軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十六話 夜にえぐられる陣

夜は、声より先に揺れた。

最初に異変を知ったのは、音だったのか、火だったのか、あるいは鍛えた兵の肌が、闇の奥の気配を先に拾ったのか。あとになって思い返しても、惟種にはそれがはっきりとは分からなかった。

ただ、静かであったはずの本陣後ろが、ある瞬間から静かではなくなったことだけは確かだった。

夜の陣は、昼の陣と違う。

火は焚かれている。

だが、その火は場を明るくするためのものではない。人がどこにいるかを、かろうじて味方だけが見失わぬためのものだ。ひとつ灯れば、その向こうはかえって深く沈む。見えるところと見えぬところの差が、昼の何倍にもなる。

だから夜は、少しの乱れがすぐに大きく見える。

惟種が本陣の前で、もう一度だけ勢福寺の方へ目をやった、その直後だった。

後ろで怒鳴り声が上がった。

ひとつではない。

短く、切られたような声。

それに重なる足音。

次いで、火が動く。

「若君!」

伝令が、ほとんど転がるように駆け込んできた。

肩で息をし、喉を焼いたような声で叫ぶ。

「敵襲っ! 本陣後ろより、敵襲ッ!」

その一声のあと、間を置かず、夜気を裂くように法螺貝が鳴った。

一度。

そして、もう一度。

二声。

惟種の胸の内で、冷たいものが一気に研がれた。

法螺貝二声。

先ほどまで阿蘇の陣にはなかった合図である。

敵が、自らの勝ちを知らせるために吹いたのだと分かるには、それで十分だった。

宗運が、誰よりも先に声を張った。

「鬨を作れッ!」

その声は、闇の中でも驚くほどよく通った。

「本陣は生きておると聞かせよ! 声を絶やすな!」

鬨。

夜戦では、声はただ勇を示すだけではない。

どこに味方の芯があるかを知らせる。

乱れかけた兵に「まだ折れていない」と教える。

そして敵に、「崩したつもりであろうが、まだだ」と返す。

すぐに本陣側から鬨が起こった。

荒い。

整ってはいない。

だが、それでいい。

今は整っていることより、消えていないことの方が大事だった。

惟種は、すぐに振り返った。

闇の中で、本陣後ろがえぐられている。

それは「崩れた」と言い切るにはまだ早い。

だが、「整っている」と呼ぶにはもう無理だった。

中央後ろの外縁が、夜襲の刃で内側へ食い込まれている。

陣形は一瞬、後ろから噛み破られたように歪み、まるで陣の腹に深い爪を立てられたようだった。

凹んでいる。

ただし前ではない。

後ろだ。

阿蘇の本陣は、後ろからえぐられていた。

そこに、種茂がいた。

鍋島種茂の預かる森羅衆の一部は、最初の衝突をすでに受けていた。

火が乱れた場所の底で、三人組の列が一度は押し込まれ、それでもまだ崩れ切らずに留まっているのが見えた。

種茂の声も聞こえる。

「下がるな! 二人で受けろ! 火を切らすな!」

若い声だった。

だが浮いてはいない。

喉が裂けそうな声の張り方の中にも、命令の形があった。

最初の敵襲は、すでに本陣外縁をひとつ破っている。

だが、種茂の持ち場がその底で噛み止めていた。

それで、かろうじてまだ本陣は生きている。

「若君!」

宗運が惟種の横へ寄った。

「先手を受け止めております!」

「種茂か」

「はい!」

惟種は一瞬だけ、喉の奥で息を押し留めた。

よくやった。

だが、まだ褒めるところではない。

いま必要なのは、ここから先を進ませぬことだった。

「まずは体勢を立て直す!」

惟種は、兵に届くよう声を張った。

「一度受け流せ! 押し返そうとするな!」

夜戦で、押し返そうとすると列が崩れる。

勢いのまま前へ出た兵は、そこで味方を見失う。

いま必要なのは前へ出ることではない。

くぼみをそれ以上深くさせぬことだった。

「三人一組を徹底せよ!」

惟種の声が飛ぶ。

「日ごろの鍛えを思い出せ!」

闇の中の森羅衆が、その声を拾う。

「二人は敵を叩け! 一人は明かりを保て!」

それは、昼から宗運と詰めていた夜備えそのものだった。

「火を落とすな! 味方を見失うな!」

さらに命じる。

「前の二人、疲れた者はすぐ下がれ! 補いが入れ! 巡りを切るな!」

森羅衆の強さは、ひとりの剛勇ではない。

三人で一つの欠けを埋める、その巡りにある。

二人が前で受ける。

一人が補いに回る。

前のどちらかが疲れれば、補いが入る。

下がった者は息を継ぎ、また次の補いになる。

夜の今は、その補いの一人がまず松明を持つ。

だが火を持つからといって戦わぬわけではない。

前の二人が鈍れば、火を脇へ渡してでも入る。

また別の者が火を取る。

その巡りを切らぬ限り、森羅衆は夜でも簡単には割れない。

惟種の命が飛ぶたび、火の線が少しずつ整い始めた。

乱れていた中央後ろの灯が、完全ではないにせよ、ひとつの線へ戻り始める。

押し込まれた形はまだ残っている。

後ろからえぐられたくぼみはなお深い。

だが、その底で、ようやく森羅衆が踏ん張りを取り戻しつつあった。

種茂の側でも、松明がひとつ高く上がる。

その火に照らされ、一瞬だけ、敵の白が見えた。

背の白布。

惟種の目が細くなる。

味方を見失わぬためか。

いや、それだけではあるまい。

退けばかえって目立つことを承知で、なお背負ってきた白だ。

死ぬ気で来ている。

少弐か。

それとも馬場か。

どちらにせよ、今夜の敵は軽くはない。

だが――

「止まった!」

宗運が叫んだ。

そうだった。

後ろからえぐられた陣は、たしかに逆凹のように歪んでいる。

だが、そのくぼみはそこで止まっていた。

最初の先手は入った。

だが、種茂の預かる森羅衆がそこで噛み止めた。

それ以上は、まだ進ませていない。

惟種は、そこで初めて一息だけ深く吸った。

「よい!」

すぐに続ける。

「そこを底にするな! 左右から噛め! くぼみを狭めろ!」

これは夜の戦だ。

敵を押し返すのではなく、入り込んだ刃を左右から削る方が早い。

「本陣を真っ直ぐ守ろうとするな! 噛ませて潰せ!」

宗運もすぐにその意を拾う。

「左右へ伝えろ! 底を支えろ! だが前へ出すぎるな!」

伝令が走る。

火が揺れる。

鬨はなお断続的に続いていた。

だが、その時だった。

惟種は、ぞっとするような別の気配を聞いた。

人馬の数が、まだある。

いま突っ込んできている先手だけではない。

闇の向こうに、まだ押し寄せる塊の気配がある。

宗運も同じものを感じたらしかった。

「若君……」

「後続が来る」

惟種は言った。

短い。

だが、それだけで十分だった。

最初の先手は止めた。

だが、それだけだった。

この逆凹のくぼみに、さらに後続が雪崩れ込めば、さすがの森羅衆でも本陣そのものが割れる。

今はまだ踏みとどまっている。

だがその踏みとどまりは、次の一波を受けるための余力までは保証しない。

危うい。

間に合うかどうかの境にいる。

「惟種、下がれ」

惟豊が、低く言った。

戦の音の中でも、それははっきり耳へ届いた。

父の声だった。

そして総大将の声でもあった。

惟種は、振り返らずに答えた。

「下がれば、ここが崩れます」

惟豊は何も言わない。

惟種は続けた。

「いま我が退けば、本陣が割れたと思われましょう」

夜戦では、目に見えるものより、どう見えたかの方が速く広がる。

若君が下がった。

本陣が崩れた。

その噂は、声より早く兵の背中へ入る。

「ゆえに下がれませぬ」

惟豊の沈黙は、ほんの一瞬だけ長かった。

それから、短く言った。

「ならば、崩すな」

「は」

それで十分だった。

惟種は、もう一度前を向いた。

火の線はまだ揺れている。

種茂の持ち場はなお押されている。

くぼみはそこで踏みとどまっている。

だが後続が来る。

間に合わねば、本陣は折れる。

「宗運!」

「はっ」

「本陣近くの伝令、火の筋を切るな! どこが空いたか絶えず知らせよ!」

「承知!」

「種茂の前へ、予備回せるだけ回せ!」

「は!」

「くぼみの左右、狭めろ! だが深追いするな! 受けて、噛み、削れ!」

惟種の声は、自分でも驚くほどよく出た。

恐れはある。

ないわけがない。

だが恐れは、声に乗せなければ兵には伝わらぬ。

今はただ、芯であることだけが要る。

種茂の持ち場で、ひとつ火が高く振られた。

それが、まだ持つという合図なのか、もう危ういという合図なのか、夜の中では判じにくい。

だが、そこに兵がまだ立っていることだけは分かった。

その瞬間、闇の奥から、さらに低い地鳴りのような気配が寄った。

後続だ。

いよいよ来る。

そして、その刹那だった。

左翼から突出してきている闇が有った。

最初は、火ではなかった。

声でもない。

闇そのものが、別の刃で裂けたように見えた。

次いで、馬の息。

槍。

押し殺していた気配が、一気に前へ噴く。

惟種の目が、そこへ向いた。

左翼である龍造寺方面からであった。

本陣を助けるため、鍋島清房が手勢を率いて突撃してきたのである。