作品タイトル不明
第七十七話 ここが見せ場
夜の闇は、ものを隠す。
だが、ただ隠すだけではない。
近いものを遠く見せ、遠いものを不意に目前へ寄せる。火はある。声もある。けれど火は地の形までは照らさず、声は人の顔までは運ばぬ。夜の戦とは、見えるものより見えぬものの方が多いまま、なお形だけは失わぬよう支え続けねばならぬ戦であった。
鍋島清房は、その闇の中を百ばかり率いて進んでいた。
初めより馬上である。
ただし駆けてはいない。蹄の音を殺し、馬の鼻息を抑え、兵にも声を張らせず、闇へ馴染ませるようにじりじりと寄せていた。夜の戦で恐ろしいのは、遅れることだけではない。早まり、こちらから在り処を知らせることの方が、よほど恐ろしい。ゆえにここまでは、馬の速さではなく、馬を抑える重さで来たのである。
だが中央本陣の後ろは、すでに騒ぎ始めていた。
押し合い。
怒鳴り声。
火の乱れ。
それでもまだ、「本陣が崩れた」という騒ぎではない。
乱れの底に、なお踏みとどまっている芯がある騒ぎだ。
森羅衆か。
種茂か。
いずれにせよ、まだ持っている。
ならば、間に合う。
清房はそう思った。
そう思わねば、この百だけで夜の中を割って来た意味がなくなる。
前に、白が見えた。
闇の中、火の揺れに拾われる背の白である。
前面は黒く汚し、後ろにだけ白を負っている。敵味方を見失わぬための工夫であることは、見れば分かる。だが、それだけではない。あれは退く時には命取りになる白だ。つまり、退かぬつもりで来ている。
少弐も今夜は、本当に死ぬ気で噛みに来た。
清房は、火と火のあいだに動く影を読んだ。
敵は本陣後ろのくぼみへ、細く、深く入り込んでいる。
阿蘇の陣は、後ろからえぐられ、一時逆凹のようになっていた。そのくぼみの底へ、馬場の先手が刃のように伸びている。前へ前へと食い込むための形である。ゆえにその刃は、正面から受ければなお鋭い。だが、片側を食われればたちまち向きを失う。
清房が入るべきは、そこだった。
馬場の正面ではない。
背後でもない。
左翼から、本陣後ろのくぼみへ食い込んだその先手の、左横腹へ斜めに噛みつく。
そこを裂けば、前へ伸びた刃は芯を失う。
その時、中央の火が一段大きく乱れた。
風ではない。見違いでもない。押し込みと踏みとどまりとが、火の線そのものを歪めている。
本物だ。
「かかれッ!」
抑えていた声が、そこで初めて鋭く裂けた。
「左横を食い破れ! 深追いは要らぬ、まず列を歪めよ!」
それまで押さえつけられていた馬が、そこで初めて前へ噴いた。
鍋島の百は馬上のまま闇を裂き、本陣後ろのくぼみへ突き込んでいる馬場隊の左横腹へ、斜めに食らいついた。
夜襲の先手は、前へ前へと伸びることで刃になる。
その刃は細い。細いからこそ、闇の中でも形を保てる。だが細いということは、横から重みを打ち込まれた時には脆いということでもある。
白が揺れた。
槍が跳ねた。
人の列が半ばから折れ、後ろの者が前の背を見失う。
夜の戦では、その半歩のずれが大きい。
誰の後ろにつくべきか分からなくなった瞬間、夜襲の刃はただの人の群れへ落ちる。
清房が欲したのは、その一瞬だった。
「槍を前へ!」
馬上から叫ぶ。
「太刀はそのあとだ! まず押し崩せ!」
鍋島の兵は、森羅衆ほど整い切ってはいない。
だが今夜ばかりは、もともとの締まり方が違っていた。左翼は眠りが浅い。恨みのある者は、夜に鈍らぬ。その差がここで生きる。
槍衾が、馬上の勢いごと斜めから突き刺さった。
敵は完全に虚を突かれてはいなかった。馬場の先手である。夜の中でも崩れきらぬ。すぐに何人かが振り返り、白い背を軸に味方の位置を拾い、迎えの槍を出してきた。
だが、間に合わぬ。
斜めから入る騎馬の重みは、それだけで人を半歩、いや一歩ずらす。
その一歩が列の芯を奪う。
馬の肩が人を押し、槍がその隙へ入る。
倒れた者の上へ、さらに後ろの者がつまずく。
前へ進むために作られた先手の形が、左脇を食われたことで一瞬だけ「止まる」形へ変わった。
それで十分であった。
「今ぞ、噛めッ!」
清房は馬腹を寄せた。
止めるためではない。
折るために入った。
敵の外縁へ槍をかけ、押し返すのではなく向きを狂わせる。
一人を討つより、三人の向きをずらす。
夜の乱戦では、武勇よりまず形だ。形が崩れれば、そのあとに死は勝手に増える。
だからこそ清房は、真っ直ぐ馬場へは行かなかった。
まずその周りを崩した。くぼみの底へ食い込んでいた馬場の先手二百五十が、なお「一つの刃」であることを許さなかった。
その中に、あの影があった。
ただの兵ではない。
踏み込み方。
間の詰め方。
崩れた夜の中でもなお、自分の前を失っていない者の動き。
馬場頼周。
胸の底で、何かが一気に煮えた。
闇も、火も、夜襲も、その瞬間だけはどうでもよかった。
あれがいる。
あれが、龍造寺を血で絶やそうとした刃だ。
ここで逃せば、また生きて山へ帰る。明朝には少弐の旗の下に立ち、何事もなかったように次の理を語るであろう。
それは許せぬ。
いや、許せぬでは足りぬ。
ここで終わらせる。
「鍋島か!」
低い声が、闇の中で響いた。
その声に、清房の胸の底の熱はかえって冷えた。
「いかにも!」
返しながら、さらに馬を寄せる。
「ようやく会えたな、馬場頼周!」
横で火がひとつ高く振られた。
その一瞬の明かりで、馬場の顔が見えた。
老けた。
だが鈍ってはいない。
むしろ、死に場所をようやく見つけた者の顔をしていた。
「来ると思うておったぞ、清房」
「ならば待っていたか」
「待っておったとも」
馬場は笑った。
闇の中なのに、その笑みだけが妙に見えた。
「龍造寺の恨みか」
「恨みだけで済むなら安い」
それで、もう言葉は要らなかった。
先に来たのは馬場の槍である。
速い。
夜だからこそ、無駄がない。
清房は馬上からそれを受け流した。槍の穂先が具足をかすめ、火花が飛ぶ。馬場はまともに人を突くつもりではない。まず馬の利を殺す気であると、清房にはすぐ分かった。
騎馬は高い。
高いがゆえに、下から馬へ来られれば厄介でもある。
馬場の槍は、二度目には馬の胸前を狙った。
清房は手綱を引き、馬の首を半ばひねる。穂先が外れ、毛を少し削いだ。
危ない。
だが同時に、馬場もまたこれで腹を見せた。
清房は、その隙へ自ら馬を押し込んだ。
馬上の利は、高さだけではない。馬体そのものが押しになる。徒歩の敵がどれほど胆力を持っていようと、この重みを受け続ければ、斜めに食われた側の間は必ずさらに歪む。
「おおッ!」
清房の槍が、上から強く打ち込まれた。
馬場は受ける。
受けるが、足が沈む。
その後ろでも、白を負う兵がまだ踏ん張っていた。
だがすでに最初の形ではない。
馬の肩で押され、鍋島勢の槍に食われ、くぼみの奥へ伸びていたはずの刃が、ここでは押し返すこともできず耐えるだけの形に変わりつつある。
森羅衆の鬨が聞こえる。
つまり本陣はまだ生きている。
だが、この馬場隊をここで止めきらねば、その生きている本陣へ次の波が届く。
清房はさらに深く入った。
危険は分かっている。
馬場の後ろにはまだ兵がある。
ここで自分が馬場へ寄りすぎれば、鍋島の百は横から削られる。
だが、それでも今は行くしかない。
敵の刃を鈍らせるだけでは足りぬ。
敵の頭を落とさねば、夜襲そのものが止まらぬ。
清房は槍を捨てた。
もうこの間合いでは、太刀の方が早い。
馬場もまた、ほとんど同時に得物を変えた。
「まだだ、鍋島!」
「こちらもだ!」
闇の中で、二人の刃が火を散らした。
馬上からの太刀は重い。
ただ振るうだけではない。高さと馬の押しとを合わせ、相手の受けごと叩き割るための太刀である。馬場はそれをまともに受けず、半歩ずつ身をずらしながら、なお下から馬の利を殺そうとした。
この男は、最後まで理を捨てぬ。
清房はそう思った。
だからこそ、ここで斬るべきなのだとも思った。
その火に照らされるたび、清房の胸の内には、あの時の顔が浮かぶ。
死んだ者の顔ではない。
残された者の顔。
呆けたように、何もできず、ただ家の絶えゆく音だけを聞いていた者たちの顔である。
ここで終いにせねばならぬ。
恨みは深い。
だが、それを抱えたまま次の世へ渡すわけにはいかぬ。
信房がいる。
種茂もいる。
若い者はもう、次の理を見始めている。
ならば古い恨みは、ここで斬り捨てておくべきだ。
馬場が斜めに入り、太刀を下から振り上げてきた。
人を斬るのではない。馬上の脇を崩し、鐙の踏ん張りを殺すための筋である。
鋭い。
だが、まだ足りぬ。
清房は鐙を踏みしめたまま、あえて半歩ぶん馬を前へ出した。
近すぎれば馬上は不利だ。
だが、近すぎると分かってなお入れば、相手は「馬を殺す」ための間を失う。
「清房様ッ!」
誰かが叫んだ。
次の刹那、馬場の刃が清房の脇腹を深く裂いた。
熱い。
だが同時に、清房の太刀もまた振り下ろされていた。
「もろたぞ、馬場ァッ!」
上からの一太刀であった。
馬場が受け切れぬ。
肩口から胸元まで、火に照らされて深く裂ける。
その衝撃に、馬場の体が後ろへ崩れた。
馬場頼周の目が、ほんのわずか見開かれた。
何か言ったように見えた。
だが、清房には聞こえなかった。
馬場頼周の体が、火の下で崩れ落ちる。
鍋島の兵が、一瞬声を上げた。
敵の白が大きく揺れる。
討った。
ついに討った。
龍造寺の血を絶やそうとした刃を、ここで折った。
「馬場頼周、討ち取ったり!!」
その声は、夜の空気を震わせた。
だが、その勝ちの手応えは、ほんのひと息しか続かなかった。
清房は太刀を振り払おうとして、馬の揺れに気づいた。
馬もまた、浅くはない傷を負っている。
先ほどの馬場の槍か、あるいはその前後の乱戦で受けたものか。まだ立ってはいる。まだ前へ出られる。だが、先ほどまでのような素直な伸びはもうない。
馬の利が、削がれ始めていた。
清房は顔を上げた。
その向こうの闇が、さらに動いていた。
人だ。
しかも少なくない。
鍋島勢がぶつかったのは、あくまで馬場の先手。
そのさらに後ろから、白がまた寄ってくる。法螺貝二声を聞いて、本命が入ってきたのだ。
少弐冬尚。
名を呼ばずとも分かった。
あれは、ただ開いた道へ流れ込む兵の気配ではない。
くぼみの底へ押し広げられた裂け目へ、自ら勝ちを決めに来る者の気配である。
清房の足元から、力が少し抜けた。
傷は浅くない。
馬場を斬るため、自分から深く入った代償である。
馬もまた傷んでいる。
だがまだ倒れはせぬ。
倒れてはならぬ。
後ろでは信房の後続百が、まだ追いつき切っていない。
本陣側でも森羅衆がなお踏みとどまっている。
だが、この冬尚隊がこのままくぼみの底へ流れ込めば終わる。
本陣が割れる。
そこで清房は、ふと笑った。
不思議と、胸の内は静かだった。
馬場は討った。
ならば、あと一つだ。
ここで冬尚を食い止めればよい。
信房が来るまで。
森羅衆が左右から噛むまで。
若君の本陣が折れぬ間だけ、耐えればよい。
それだけのことだった。
清房は血で濡れた太刀を握り直した。
「よいか!」
鍋島の兵へ向けて声を張る。
「馬場は討ち取った!」
その一声で、味方の足が止まるのを防ぐ。
「だが後ろに、まだおる!」
白が寄る。
闇が押す。
少弐の本命が来る。
「ここを抜かせば本陣が崩れるぞ!」
兵の顔が、一斉にこちらを向く。
それで十分だった。
いま必要なのは、勝ちではない。
持たせることだ。
ひと息。
ふた息。
その間さえ耐えれば、夜は変わる。
清房は、傷んだ馬の首を軽く叩いた。
まだ行ける、と伝えるように。
傷は熱い。
だが心は妙に澄んでいた。
ここが鍋島清房、最後の場だと、もうどこかで分かっていたのかもしれぬ。
「我らが耐えるしかない!」
そう叫び、闇の中の白へ太刀を向ける。
冬尚の後続が、すでに目の前まで迫っていた。
ならば来い。
ここが境だ。
ここを越えさせぬ。
清房は血を吐くように息を吸い、そして叫んだ。
「ここを抜かせば本陣が崩れる! ここが清房最後の見せ場よ!!」