軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十八話 為すべきこと

夜の戦は、勇だけでは決まらぬ。

どれほど一人ひとりが死力を尽くそうと、形が死ねば、その勇はもう戦の役には立たない。

逆に、一度崩れたように見える陣であっても、どこかに芯が残っていれば、そこからまた立ち直る。

その夜、勢福寺の麓では、まさにそのことが起きていた。

馬場頼周が討たれた。

その報は、声としては一つでしかなかった。

だが、夜戦では一つの声が一つで終わらぬ。誰が叫んだか、どこで上がったか、それがはっきりせずとも、兵の背、槍の向き、火の揺れ、そうしたものが先に意味を伝えてしまう。

白が揺れた。

少弐の先手が、前へ伸びるための白ではなく、崩れながら散るための白になりつつある。

冬尚はまだ馬場の最期を目にしたわけではなかった。だが、見ずとも分かった。

前の形が死んだ。

法螺貝二声で開いたはずの道が、いまは逆にこちらを呑み込もうとしている。

本陣後ろへえぐり込んだあの逆凹も、先ほどまでのように深くは見えぬ。闇の中で乱れていた火の筋が、少しずつ左右から寄り、裂け目を閉じ始めている。

森羅衆であった。

最初の衝撃に押し込まれながら、なお底で踏みとどまった者どもが、いままた火を持ち直し、鬨をつなぎ、三人組の巡りを戻し始めている。

凹の底はまだ残っている。だが、それはもう「さらに開く傷」ではなく、「閉じつつある傷」だった。

冬尚は、それを見た。

ならば、もう勝ち筋は薄い。

いや、ほとんど無い。

だが、ここで止まればもっと無い。

「……進むぞ」

誰へともなく言った。

それでも近くの者は聞いた。

「殿」

側の者が、何か言いかけた。

冬尚は振り返らぬ。

「ここで止まれば、少弐はこの夜で死ぬ」

声は驚くほど静かだった。

「進んでも死ぬやもしれぬ。だが、止まればそれで終いだ」

それだけだった。

それだけで十分だった。

もはや兵を励ます言葉ではない。

事の理そのものだった。

「押せ」

冬尚はあらためて言った。

「前へ」

白が、また動く。

しかし、もう先ほどまでの動きではなかった。

馬場の先手が開いた道へ、勝ちの匂いを嗅いで雪崩れ込むはずの勢いではない。押され、迷い、なお押し出されるような前進だった。

その時、右手――いや、いまの冬尚から見れば前へ伸びた馬場隊のさらに横から、新たな圧がかかった。

鍋島信房である。

後続百が、ようやく追いついた。

しかもただ追いついたのではない。すでに清房が左横腹から馬場隊を食い破り、その形を歪めている。そこへ今度は信房が、そのさらに外から噛みついた。

少弐の後手は、一瞬で二方から食われる形となった。

前は清房。

横は信房。

さらに本陣側では、立て直した森羅衆が火の線を戻しつつあり、くぼみの底を左右から狭め始めている。

夜襲の理が、ここで完全に裏返った。

もともと少弐は、阿蘇本陣後ろに裂け目を作り、そこへ先手、後手、本隊と順に流し込むはずであった。

だが今、その裂け目は閉じつつある。閉じながら、その中に入ってきた少弐勢を押し潰そうとしている。

冬尚は、そこでようやく見た。

前に、まだ壁がある。

血に濡れ、馬も傷み、夜の火に照らされてなお崩れきらぬ影。

鍋島清房であった。

馬場を討ち、その代償に深手を負い、それでもまだ馬上を離れぬ。

あれが今夜の境目だった。

あれを抜けぬ限り、本陣へは届かぬ。

冬尚の胸の内で、何かがすっと冷えた。

なるほど、と思った。

今夜の勝ち負けは、もはや兵の数ではない。あの男がまだいるかどうかで決まる。

「……清房か」

小さく呟く。

返事はない。

だが、あちらもまたこちらを見ている気がした。

清房の周りでは、鍋島の兵がまだ立っている。

森羅衆の火も近い。

そのさらに横では信房隊が、父の隊へ食い込もうとする少弐兵を斜めから叩いていた。

押せば押すほど、少弐の列が削れる。

それでも押さねば終わる。

冬尚は、馬を進めた。

「殿、危のうございます!」

誰かが叫んだ。

「危なくないところが、どこにある」

冬尚は初めて少しだけ声を荒げた。

「ここで退けば、少弐の名は今夜で地へ落ちる」

兵は黙った。

「ならば行くぞ」

冬尚の目は、もはや前だけを見ていた。

「せめて本陣の芯へ、届くところまで届かせよ!」

その一声で、なお残っていた者たちが前へ出た。

勝てると思ったからではない。主がなお前にいるからである。武の時代とは、そういうものだった。

白がまた寄る。

だがもう美しい刃ではない。

欠けながら、それでもなお肉を裂こうとする折れ刃の最後の押しである。

清房もまた、それを見た。

息はもう浅かった。

脇腹の傷は、熱いというより重い。血は止まらず、鞍の上にまでぬめりが広がっている。馬もまた傷み、時おり前足にわずかなためらいを見せた。

それでもなお、視界は澄んでいた。

あれが冬尚。

少弐の旗そのものだ。

ならば、ここを通すわけにはいかぬ。

信房も分かっている。

本陣後ろの裂け目は、閉じつつある。

ならば必要なのは、敵を押し返すことではない。押し込まれたまま、左右から噛み、前へだけは出させぬことだ。

「森羅衆! 火を切らすな!」

どこかで宗運の声も飛ぶ。

「底を支えろ! 左右より狭めよ!」

火がひとつ高く上がる。

それを合図に、森羅衆の列がさらに戻る。

二人が前へ出る。

一人が補いに回る。

誰かが疲れれば、すぐ別の者が入る。

松明は脇へ渡り、また別の手が取る。

巡りが戻る。

それはそのまま、阿蘇本陣が生き返るということだった。

冬尚もそれを悟った。

遅い。

もう、遅い。

だが、それでも進むほかない。

人は時に、勝つためではなく、退かぬために前へ出る。

いまの冬尚がまさにそれだった。

「押せぇッ!」

冬尚の声が、ようやく夜気を裂いた。

その声に残る兵が応じ、最後の押しが始まる。

清房隊へぶつかる。

信房隊が横からそれを食う。

森羅衆が本陣側から押し返し、くぼみをさらに狭める。

鉄が鳴る。

木が折れる。

悲鳴が散る。

夜の戦らしく、誰がどこで死んでいるのか、もはや細かくは分からない。

ただ一つ確かなのは、少弐の勢いがもう“前へ伸びる形”ではなくなっていることだけだった。

冬尚は馬上で槍を振るった。

ひとり倒れる。

またひとり。

だが倒しても倒しても、前は開かぬ。

むしろ近づけば近づくほど、清房のいるあの位置が遠く見える。

あとひと息。

あとひと押し。

その“あとひとつ”が、埋まらぬ。

これが戦か、と冬尚は思った。

勝つ時は、たしかに道が開く。

押せば押すほど、前が軽くなる。

だが負ける時は違う。前へ出ているはずなのに、道が縮まらぬ。距離だけが、どうしても残る。

清房の影が、また見えた。

血に濡れ、馬も傷み、ほとんど虫の息であろうに、なおそこにいる。

その姿は、もはや一人の武者というより、夜の裂け目そのものに打ち込まれた杭のようであった。

抜けぬ。

冬尚は、それを知った。

だが、それでも行く。

馬を寄せる。

槍を構える。

最後のひと突きで、せめてあの壁へ届かせる。

「少弐ッ!」

清房が吠えた。

「来るなら来い!」

冬尚は何も答えなかった。

答える息が惜しかったわけではない。もはや言葉が要らなかった。

馬が近づく。

火の明かりが二人のあいだを照らす。

その刹那、横から信房勢がさらに食い込んだ。

冬尚の側兵が一人、二人と崩れる。

森羅衆の槍もまた本陣側から伸び、冬尚隊の列はそこで完全に“伸び切れぬ形”に変わった。

冬尚はなお前へ出ようとした。

だが、馬がもはや思うようには進まぬ。

兵の死骸。倒れた槍。乱れた列。夜戦の底に溜まったそれらが、最後のひと息を奪ってゆく。

槍を上げる。

重い。

いや、槍が重いのではない。

腕が、もう重かった。

そこで冬尚は、自分がいくつも傷を負っていることを、今さらのように知った。

脇も、肩も、腿も、どこかしら熱く、どこかしら鈍い。馬に乗っているからまだ前を向いていられるだけで、地へ降りればそのまま崩れるであろう。

それでも目だけは、まだ前を見ていた。

清房はいる。

本陣もまだ生きている。

馬場は死んだ。

夜襲は失敗した。

そこまで来て、冬尚は不思議と腹が静かになるのを感じた。

ああ、と思った。

ここまでだ。

勝てはせぬ。

少弐は、おそらくこれで終わる。

だが、自分は逃げてはおらぬ。

馬場を先へやり、自らも後手を率いて出て、本隊を動かし、最後まで前にいた。

少弐の当主として、やるべきことは、たしかにここまでやった。

馬がひとつ大きく揺れた。

冬尚の体も、それにつられて傾く。

もう槍を支える腕に力がない。

誰かの声が遠くで上がった。

清房か、信房か、森羅衆の鬨か、それすらよく分からぬ。

冬尚は、薄く息を吐いた。

「……よい」

声は、自分でも驚くほど穏やかだった。

「……まあ、ようやった方であろう」

その言葉が、誰に聞こえたかは分からぬ。

だが、冬尚にはそれで十分だった。

次の瞬間、体から力が抜けた。

馬上の姿が崩れる。

槍が手から滑り、夜の底へ落ちる。

少弐冬尚は、ついにその場で尽きた。

その影が沈むのを見た時、少弐方の白は、もう二度と前へ伸びる白ではなくなった。

阿蘇本陣後ろの凹は、そこで完全に閉じた。