軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十五話 左の闇

夜は静かだった。

静かすぎる、と鍋島清房は思った。

四月の夜気は、真冬のように骨へ刺さらぬ。だが、ぬるいわけでもない。風は細く、肥前の土の匂いを薄く引いて流れてゆく。空は晴れていた。雲がなく、星はよく見える。見えるからこそ、地の上の暗さはなお深く、陣の火と火のあいだにあるものは、何ひとつ確かには見えなかった。

阿蘇の左翼陣は、押し黙っていた。

龍造寺家宗の旗。

鍋島の旗。

その下に集まる兵の顔は、焚き火の端に照らされてもなお固い。中央の森羅衆のように整いきった静けさではない。右翼の国衆勢のように、どこか気の抜けた静けさでもない。

こちらの静けさには、火の気が残っていた。

古い恨みと義が、まだ胸の底で燻っている者たちの静けさである。

清房は焚き火から少し外れた暗がりに立ち、勢福寺の方を見ていた。

山の上は見えぬ。

見えぬが、そこに少弐冬尚の旗があることは分かっている。

少弐の旗。

その名を思うだけで、胸の底に沈んでいた古い血が、少しずつ熱を持ち始める。

あの時のことを忘れた日はない。

龍造寺家が少弐資元を積極的に救わなかったことを、主君殺しに等しいと見た馬場頼周が、刃を引いた。

家兼の二人の息子。

四人の孫。

悉く討たれた。

あれはただの仕置きではなかった。

根を絶つための血であった。

幼い者まで死んだ。

若い者が逃げきれず倒れた。

老いた者は、何もできぬままその跡を見送った。

清房は、今でもその時の顔を思い出せる。

血の色ではない。

死に様でもない。

残された者の顔である。

あの時、龍造寺は一度、家として死んだ。

だからこそ、いまがある。

阿蘇惟種が龍造寺を抱えた。

名だけでなく、血の残りを、旧臣の意地を、肥前へ戻る理を抱えた。

それは情ではない。

利だけでもない。

もっと厄介で、もっと大きいものだった。

主家の再興が、いまやっと現の形を取り始めている。

少弐を折る。

肥前に龍造寺の名を戻す。

阿蘇の手の内であろうと、まずは地へ戻る。

ここまで来れば、龍造寺への義は立つ。

清房は、それでよいと思っていた。

昔の鍋島であれば、ただ龍造寺のためだけを言ったかもしれぬ。

だが、いまは違う。

阿蘇の肥後は太い。

筑後も手に入れた。

港も作り始めた。

ただ山の家ではない。

その下に付くことは、龍造寺の名を再び立てるだけでなく、鍋島家の先にも利がある。

鍋島家として見ても、それは理にかなっていた。

鍋島にはまだ嫡男である信房がいる。

家の筋は絶えぬ。

種茂も、もう若君へ心を定めている。

それもまた悪くない、と清房は思っていた。

背後で足音がした。

「信房か」

「は」

鍋島信房が、火の届かぬところまで近づいて止まった。

父に似て、声の置き方が静かだった。

派手に物を言う男ではない。

だが、静かな者ほど腹の内は深い。

「眠られませぬか」

信房が問う。

「お前もだろう」

「はい」

それで、しばらく二人のあいだに沈黙が落ちた。

親子である。

だが、こういう夜にまで情をこぼし合う家ではない。

同じ景色を見、同じものを胸へ置きながら、必要なことだけを言う。

「明日でございますな」

信房が、やがて言った。

「うむ」

「主家の再興も」

「その初めだ」

清房は答えた。

「これで少弐を折れねば、また宙に浮く」

信房は頷いた。

「若君は、そこをよく分かっておられる」

清房は言った。

惟種は若い。

だが若いだけの男ではない。

肥後を静め、筑後を呑み、名和を下し、そして龍造寺を抱えた。その全てに一本の筋がある。

勝つためだけに動く男ではない。

勝った先に何を置くかまで見て動いている。

それが厄介であり、ありがたくもあった。

「孫四郎…種茂は」

信房が、少し言いにくそうに口を開いた。

「若君へ心を寄せておりますな」

「見れば分かる」

「よろしゅうございましたか」

その問いは軽くない。

父としてではなく、鍋島の家の者として聞いている。

清房は、少しのあいだ答えなかった。

「よい」

やがて言った。

「今はな」

信房が黙って聞いている。

「龍造寺の義を立てた上で、その先を若君へ預ける」

清房は低く続けた。

「筋としては間違っておらぬ」

「はい」

「それに」

そこで一度、清房は息を置いた。

「鍋島にはお前もおる」

信房は何も言わない。

「種茂が若君の近くで働くなら、それもまた家のためになる」

それは冷たい計算ではなかった。

だが、武家の家とはそういうものでもある。

一人が前へ出る。

一人が家を支える。

どちらかだけでは足りぬ。

信房は静かに頭を下げた。

「承知しております」

「種茂は、もう戻れぬところまで見てしまった」

清房は言った。

「ならば、あれはあれでよい」

遠く、中央の陣の方で火が揺れた。

清房は何となくそちらを見た。

中央は締まっている。

森羅衆が芯にある。

本陣近くも、宗運がよく見ている。

右翼は少し浮いているようだが、始まればどうにかなる――そう昼のうちに見ていた。

明日は決戦になる。

ならば今夜は休めるところを休ませねばならぬ。

備えすぎて明日の芯が鈍れば、それこそ愚かだ。

そう分かっていて、なお、眠りが浅い。

それは年のせいだけではない。

少弐を前にしたからだ。

馬場頼周がいるかもしれぬからだ。

あの血を引いた側が、まだ山の上で息をしているからだ。

「眠れませぬな」

信房が、ぽつりと言った。

「眠れるか」

「いえ」

清房は、少しだけ息を吐いた。

「明日で終わるかもしれぬ戦の前だ」

「はい」

「終わらせねばならぬ戦でもある」

信房は、その言葉に静かに頷いた。

その時だった。

清房の目が、ふいに細くなった。

「父上」

「静かにしろ」

信房はすぐに口を閉ざした。

清房は耳を澄ませた。

風ではない。

焚き火の爆ぜる音でもない。

馬が鼻を鳴らしたのでもない。

何かが、動いている。

夜の陣と陣のあいだの空気は、本来もっと平らである。

だが今、どこかにごくかすかな“擦れ”がある。

それは音と呼ぶには小さく、気配と呼ぶには確かすぎた。

さらにもう一度、中央の方を見る。

火が、ほんのわずかに乱れている気がした。

見間違いかもしれぬ。勘違いかもしれぬ。

風かもしれぬ。

だが、そうでないかもしれぬ。

本陣強襲の可能性を、清房は感じた。

だが、まだ断じてはいなかった。

ここで左翼全体を叩き起こせば、敵襲が本物でなかった時に、こちらの方が先に乱れる。

夜の陣で一番怖いのは、敵より先に味方が騒ぐことだ。

敵襲が確かなら、その時に全体を起こせばまだ間に合う。

ならば、まずは自分の手勢だけで確かめるのが筋だ。

「信房」

「は」

「起こせ」

信房の顔つきが、一瞬で変わる。

「どこまで」

「我が手勢、二百だ」

「はっ」

「ただし一度に鳴らすな」

清房の声は低い。

「まず百、某が率いる」

信房の目がわずかに動く。

「父上みずから」

「まだ敵と決まったわけではない。

だからこそ、先に出る」

信房はすぐに頷いた。

「では、後ろの百は」

「お前がまとめろ」

「はっ」

「我らが敵勢に当たれば、すぐ続け。

そうでなければ、そこで止まれ。

無駄に大きくするな」

「承知致しました」

「声を抑えろ。馬を静めろ。蹄の音を殺せ。槍を取らせろ。

火は最小でよい。

闇に目を慣らせ」

「はっ」

信房は深く頭を下げると、すぐに身を翻した。

清房はなお、中央の闇を見ていた。

右翼…そこを抜けたか。

いるのは本陣下手

まだ確かではない。

だが、待って確かめている暇はない。

「……来たか」

ごく小さく呟く。

返事はない。

だが、その独り言に応えるように、夜のどこかでまたひとつ、何かが動いた気がした。

兵が、静かに起き始める。

槍が手に取られる。

馬が引かれる。

鍋島の先行百は、まだ騒ぎにもならぬほどの静けさの中で、刃のように細く整い始めていた。

清房は太刀の柄へ手をかけた。

偵察で済むかもしれぬ。

そのまま叩けるかもしれぬ。

あるいは、もう本陣近くで火がついているのかもしれぬ。

どちらにせよ、行くしかない。

信房が後ろの百をまとめる気配がある。

それで十分だった。

もし敵襲が本物なら、後続はすぐ入れる。

もし違えば、大きくは騒がずに済む。

夜はなお深く、何もはっきりとは見えなかった。

だが、見えぬからこそ、戦の匂いだけは誤魔化しようがなかった。

清房は先行百を率い、夜の中へ踏み出した。

そしてその先にいるであろう敵が誰であるかを、まだ知らぬまま、闇の底へ刃を向けようとしていた。