軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十二話 夜へ賭ける

四月の始まりの夜は、まだ冷えた。

肥前の空は晴れている。

晴れているということは、少弐にとってはもはや吉ではなかった。星がよく見える。雲が薄い。湿りがない。春先にしては空気が乾いている。四月に入れば雨も増えるはずだった。雨さえ来れば、阿蘇の鉄砲も少しは鈍る。火縄も、玉薬も、あの厭らしいほど切れ目のない運用も、いくらかは乱れる。

だが、空はそれを許さなかった。

勢福寺の奥の一間には、重い黙りが落ちていた。

上座に少弐冬尚。

その下に馬場頼周。

神代勝利。

小田政光。

灯は低い。

油皿の火が、四人の顔に細い影をつくっていた。

机の上には地図と兵数の板が置かれている。

数字はもう、見飽きるほど見た。

三千百。

少弐が集め得た兵の数である。

だが、冬尚の胸の内では、その数は最初から三千百ではなかった。

国衆はいる。

名は並ぶ。

槍も、人も、帳面の上には揃う。

だがその三千百が、三千百のまま働く保証はどこにもない。

阿蘇から文が入っている。

龍造寺旧縁をにおわせる言葉もある。

城の内では従っている顔をしながら、腹の底では勝ち馬を見ている者も少なくない。少しでも敗色が出れば、たちまち足を止める者が出る。止まるだけならまだよい。背を見せる者が一人出れば、そこから先は雪崩だ。

冬尚は、そのことをよく分かっていた。

最初に口を開いたのは小田政光だった。

「兵は三千百にございます」

言いながら、政光の目は地図ではなく板の上の数字を見ていた。

「だが、働くのはそのまま三千百とは思われませぬ」

神代勝利が低く言う。

「二千五百もおれば、ましな方か」

政光は苦く頷いた。

「敗色が少しでも見えれば、もっと減りましょう」

冬尚は黙って聞いていた。

言われずとも知っている。

だからこそ、数字の上だけで戦の勝ち負けを読めないのが今の少弐だった。

馬場頼周が静かに言った。

「阿蘇は四千二百」

その声は低く、妙に乾いていた。

「うち常備兵が千五百と聞きます」

神代勝利が板の上へ指を置く。

「そこが芯ですな」

「うむ」

「国衆がどれほど揺れようと、その千五百は崩れぬ」

冬尚が、そこでようやく口を開いた。

「兵数で劣る」

「はい」

勝利が答える。

「質でも劣ります」

「鉄砲か」

「それだけではございませぬ」

勝利は言った。

「鉄砲を回す兵、その後ろを支える兵、列を崩さぬ者、引き際を違えぬ者――阿蘇の常備は、そのあたりまで締まっております」

政光が継ぐ。

「こちらも鉄砲はいくらか集めました」

「だが」

「阿蘇のようには運用できませぬ」

政光の声は平らだった。

それがかえって、どうしようもなさを強くした。

「一度撃たせるだけなら、こちらにもできましょう。されど、あれのように火を絶やさず、列を乱さず、兵全体の足を止めぬ形にはなっておりませぬ」

冬尚は、薄く息を吐いた。

正面から受ければ、押し切られる。

それはもはや疑いようがなかった。

「雨は」

冬尚が問う。

馬場頼周が、障子の外へ目をやった。

「ございませぬ」

短い返答だった。

「空も乾いております。四月なら一雨あってもおかしゅうはありませぬが……」

「天は少弐を助けぬか」

冬尚の声に、自嘲が少しだけ混じる。

だが、誰もそれを慰めるようなことは言わない。

いまはそういう座ではない。

「籠もるか」

冬尚が次に言った。

その一言で、部屋の空気がまた重くなった。

籠城。

それは負けではない。

だが勝ちでもない。

神代勝利が真っ先に顔をしかめた。

「それはなりますまい」

「なにゆえだ」

「籠もれば、少弐はそこで終わります」

勝利の声は太い。

「兵を保つことはできましょう。日も稼げましょう。されど、肥前の国衆どもは皆、こう見ます。少弐はもう打って出られぬ、と」

政光も頷く。

「大内もまた、同じように見ましょうな」

「うむ」

「いまはまだ、我らが生きておると示せております。だが籠もれば、それは生きておるのではなく、死に切れぬだけと見られます」

冬尚は、その言葉を受けた。

まことにその通りだった。

大内への睨みを利かせるためにも、少弐はまだ旗を立てて戦える家であると見せねばならぬ。ここで籠もれば、その旗は自ら下ろすに等しい。

「勝たねば飲まれる」

冬尚が、ぽつりと呟く。

それは誰に向けた言葉でもなかった。

だが、この座にいる全員が、その一言を自分の胸の内へ落とした。

少弐はいま、ただ阿蘇と戦っているのではない。

勝てねば、阿蘇に呑まれる。

そして大内にも、いよいよ見限られる。

大友の裏の支えがあろうと、それは火を絶やさぬための薪に過ぎぬ。家そのものを立て直す力ではない。

馬場頼周が、その時、不意に畳へ手をついた。

誰もすぐには動かなかった。

「殿」

頼周の声は静かだった。

「何だ」

冬尚もまた、平らに返す。

「龍造寺の件」

その一言で、空気が変わった。

神代勝利の目がわずかに動く。

政光は、じっと頼周を見た。

誰もそこを軽く扱えるとは思っていなかった。

「元をただせば、某の引いた刃にございます」

頼周は言った。

声には、妙な力みがなかった。

だからこそ重かった。

「もし、某一人の首を差し出し、肥前の一部を譲ることで少弐が守られるなら」

そこで、頼周は一段深く頭を下げた。

「そのように致しましょう」

部屋の空気が凍ったように静まる。

「殿……ご判断を」

その言葉は、ただの詫びではなかった。

自分一人の命で、この場の泥と血をまとめられるならそうする、という、重臣としての最後の切り札だった。

だが、それを聞いた冬尚は、ほとんど間を置かずに言った。

「違う」

頼周が顔を上げる。

「龍造寺の件は、汝の独断ではない」

冬尚の声は低かった。

「少弐が生きるために、家として選んだ道だ」

その一言には、当主としての重さがあった。

「今さら首ひとつ差し出して済む話ではない」

頼周は何も言わない。

「それに」

冬尚は続けた。

「そのようなことをすれば、家臣も国衆も、今度は少弐そのものを見限ろう」

政光が、そこで静かに頷いた。

「まことに」

「責を一人へ押しつけ、命を買う家と見られれば終いだ」

冬尚の声はさらに深くなる。

「頼周」

「は」

「そなたの首では償えぬ」

その言葉は、冷たいようでいて、むしろ逆だった。

一人に背負わせぬという、最後の庇いでもあった。

「償うなら」

冬尚は言う。

「勝ちで償え」

その一言が、部屋の中心へ重く落ちた。

神代勝利が、そこでようやく口を開いた。

「ならば、正面からは持ちませぬ」

「うむ」

「鉄砲を無効にするには、雨が欲しい。されど雨は来ぬ」

「来ぬ」

「ならば、夜しかございませぬ」

冬尚は黙って聞く。

「夜襲にございます」

勝利の声が、少しずつ太くなる。

「阿蘇の常備兵の芯を、夜のうちに叩くほかありませぬ。列を整え、鉄砲を回し、明るいうちに戦えば、こちらが先に削られます」

政光が続ける。

「しかも国衆どもは、昼の正面戦になればなおさら揺れましょう」

「うむ」

「だが、夜のうちに阿蘇の前備えを破り、陣を乱し、若君の近くへまで火を届かせられれば、あれらも一度は『勝てるか』と錯覚します」

冬尚は、その“錯覚”という言葉に目を向けた。

「錯覚でよいのか」

「今は、それでも要ります」

政光は答えた。

「国衆どもに必要なのは、理ではありませぬ。目の前の勝ちの匂いにございます」

それが、あまりに正直な言葉だったので、誰もすぐには返せなかった。

頼周が、ゆっくりと背を起こした。

「夜襲なら、某が先へ出ます」

勝利が横目で見る。

「某も」

「いや」

頼周は低く言った。

「龍造寺の件の血を背負うのは、やはり某が先であろう」

冬尚は、その言葉を遮らなかった。

頼周は続ける。

「阿蘇の常備兵が芯なら、その芯を割るしかございませぬ。正面では無理。ならば夜のうちに、こちらから牙を立てる」

「勝てるか」

冬尚が問うた。

それは、希望を問う声ではなかった。

覚悟に値する策かを問う声である。

頼周は、少しだけ考え、それから正直に答えた。

「分かりませぬ」

神代勝利が低く笑った。

「そりゃそうじゃ」

「だが」

頼周の声が落ちる。

「それ以外に、勝てる目も見えませぬ」

その言葉が、今夜のすべてだった。

正面では駄目。

雨も来ない。

籠城では死ぬ。

ならば夜しかない。

勝てるかは分からぬ。

だが、それ以外にはもっと勝てぬ。

冬尚は長く黙っていた。

油皿の火が、わずかに揺れる。

外では風もない。

空は晴れたままだ。

ここで夜襲を決めれば、少弐はもう運を賭けることになる。

しかも、国衆を完全には信用できぬまま。

ならば、誰が芯に立つのか。

冬尚は、ゆっくりと顔を上げた。

「頼周」

「は」

「そなたは出るのだな」

「は」

「ならば、某も出る」

座が一気に静まる。

勝利が思わず顔を上げ、政光の目も鋭くなる。

「殿」

頼周が低く言う。

「当主が、そこまでなさることは」

「分かっておる」

冬尚は言った。

「だが今の三千百は、三千百のまま働くかも怪しい」

その声は低い。

だが、ぶれない。

「ならば、少弐の当主が前におると見せねば、夜のうちから足が止まる者も出よう」

勝利が、重く息を吐いた。

「……理にございます」

「神代」

「は」

「そなたは横から支えよ」

「承知」

「政光」

「は」

「国衆どもが崩れぬよう、最後まで繋ぎ止めよ」

「承りました」

そして冬尚は、最後に言った。

「今宵の会議は、これで足りる」

誰も動かない。

「夜襲をかける」

その一言で、もう決まった。

「阿蘇の鉄砲は、明るい野で受けぬ」

「雨は来ぬ」

「ならば夜に賭ける」

「芯を衝き、乱し、勝ちの匂いをこちらへ引き寄せる」

それが少弐の最後の勝ち筋となった。

頼周は深く頭を下げた。

「御意」

勝利も、政光も、同じく頭を下げる。

その姿を見ながら、冬尚は一つだけ思っていた。

ここで勝たねば、少弐は終わる。

ならば、当主が前へ出ぬ理由もない。

人がはけたあとも、頼周だけは残った。

冬尚はそれを咎めなかった。

「殿」

頼周が静かに言う。

「何だ」

「先ほどのこと」

「首の話か」

「は」

「忘れよ」

冬尚は言った。

「頼周」

「は」

「そなたの血が要るなら、戦で流せ」

頼周は、しばらく答えられなかった。

「あれは少弐のために選んだ道だった」

冬尚の声は、妙に静かだった。

「ならば最後まで、少弐のために使え」

頼周は深く頭を下げた。

「……かたじけなく」

その夜の空には、やはり雨の気配はなかった。

星が見える。

空は澄んでいる。

だからこそ、少弐は夜へ賭けるしかない。

明るい野では勝てぬ。

ならば暗い中で噛みつく。

勝つか、ここで終わるか。

もう、その二つしか残っていなかった。