軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話  3秒の沈黙――言えない名前

引き出しは、空だった。

机の前に立って最初に気づいたのは、それだ。羊皮紙1枚、万年筆の替え芯1本、残っていない。指先で板の表面をなぞると、かすかにインクの匂いがした。乾いた墨の残香が、引き出しの底の木目に染みこんでいる。何年も、何年も、毎日ここに座っていた人間の痕跡が、それだけだ。

僕は引き出しを静かに閉めた。音を立てなかったのは、配慮ではない。単純に、音を立てる気力が出なかった。

外交書簡官の旧執務机は、宰相執務室の片隅に置かれていた。窓のない側の、採光が最も悪い区画だ。会計官が「スペースの効率化」と申請を出して、この位置になったと、宰相が昨日だったか一昨日だったか、何でもない顔で言っていた。

なぜ今になって、そんなことを考えている。

机の隅に、1枚の紙が置いてあった。

折り畳まれてもいない。封もされていない。白い紙を広げると、五行ほどの文言と、最後に署名が入っていた。整った筆致だった。文法の誤りは一字もなく、必要事項が過不足なく記されている。引き継ぎ事項の要点、未了の翻訳案件が3件、対応の優先順位。最後の行に、「クレスト」の姓だけが書いてある。

名前がない。

姓だけだ。

それが書き置きの常識なのか、規則なのか、あるいは――そう、あるいは、「名を書いても読まれない」と、最初から知っていたのか。

考えてから、僕は自分の胸の中がひどく静かなのに気づいた。怒りでも弁解でもなく、ただ静かだ。静かで、不快だ。

「侍従」

扉の前に立って、呼んだ。

「はい、殿下」

「呼べ」

侍従の動きが、一瞬止まった。

「……クレスト」

止まったのは侍従ではない。

僕の喉が止まったのだ。

「クレスト、……」

続きが出ない。姓の次に来るはずの音節が、どこかで詰まっている。発音を知らないわけではない。聞いたことがあるはずだ。この宮殿の廊下で、会議の呼び名で、謁見の席次で、何度も呼ばれていたはずなのに、今この瞬間、喉の奥で固まって出てこない。

3秒が経った。

侍従が目を伏せた。

「……クレスト嬢を、ということでしょうか」

その言い方が、刺さった。「クレスト嬢」。そう、僕も宰相も、翻訳官も、誰もがそう呼んでいた。名前ではなく、姓と敬称を組み合わせた呼称。6年間、ずっとそれだけだ。

「……」

「クレスト嬢でよろしければ、ただちに」

「いい」

声が硬かった。侍従が息を飲んだ。

「呼ばなくていい。下がれ」

宰相の前に立ったのは、それから半刻ほど後のことだ。

用件があったわけではない。書き置きの紙を持って、部屋を出て、廊下を歩いていたら、宰相の執務室の前だった。

宰相は書類に目を通したまま、顔を上げなかった。

「殿下。ノックはしていただけると助かります」

「した」

「……では失礼しました」

宰相が顔を上げた。紙を机の上に置いて、僕の手元を見た。書き置きを見た。何も言わない。

僕は紙を差し出した。

「読んだか」

「はい」

「呼び戻せるか」

宰相が、答えなかった。

答えないのが答えだと分かっていて聞いたのに、実際に沈黙が来ると、胸の中の静けさが不快から痛みに変わった。

「……名前が出ない」

声に出すつもりはなかった。

宰相がこちらを見ている。追い打ちをかける気配がない。それが余計に、続きを引き出した。

「6年、同じ部屋にいた。同じ会議に出ていた。外交書簡を出すたびに、署名が必要で、確認が要って、翻訳の照合があって――それだけ関わって、名前が、喉で詰まる」

宰相は何も言わない。

「謝りたいのに」

その言葉が口から出た瞬間、僕は初めて自覚した。謝りたかったのだ。いつからかは分からない。宰相に「露呈している」と言われてからか、暗号が読めないと翻訳官が報告してきた日からか、あるいは抗議文の山を机の上に見た最初の朝からか。

「謝りたいのに、呼べない」

宰相が、低い声で言った。

「名を呼べないのは、罰ではありません」

一拍置いて。

「――事実です」

罰ではない。罰なら、いつか終わる。事実は終わらない。6年間一度も名前で呼ばなかったことは、この先も変わらない過去だ。謝罪の言葉を並べる以前に、呼ぶべき名前が今の今まで喉にない。それは弁解ができない。

宰相が書類に視線を戻した。

「殿下。本日午後の返書の件ですが」

「……分かった」

「ヴァイス侯国への担当者変更の回答期限まで、残り2日です」

執務室に戻って、机の上の書き置きをもう一度広げた。

5行の文言と、「クレスト」の署名。名前はない。最初から書かれていない。

引き出しを開ける。空だ。インクの匂いだけがする。

僕は、書き置きの横の、何も置かれていない空白に、ペンの先を当てた。一行だけ書こうとした。謝罪でも弁解でも、一行でいい。

ペンが、止まった。

一行書くために、まず最初に、宛名を書く必要がある。

宛名のところが、空白のままだ。

翌朝、侍従が申し訳なさそうな顔で、小さな紙を差し出してきた。

「昨日、ご要望と受け取りまして……一覧を作りました。過去の公式呼称の一覧でございます」

受け取って、一番上を見た。

「……クレスト嬢」

「はい。謁見録・会議録・書簡照合記録、いずれの文書も、その呼称で統一されておりまして」

紙の一番上にあるのは、「クレスト嬢」。その下には、欄が続いているが、全部空白だ。他の呼称がない。6年分の記録が、全部「クレスト嬢」で止まっている。

その下の空欄に、何かが書かれるべきだったのだと、今初めて分かった。

宰相の言葉が、耳の奥で繰り返す。

――名を呼べないのは、罰ではありません。事実です。

その事実が、どこまで続くのか。

返書の期限まで2日。担当者変更の回答は、誰の名前で出す。誰の、何という名前で。

その答えを、僕は持っていない。