軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十三話 陣の静けさ

四月初め。

肥前の空は、よく晴れていた。

本来ならば、春の空はもう少し気まぐれでもよい。薄雲が流れ、夕方にはひと雨来てもおかしくない。だがこの日の空は妙に澄み、風も乾いていた。陽はやわらかいのに、空気だけがどこか痩せており、地の上へ張りついた緊張をかえってよく見せた。

阿蘇の陣は、神埼城原の平地から松崎のあたりにかけて長く広がっていた。

山上には、なお勢福寺の郭が見える。

少弐の旗はまだ折れていない。

だが、その山を下から圧するように並ぶ阿蘇の旗の数と、筋の通った陣立ては、もはや肥前の国衆に向けた示威そのものであった。

中央。

ここに森羅衆がある。

阿蘇が長く手元で鍛え、養い、削りながらさらに締めてきた常備兵である。数は千五百。そのすべてを最前へ並べているわけではない。それでも、陣の芯がどこにあるかは、ひと目で分かった。

旗の並びが乱れない。

荷の置き方が静かである。

兵の立ち姿に無駄がない。

槍も鉄砲も、まだ構えてはいないのに、すでに一つの形になっている。

ただ強いのではない。

動く時の形を、まだ動かぬうちから崩していない。

左翼には龍造寺勢が置かれていた。

龍造寺家宗。

鍋島清房。

そして旧臣たち。

こちらは森羅衆とはまた違う意味で締まっていた。

静かだが、柔らかくはない。

少弐を前にしているからか、兵の顔つきにはどこか乾いた殺気がある。笑う者が少ない。声も必要以上には上がらない。戦の前に浮くのではなく、押し黙ることで気を尖らせているような陣であった。

恨みと義が混じっている。

古い血の記憶が、まだ胸の内で冷えきっていない兵の顔だった。

右翼には、阿蘇に連なる兵と国衆勢が並んでいた。

こちらも弱くはない。

筑後で勝ち、名和を下し、ここまでの戦をともに歩いてきた者たちである。武も経験もある。兵の数も見劣りしない。

だが、惟種の目には、左右の違いがはっきり見えていた。

右翼には、わずかな緩みがある。

旗の並びが乱れているわけではない。

命が届いていないわけでもない。

兵が怠けているのでもない。

けれど、顔が違う。

勝てると思っている顔。

いや、勝つのが当たり前と思い始めている顔である。

それが、惟種には気に食わなかった。

惟種は本陣の少し前へ出て、陣の全体を見渡していた。

横には惟豊。

その少し後ろに宗運。

さらに控えるように甲斐親英と鍋島種茂が立っている。

種茂は、ついこの前まで孫四郎と呼ばれていた若者である。

だが、元服を終え、惟種の一字を受けたその顔には、もう以前の若さだけではないものがあった。

若い。

それは変わらない。

けれど若さの上に、名の重さがひとつ乗った。

しかも今の種茂は、左翼の龍造寺勢には置かれていない。

本陣近く、森羅衆の一部を預かっていた。

龍造寺の者として見れば、左翼に立つ方が筋に見える。

清房も家宗もいる。

恨みも義も、あちらの方が濃い。

だが惟種は、種茂をそこへ戻さなかった。

若君の近くで働け。

まずは目の届くところで役目を果たせ。

そう言われた時、種茂は一瞬だけ胸の内で何かがせめぎ合うのを感じた。だが、もうその揺れも乗り越えている。

いまの自分が立つべき場所は、過去の恨みに近い左ではなく、若君の目の届く本陣近くなのだと、はっきり分かっていた。

惟豊が、勢福寺の方へ目をやりながら言った。

「よく並べたな」

宗運が答える。

「中央は森羅衆を厚く置きました。鉄砲の間も、荷駄の後ろも、夜番の置き方も、まずはここを基準にしております」

「左は」

「龍造寺勢にございます」

宗運の声は静かだった。

「よい顔をしております」

惟豊は、それを聞いてわずかに頷いた。

「恨みがある時の兵は締まる」

「はい」

「だが、恨みだけで戦をすると、どこかで前へ出すぎる」

「承知しております。家宗殿と清房殿には、よく言い含めてございます」

惟種は黙って聞いていたが、視線は右翼から離れなかった。

惟豊がその様子に気づいて問う。

「何を見ておる」

「右翼だ」

惟種は答えた。

「何かあるか」

「ある」

短い一言だった。

宗運もまた、その方へ目を向ける。

国衆勢の陣では、焚き火の位置が少し近い。馬をつなぐ場所も、中央ほどの張りがない。乱れているとまでは言わぬ。だが、厳しさがほんの少し薄い。

「若君」

宗運が言った。

「そこまで悪うございますか」

「悪い、というほどではない」

惟種は答えた。

「始まれば締まる」

「……はい」

「だが、始まる前が駄目だ」

風がひとつ、陣の上を撫でた。

「勝つのが当たり前と思い始めておる顔がある。そういう顔は、夜に弱い」

宗運は、しばし黙ってから頷いた。

「では、注意だけは入れておきます」

「入れておけ」

惟種は言った。

「ただし騒ぐな。大きく締め上げれば、今度は余計な怯えが出る」

「承知しました」

惟種はそこで、視線を中央へ戻した。

森羅衆の陣は、やはり違って見えた。

焚き火の置き方も、槍の立て方も、休む者と立つ者の分け方も、最初から一つの形になっている。

それは、戦い方の違いでもあった。

森羅衆は、三人組で動く。

ただ寄り集まって斬り結ぶのではない。

二人が前へ出てかかる。

一人がその横、あるいは半歩後ろで補いに回る。

前のどちらかが疲れれば、補いの一人がすぐそこへ入る。

下がった者は息を整え、今度は補いへ回る。

その巡りを絶やさない。

力だけに頼らず、疲れを一人へ溜めぬ。

三人で三人の弱いところを埋める。

それが森羅衆の戦い方であり、惟種がわざわざ手元で育ててきた理由でもあった。

勝ちに慣れていないわけではない。

だが、勝ち癖で崩れてはいない。

それは鍛えの差であり、体へ入れた動きの差でもある。

「森羅衆だけは、今夜の備えを変えろ」

宗運がすぐに向き直る。

「何を」

「三人組の形を崩すな」

「は」

「今夜は、一人を松明係に回せ」

宗運の目が、わずかに細くなる。

「二人で受け、一人が火を保つ、にございますか」

「そうだ」

惟種は頷いた。

「夜に一番怖いのは、斬られることではない。見失うことだ」

「たしかに」

「二人はいつも通りに戦え。

もう一人は、まず火を持て。

味方の位置を切らすな。

だが火を持つからといって、戦わぬわけではない。

前の二人が疲れれば、火を脇へ渡してでも入れ。

また別の者が火を取る。

三人で回る形は崩すな」

種茂が一歩進み出た。

「若君」

「何だ」

「それなら、夜でも崩れにくうございます」

「うむ」

「火がある限り、二人は互いの間合いを失いませぬ。補いも入りやすくなります」

惟種は種茂を見た。

「それだ」

種茂は深く頭を下げた。

「我らの持ち場には、徹底させます」

親英もまた言った。

「伝令にも、森羅衆の火の位置を覚えさせておけば、夜のうちでも文の行き先を違えにくうございましょう」

「それもだ」

惟種は頷いた。

「今夜、警戒を強めるのは森羅衆と伝令だけでよい」

宗運が確認するように問うた。

「左右は」

「休ませろ」

惟種は即答した。

その一言で、そこにいた者らの顔つきが変わる。

「明日は決戦だ」

惟種の声は低い。

「備えすぎて、朝に力が抜けておれば何にもならぬ」

「はい」

「今夜は、すべてを起こしておく必要はない。

もし夜襲がなければ、朝方には森羅衆の松明備えも引かせる。

夜番をそのまま朝まで引きずれば、明日の芯が鈍る」

宗運が深く頷いた。

「承知しました」

「伝令には、夜のうちは馬と人を切らさず動かせ。

ただし、それ以外は極力寝かせろ」

「は」

「緊張は要る。

だが、疲れは要らぬ」

惟豊が、そのやり取りをしばらく聞いていたが、やがて低く言った。

「それでよい」

惟種が父を見る。

「全てを起こして待つのは、守る側の理ではある。だが、明日こちらから決めるつもりなら、それでは鈍る」

「はい」

「休ませるところは休ませよ。

備えるところだけ備えよ。

それが、いまの阿蘇にちょうどよい」

種茂は、その言葉を胸の内で反芻していた。

若君は警戒している。

だが、怯えてはいない。

休ませるところは休ませる。

それでも芯だけは起こしておく。

勝ち続けてきた家で、それを言い切れるのは簡単ではない。

人はどうしても「全部備えればよい」と思いがちだからだ。

だが若君は違う。

明日の戦まで見ている。

「種茂」

惟種が呼んだ。

「はっ」

「今夜、お前の持ち場は本陣寄りだ」

「承知しております」

「森羅衆の一部を預かるなら、まず今夜は火の巡りを乱すな」

「はっ」

「左がどうであれ、今夜はここを見ろ」

その一言に、種茂の背がわずかに張った。

左翼には清房がいる。

家宗もいる。

本来なら、そちらの動きも気になる。

だが今夜、自分が立つべきところはそこではない。

「承知致しました」

深く頭を下げる。

若君の目の届くところで、まず働く。

それが今の自分の役目だった。

日は少しずつ傾いていった。

陣のあちこちでは、最後の位置直しが進んでいた。

旗の並びを整え、荷を寄せ、馬を引き、人を寝かせる場所と起こしておく場所を分ける。

森羅衆の列では、すでに三人組ごとに小さな声が交わされている。

誰が前へ出るか。

誰が最初の火を持つか。

火が落ちた時、次を誰が拾うか。

前の二人のどちらが疲れれば、補いがどう入るか。

形は、もともと体に入っている。

今夜はその補いが、まず火を持つだけだ。

右翼へも、宗運の配下が目立たぬよう声を入れに走っていた。

今夜のうちは、気を抜くな。

ただし騒ぐな。

休める者は休め。

それだけである。

派手に締め上げぬのは、明日のためだった。

日が落ちる。

陣のあちこちに火が灯る。

ただし中央の火は、明らかに置き方が違っていた。

明るすぎず、暗すぎず、互いの位置だけは失わぬよう、間を取って焚かれている。

表向き、阿蘇の陣は静かだった。

今日のうちに大きな衝突はない。

互いに陣を見せ、距離を量り、明朝の決戦へ備える。

誰もがそう思う。

思うからこそ、その静けさはかえって不気味だった。

惟種は最後に、もう一度だけ陣全体を見渡した。

中央は締まっている。

左翼は静かに尖っている。

右翼は、始まれば戦う。

だが始まる前の静けさが危うい。

それでも、今から全てを作り替えることはできぬ。

「気を引き締めよ」

惟豊が低く言った。

それは惟種に向けたのでもあり、宗運にも、親英にも、種茂にも、そしてこの陣そのものへ向けた言葉でもあった。

「今日のうちは静かであろう」

「はい」

宗運が答える。

「だが、静かであることと、安全であることは違う」

「は」

「勝ってきた家ほど、その違いを忘れやすい」

惟種は、その言葉を黙って受けた。

日が落ちきる。

森羅衆の夜番は早くも交代の順を決め始め、種茂も自分の預かる兵の列をもう一度見て回った。親英は本陣まわりの荷と使者の出入りを確認している。宗運は伝令の位置と夜の見張りの道筋を最後まで詰めていた。

表向き、阿蘇の陣は静かだった。

だが静けさとは、何も起こらぬということではない。

そしてその夜、阿蘇の陣は思いも寄らぬ形で揺らぐことになる。