軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十一話 送る者の役目

国衆への最後の文は、その夜のうちに走った。

応ずる者。

なお迷う者。

それでも少弐へ残る者。

肥前の国衆は、もう静かなまま一つではいられぬところまで来ていた。

文で揺らし、義で引き寄せ、最後は兵で見せる。そこまで含めて、これが阿蘇の戦である。

宗運が、文を閉じて言った。

「これで最後にございます」

惟種は短く答えた。

「次は兵が申す」

それだけで、座は終わった。

もう後戻りはない。

あとは出るだけである。

出陣の朝は、妙に静かだった。

人は多い。

馬もいる。

旗も立つ。

具足の緒を締める音、槍の石突が床へ当たる音、草摺の擦れる音、外で人足が呼び交わす声もある。

それでもなお、館の奥には、嵐の前のような静けさがあった。

加世は、まだ暗さの残るうちに起きていた。

眠れなかったわけではない。

眠っても、胸の内で同じことを何度も繰り返していただけだった。

いよいよ来た。

少弐を折る戦。

肥前の筋を定める戦。

龍造寺を再び地へ返すための戦。

そして、阿蘇がこれまで積んできたものを、本当に次の段へ押し上げる戦でもある。

惟種は出る。

惟豊も出る。

宗運もまた動く。

家の男たちは、外へ向けて力を注ぐ。

ならば、内を預かる者が要る。

加世は鏡の前に座したまま、しばらく動かなかった。

島津の姫として生まれた。

それは幼い頃から、何度も言われてきたことだった。

姫とは、ただ守られる者ではない。

家と家のあいだに置かれ、時に言葉となり、時に証となり、時に沈黙そのもので家を支える者だ。

笑い方ひとつ。

座り方ひとつ。

涙を見せる場と見せぬ場。

すべてに意味がある。

それを、加世はよく知っていた。

島津の姫であるとは、ただ島津の血を引くことではない。

家の重さを、言葉にせずとも背に乗せて生きることだ。

そして今、その重さは阿蘇の中でも消えてはいない。

むしろ、消えぬまま、別の意味を持ち始めていた。

阿蘇にいるからこそ、島津との縁を軽くせぬこと。

阿蘇の内にあって、外から来る目に隙を見せぬこと。

若君が不在の時に、家の内を揺らがせぬこと。

それが今の自分の役目である。

加世は、ようやく立ち上がった。

今日は豪奢にしてはならない。

だが軽すぎてもならない。

送り出す朝に相応しい、静かな装いを選ぶ。

色は抑え、帯も張りすぎぬものにする。

手元には、前もって用意させておいた白木の盃と、小さな守り袋がある。

守り袋の中には、島津から持ってきた古い布を一切れ入れてあった。

別に霊験があるわけではない。

だが、縁とはこういうものでよいと加世は思っている。

見えぬものを、形だけでも持たせる。

それで人の心が少しでもほどけぬなら、十分である。

館の一間には、すでに惟種と惟豊が入っていた。

出陣前の、わずかな静かな時間である。

惟豊は座しているだけで重い。

すでに戦の顔になっていた。

惟種はその少し下、平らな顔をしていたが、目の奥はもう前を見ている。

加世は、座へ入る前に一度だけ深く息を整えた。

泣くな、と自分に言い聞かせる。

泣きたいわけではない。

だが、胸の内が熱くなる瞬間はある。

それでも、ここでそれを前へ出すのは違う。

今日の自分は、送る者である前に、預かる者でなければならない。

「加世」

惟豊が先に声をかけた。

「は」

「頼むぞ」

たった一言だった。

だが、その一言の中には、蔵も、文も、寺も、女房衆も、負傷して戻る者の受け入れも、港へ残る人足の空気も、何もかもが入っていた。

加世は深く頭を下げた。

「お任せ下さいませ」

惟豊は頷くだけで、それ以上は言わなかった。

それでよい。

長く言葉を重ねる方が、かえって軽くなる時もある。

加世は惟種の前へ進み、白木の盃を置いた。

「此度の戦にございます」

「うむ」

「肥前の筋を定める、大事な戦にございます」

「そうだ」

惟種の声は、いつも通り低く落ち着いていた。

それがありがたくもあり、少しだけ憎らしくもある。

こういう時、この人は自分の胸の内をひどく上手に隠す。

加世は静かに酒を注いだ。

「御武運を」

惟種は盃を取り、ほんの少しだけ口をつける。

加世もまた、形式に従って盃を受けた。

そのあと、守り袋を差し出した。

「これは」

惟種が問う。

「つまらぬものにございます」

加世は答えた。

「島津より持って参った布の端を、ひと切れ」

惟種の目が、わずかにやわらぐ。

「そうか」

「若君が外でお戦いになるなら、せめて見えぬところに縁の一つもお持ち下さいませ」

惟種は、それを受け取った。

大げさな礼はない。

だが、その受け取り方が丁寧だったので、加世はそれだけで少し胸が静まった。

「……加世」

「はい」

「重い役だぞ」

その言葉に、加世は初めてまっすぐ惟種を見た。

この人は、分かっている。

自分がただ残されるのではなく、置かれるのでもなく、預かるのだと分かって言っている。

「承知の上にございます」

加世は答えた。

「戦場へ出ぬから軽いとは、誰にも申させませぬ」

座が静まる。

惟豊が、その言葉を黙って聞いていた。

惟種もまた、何も言わない。

だが加世は、言葉を継いだ。

「若君が外を定めるなら、わたくしは内を定めます」

声は高くない。

けれど、よく通った。

「蔵、文、寺、女房衆、負傷して戻る者、港に残る者――いずれも揺らがせませぬ」

加世は言う。

「阿蘇の家が、留守に崩れたとは決して申させませぬ」

惟豊の目が、そこでほんのわずかに細くなった。

感心か、安堵か、その両方かもしれなかった。

惟種が低く言う。

「島津の姫らしいな」

加世は、それに少しだけ口元を和らげた。

「島津の姫にございますれば」

「うむ」

「守るべきところで崩れるわけにはまいりませぬ」

その言葉は、惟種へ向けたものでもあり、自分自身へ向けたものでもあった。

島津の姫として育てられた。

ならば、送る朝に袖を濡らして、ただ哀しみだけを前へ出すわけにはいかない。

夫を見送る女である前に、家を預かる女であれ。

それが島津の躾であり、加世の誇りでもあった。

「ただ」

加世は、そこでほんの少しだけ言葉を止めた。

胸の内には、務めだけではないものもある。

それを全て隠し切るほど、自分は年を重ねてはいない。

「ただ、どうか」

惟種が目を向ける。

「勝ってお戻り下さいませ」

それは姫としての言葉ではなく、加世という一人の女の言葉だった。

だが、その一言を言ったからといって、今の自分の重みが損なわれるわけではないと、もう分かっていた。

惟種は、少しだけ間を置いてから言った。

「戻る」

短い。

だが、それで十分だった。

この人は長々と約束しない。

だからこそ、その短い一言が重い。

加世は深く頭を下げた。

「お待ちしております」

惟豊が、そこで静かに立ち上がった。

「よい」

その一言で、この場は終わる。

もうこれ以上、言葉を重ねてはならぬ時だった。

言葉を足せば、たぶん誰かの心が緩む。

だからここで切るのが正しい。

惟豊が先に歩き出し、惟種もそれに従う。

加世はその背を見送った。

行ってしまえば早い。

こういう時、人は驚くほど簡単に背を向け、廊を渡ってゆく。

だが、その背中を見ている加世の胸の内では、いくつもの思いが静かに重なっていた。

惟種は外へ出る。

自分は中に残る。

それは、片方が軽く、片方が重いという話ではない。

役が違うだけだ。

若君が外で負けぬためには、阿蘇の内が乱れぬことが要る。

兵が安心して前へ出るためには、戻る先の蔵が生き、寺が開き、女房衆が騒がず、負傷した者を受け入れる場があることが要る。

加世は、それを守る。

島津の姫として。

阿蘇の女として。

そして惟種を送り出した者として。

人が去ったあと、部屋にはまだ酒の匂いがわずかに残っていた。

朝の光は少しずつ強くなっている。

外では、馬のいななきと、兵の動く音がだんだん近づいてきた。

加世は、しばらくその場に立ったまま動かなかった。

泣きたくはない。

だが、胸が締まることは止められない。

それでも、ここでそれに沈まぬのが自分の務めだと、もう分かっていた。

「姫様」

女房が、少し控えめに声をかける。

加世は振り返った。

「蔵の鍵と、今日の文の帳面を」

「こちらへ」

「それから、寺へも」

「はい」

「負傷して戻る者のため、部屋を空けておきなさい」

「かしこまりました」

加世の声は、もう揺れていなかった。

務めとは不思議なもので、いったん手をつければ、人の胸の内の揺れを少しずつ静めてくれる。

よい。

これでよい。

若君が外を守るなら、自分は内を守る。

その役目を果たせば、島津の姫としても、阿蘇の姫としても恥はない。

加世は廊へ出た。

朝の風はまだ冷たい。

けれど、もう冬の風ではなかった。

遠くで旗が動き、人の列が整ってゆくのが見える。

戦が始まる。

だが、その戦は、戦場だけで行われるのではない。

家の中でもまた、別の形で始まっている。

加世は袖を整え、静かに前を向いた。

この留守は、わたくしが預かる。

その思いは、声に出さずとももう十分に固まっていた。