の端に置いた。音で、置いた。

「返事が遅いのは、失礼ではありません。——無能の証明です」

殿下は顔を上げなかった。私も上げさせるつもりはない。言葉だけを置いた。

ふと返書の書式が目に入った。翻訳官が書きかけた下書きには、署名欄に殿下のお名前が印字されている。6年間そうだったから、今夜も誰も疑わずにそう書いた。担当者欄は空白のまま、署名欄だけが埋まっている。

私はしばらくその空白を見ていた。空白は何も叫ばない。ただそこにある。

夜半を過ぎた頃、伝令が1枚の報告書を持ってきた。

ヴァイス侯国の外交特使が本国を発ったのは3日前。最短経路を取れば、2日もかからない距離を。

私は報告書を折り畳み、机の引き出しに収めた。

——追伸を3年読み続けた男が、もう動いている。