作品タイトル不明
第七十四話 白を負う夜
夜は、思ったよりも深かった。
春の夜である。
寒さは真冬ほどではない。
だが、闇だけは冬より薄くなるわけではなかった。月はなく、雲もない。空が晴れているということは、星が見えるというだけで、足元まで照らしてはくれぬ。かえって闇の輪郭ばかりがはっきりし、見えるところと見えぬところの差が大きくなる。
勢福寺の麓に集まった少弐勢は、声を殺していた。
兵は三千百。
だがこの夜に本当に動くのは、そのすべてではない。
夜襲の先手二百五十。
馬場頼周が率いる。
その後ろに二百五十。
少弐冬尚みずからが率いる。
残る兵は、後ろに控える。
先手が本当に阿蘇本陣を崩し、法螺貝二声の合図が上がった時にのみ、順次押し出す。
それが今夜の手筈だった。
冬尚は、それを何度も頭の中でなぞっていた。
闇の中では、理屈などすぐに消える。
見えぬ。
味方の顔も分からぬ。
敵の数も読めぬ。
ひとたび列が崩れれば、敵を討つ前に味方を斬る。
歴史上見渡しても夜襲というものは、思いつく者は多いが、実際にやる者は少ない。そしてやったところで、うまく行くことはさらに少ない。現代のように夜は明るく無く、ほぼ完全な闇と言っても差し支えないからだ。その為、夜襲が成功したように描かれるのは、ほとんどが創作であり、故に成功した場合、華々しく語り継がれることとなる。
それでも今夜、少弐はそれをやる。
他に道がないからだった。
正面では持たぬ。鉄砲への対応策が無い。
籠もれば終わる。少弐を助ける勢力が無い。
天は味方せず。
国衆は揺れており、少しでも敗色が出れば三千百はたちまち三千百でなくなる。
ならば、闇に賭けるしかない。
兵の顔は、見えぬよう黒く塗らせた。
頬も額も、火に照らされた時に光らぬよう煤を擦り込む。
前から見れば闇に紛れるためである。
だが、それだけでは足りない。
味方を見失えば終わる。
だから、背には白を負わせた。
白い布。
白い襷。
全身を白くすれば、火や星明かりに照らされた時にかえって目立ちすぎる。ゆえに後ろ身だけ、味方の目が拾えるように白を置く。
前から見れば黒い。
後ろから見れば白い。
それが、今夜の少弐の夜襲の細工だった。
だがその白は、ただの目印ではない。
頼周が先手の前に立ち、低く言った。
「この白は、決意の印よ」
声は大きくない。
だが、闇の中でよく通った。
「味方を見失わぬためでもある。だが、それだけではない」
兵たちが、押し黙ってその声を聞いている。
「これで阿蘇を崩せねば、十のうち九つ――いや、ほぼ十、我らは死ぬ」
誰も動かなかった。
ここにいるのは少弐と馬場に連なる者のみ。皆、覚悟をしていた。
「逃げる時には、この白が逆に目立つ」
頼周は言う。
「闇に紛れて助かることもできよう。だが、背に白を負えば、それも叶わぬ」
それは脅しではなかった。
事実だった。
白は、前へ出るための印であると同時に、退けば死装束にもなる。
「ゆえに、これは退かぬための白だ」
頼周は最後にそう言った。
「崩すために負う。崩せねば、これを着たまま死ぬ。故に、今帰りたき者がおれば帰れ。咎めはせぬ⋯」
兵の何人かが、無意識に背の白へ触れた。
布は軽い。
だが、その軽さのまま妙に重かった。
そして誰も帰ることは無かった。
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冬尚は少し離れたところから、その様子を見ていた。正確には聞いていた。
頼周は、やはりこういう時の言葉を持っている。
ただ、逃げ道を細くするように言う。
そして、それでよいのだと冬尚も思った。
逃げ道があると思えば、人は半歩ずつ退く。
だが今夜は、その半歩が死を呼ぶ。
阿蘇本陣を崩せねば終わり。
そのことだけを、先手には腹へ落としておかねばならない。
側近が、冬尚のそばで低く言った。
「馬場の二百五十、うまく入りましょうか」
「入らねば困る」
冬尚は答えた。
側近は、少しだけ口元を歪めた。
「それはそうでございます」
「だが」
冬尚は続けた。
「入ったからといって、勝ったことにはならぬ」
「はい」
「阿蘇の本陣が本当に乱れたと見えねば、後ろの者どもは乗らぬ」
側近は無言で頷いた。
国衆は勝ちの匂いに寄る。
それは側近の言う通りだった。
今夜、馬場が道を開き、法螺貝二声が上がった時、後ろに控えた者どもは「勝てる」と思って前へ出る。
だがその「勝てる」が、ほんの一瞬の見誤りでしかなかったなら――
その時こそ、少弐は本当に終わる。
もしもの時の為に文を残したが、使わない事を祈るばかりだ。
別の者が、闇の方を見ながら言った。
「右翼は、浮いておるそうにございますな」
「阿蘇のか」
「はい」
「戦が始まれば締まるのでしょう。されど、始まる前は違います。勝ちに慣れた顔というのは、夜には鈍い」
冬尚は、わずかに目を細めた。
その報せは、少し前に拾っていた。
阿蘇の中央は締まっている。
左翼の龍造寺勢も尖っている。
だが右翼は、ここまで負けなかったことでわずかに気が浮いている――と。
だからこそ、その脇を抜ける。
正面ではなく、浮いた側をかすめ、本陣へ食い込む。
出来過ぎだと感じるほど、理は通っていた。
今夜それが、唯一の勝ち筋になる。
頼周が、兵の列から戻ってきた。
もう言うべきことは言い終えた顔をしている。
「殿」
「何だ」
「先手、出せます」
「うむ」
冬尚は頼周を見た。
この男は、今夜死ぬかもしれぬ。
いや、自分もまた同じだ。
それが分かっていて、顔色ひとつ変えぬところが、かえって腹立たしくもあり、ありがたくもあった。
「頼周」
「は」
「今夜、道を開け」
「御意」
「法螺貝二声、忘れるな」
「忘れませぬ」
「崩したと見えた時だけだ。早まるな」
頼周はそこで、ほんのわずかに笑った。
「そのような浅い真似は致しませぬ」
冬尚もまた、口元を少しだけ動かした。
こういう時にだけ、長年の主従は余計な言葉を使わぬ。
「そして」
冬尚は続ける。
「崩せ」
「は」
「勝ちで償え」
頼周の目が、わずかに沈んだ。
龍造寺の件。
先夜、自分の首を差し出すと言い出した時、冬尚はそれを退けた。
一人の首で済む話ではない。
少弐そのものが選び、ここまで引きずってきた道なのだ。
ならば償いは、首ではなく勝ちでしかない。
「承知しております」
頼周は深く頭を下げた。
その姿が闇へ溶ける前に、冬尚は一度だけ声をかけた。
「頼周」
「は」
「先へ行きすぎるな」
頼周は顔を上げた。
「殿も、同じことをなさらぬよう」
その返しに、勝利が思わず鼻を鳴らした。
政光は何も言わない。
冬尚は、短く言った。
「行くしかあるまい」
頼周は、それ以上何も言わなかった。
やがて時が来た。
闇の中で、先手二百五十が動き出す。
声はない。
ただ草を踏む音と、具足のわずかな擦れだけがある。
前は黒い。
背には白い目印。
兵は互いの背を見失わぬよう、間を取りすぎず詰めすぎず進む。
夜襲にとって、一番怖いのは敵ではなく、乱れである。
冬尚は、その背が闇へ吸われていくのを黙って見ていた。
この二百五十が道を開く。
開けねば終わる。
そして開いたなら、自分が続く。
側近が、小さく言った。
「静かすぎますな」
「夜とはそういうものだ」
冬尚は答えた。
だが、そう答えた自分の胸の内も、決して静かではなかった。
人は夜に目を奪われる。
だが本当に奪われるのは耳だ。
見えぬぶん、わずかな音に心が寄る。
前で何が起こっているのか分からぬまま待つ、この時間がいちばん苦しい。
どれほど経ったか、分からなかった。
実際には、そう長くはなかったはずだ。
だが待つ側には、そのわずかな刻がやけに伸びる。
そして――
遠く、阿蘇の陣の方で、声が上がった。
一つではない。
二つ、三つ。
火が揺れた。
闇の中に点々とあった灯が、いくつか乱れたように見える。
側近が息を呑む。
「入ったか」
冬尚は何も言わず、前だけを見ていた。
まだだ。
まだ確かではない。
ただ騒ぎが立っただけかもしれぬ。
その時だった。
法螺貝が鳴った。
一度。
夜気を裂くような低い音が、阿蘇陣の方から返ってくる。
つづいて、もう一度。
そして同時に、阿蘇側の 鬨(とき) の声が上がる。
二声。
冬尚の胸の内で、何かが強く跳ねた。
崩した。
馬場が本陣へ食い込んだ。
少なくとも、そう信じるほかない二声だった。
「殿!」
側近が叫びかけるのを、冬尚は手で制した。
「進む」
その一言で、後ろに控えていた二百五十が一斉に身を起こす。
白が動く。
黒が闇へ沈む。
押し殺していた気配が、一気に前へ流れた。
冬尚もまた、自ら馬を進めた。
もう退けぬ。
ここでためらえば、今夜の賭けはその場で腐る。
馬場が開いたと信じるしかない。
勝てる。
いや、勝てる形へ持ち込める。
そう思わねば、前へは出られなかった。
闇を切って進むうち、阿蘇陣の火が近づいてくる。
前の方では、すでに怒号が立っていた。
鉄と木のぶつかる音。
短い悲鳴。
火に照らされた人影が、乱れたように揺れて見える。
「いける!」
誰かが、抑えきれずにそう言った。
少なくとも【少弐方はそう感じた。】
極限状態になれば、人は信じたいものを信じる。
阿蘇の本陣は今にも割れそうに見えた。
火が乱れている。
声が重なっている。
あれだけ締まっていたはずの森羅衆の火の線も、ところどころ途切れたように見える。
勝てる。
その二文字が、夜の中でいやに甘く響いた。
もしここで本陣を崩し切れば。
後ろの本隊は雪崩れ込む。
国衆も「勝ち」を嗅いで前へ出る。
少弐はまだ死んでいないと、肥前も、大内も、すべてがもう一度見直す。
いましかない。どちらにしろ行くしかない。
「押せ!」
冬尚が初めて声を張った。
後続が動く。
さらに後ろでも、控えていた本隊が前へ寄る気配がある。
法螺貝が二声鳴った。
先手が崩したように見えた。
勝てる。
そう確信したからこそ、少弐の兵はようやく本気で前へ出始めた。
そして、馬場隊に合流するその時だった。
左に闇が迫っていた。
少弐方の誰も、そこから闇が来るとは思っていなかった。
正確には、来ると確実に負けにつながるため、意識から外すしか無かった。