軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第五十三話 夏前の備え

天文十六年(一五四七年)五月の末。

田にはもう水が行き渡り、山の緑も春の淡さを脱ぎつつあった。

だが、館の内には夏を待つ明るさはない。

風はぬるみ、空は晴れている。

それでも人の顔だけは、少しずつ硬くなっていた。

表向きには、まだ何も起こっていない。

蒲池は、あの後の返書でもなお、誤解である、内を改めている、軽々しく物を申せぬ、と同じような言い逃れを重ねていた。

大友からは、当然ながらまだこちらへ何も来ぬ。

相良は相変わらず、どちらへも腹を見せぬ顔を保っている。

文だけ見れば、まだ刃は遠い。

だが、人と荷は嘘をつかなかった。

宗運のもとへ入る忍びの報せは、日を追うごとに重くなるばかりだった。

蒲池筋では、馬の替えが早い。

兵糧米の買い付けが増えている。

鍛冶場の火が夜まで落ちぬ。

境目へ近い小城や砦では、見張りの顔ぶれが変わり、道普請まで始まっている。

少弐筋もまた、静かではない。

勢福寺の周りでは、人の出入りが目立ち始めた。

ただの挨拶では済まぬ数の者が動き、旧縁を辿るように肥前の国人どもへ文が走っている。しかも、それを隠そうという気配が薄い。

表ではまだ引き延ばす。

だが裏では、もはや隠す気もない。

宗運は、そう見た。

その日も、忍びがひとつの報せを持ち帰っていた。

「蒲池方、兵糧を積んでおります」

小座敷には惟種、宗運、鍋島清房、家宗、高森惟房、北里政久、それに宗傳までが揃っていた。

「どれほどだ」

惟種が問う。

「まだ全部では見えませぬ。されど、夏を越すには重い量にございます」

宗運が頷く。

「短い働きではない、ということだな」

「はい」

忍びは続けた。

「少弐筋との行き来も、今はもう人目を避ける風ではありませぬ。むしろ見せておるようにも見えます」

清房が低く言った。

「腹を決めた、というより」

「腹を決めたように見せて、人を寄せておるのですな」

宗運が受ける。

少弐は、石高だけで見れば阿蘇より小さい。

だが、肥前における家格と旧縁は軽くない。

そこへ蒲池が寄れば、阿蘇の北へ伸びる手を折るには十分な形になる。

家宗が、少し押し殺した声で言った。

「やはり、少弐は来ますか」

惟種は短く答えた。

「来る」

迷いのない声だった。

「龍造寺を阿蘇の内で立て直しておるのだ。少弐にすれば、今のうちにその根を折りたい」

家宗は何も返さなかった。

返せなかった。

それは、痛いほど分かる理だった。

石井兼清や百武賢兼のような武辺がその場にいなくとも、旧龍造寺の者たちの胸の内には、同じ重さが落ちたはずだった。

惟種は板の上へ目を落とした。

「こちらは」

宗運が、すぐに別の板を広げる。

「前へ出せるのは三千」

短い一言だった。

だが、それは阿蘇が出せる総てではない。

出せるうちの、前へ出す分である。

「本来なら、もう少し膨らませることもできます」

宗運は続ける。

「されど、館を空にはできませぬ。番所も、道も、蔵も、全部は抜けぬ」

「大友がある」

惟種が言う。

「はい」

宗運はうなずいた。

「惟豊様ご不在のいま、なおさらでございます。大友が本気で手を出す気は薄いにせよ、こちらが空を見せれば話は別になります」

宗傳が、帳面の上で指を動かしながら言った。

「ゆえに後詰は残します。館、主要な番所、道筋、兵糧蔵、いずれも薄くはできませぬ」

高森惟房が少しだけ悔しそうな顔をした。

「三千、ですか」

「多いと思うか、少ないと思うか」

惟種が問う。

「……両方です」

「それでよい」

惟種は言った。

「本当はもっと出したい。だが、出し切れば負ける」

北里政久が腕を組み直す。

「向こうは」

宗運が答えた。

「蒲池と少弐を合わせて四千ほどと見ております」

清房がそこで低く言った。

「それなら、数では少し向こうが上ですな」

「うむ」

惟種はうなずいた。

「だが、数だけではない」

そこへ新たな使いが入った。

「名和より、使者にございます」

惟種が顔を上げる。

「通せ」

通されたのは、またしても内河義則だった。

もう軽い使いではない。もはや、名和の腹の内を運ぶ顔である。

礼を済ませ、義則はすぐに口を開いた。

「行興様より申し上げます」

「申せ」

義則は深く頭を下げた。

「名和は、家中をまとめております」

その一言で十分だった。

「いざ戦となれば、阿蘇方として馳せ参じる用意を進めております」

高森惟房が思わず顔を上げる。

清房は静かにその言葉を聞いていた。

「数は」

宗運が問う。

「三百ほど」

「よい数ですな」

宗運は平らに返した。

まだ完全臣従ではない家が見せる忠としては、ちょうどよい数である。

義則はさらに言った。

「戦が済みましたのち、あらためて正式に願い出るつもりにございます」

惟種は、その言葉を黙って受けた。

名和の道は、もうほとんど定まっている。

だが、いまはまだ戦の前である。ここで名まで折らせて抱えるのは、急きすぎだった。

「流民は」

今度は惟種が問うた。

「止めております」

義則は答える。

「阿蘇へは流さぬようにしております。代わりに、教わったところから手をつけ始めました」

宗傳が目を細める。

「どこからだ」

「村ごとの帳面」

「田の割り付け」

「取り立ての改め」

「荷の流れの札」

「寺での文の教え」

義則は一つずつ挙げた。

「すぐに真似できるところだけにございます。もっと深いところは、今の名和ではまだ支えきれませぬ」

惟種は小さくうなずいた。

それでよかった。

形だけを写して崩れるより、できるところから真似て、いずれ人を入れる方がましである。

名和は、そこをようやく理解し始めている。

「よい」

惟種は言った。

「無理に急ぐな。まずは崩れぬように回せ」

「は」

「戦が済んだのち、あらためて話す」

「ありがたく」

義則が下がる。

人が去ったあと、高森が低く言った。

「名和は、もうこちらですな」

「ほとんど、な」

宗運が答える。

「ただ、正式に言わせるのは戦のあとでよい」

清房が、その横で言う。

「相良はなお動きませぬか」

「動かぬ」

惟種が短く答えた。

「晴広は、最後まで損得を見る」

「それでいて、敵とも味方とも決めさせぬ」

清房の声には、少しだけ感心も混じっていた。

「厄介ですな」

「厄介な方が、いまは都合がよい」

惟種は言った。

「こちらへも、蒲池へも、完全には寄らぬ。ならば少なくとも、今すぐ後ろから噛まれることはない」

そのとき、また使いが来た。

「島津より、文にございます」

今度は惟種が自ら受け取る。

文面は簡潔だった。

阿蘇の不穏、すでに承知している。

いざという時には兵二百を差し向ける。

将は新納忠元。

加えて、火薬、馬、兵糧にて不足あるなら申せ。

それだけで十分だった。

惟種は読み終え、宗運へ渡した。

宗運が目を走らせる。

「二百」

「多くはない」

惟種が言った。

「だが、重い。今の島津が援軍として出せる兵の最大だ。」

清房がそれを聞いて頷いた。

「数ではないですな。島津が見ておる、ということが重い」

「うむ、ありがたい」

しかも将は新納忠元。

まだ若いが、島津家中で武名を立て始めた者である。名だけの使いではない。

高森惟房が、そこで少し胸を張った。

「阿蘇三千、名和三百、島津二百――」

「合わせて三千五百」

宗運が言った。

「向こうは四千」

北里政久が笑った。

「ちょうどいいではありませぬか」

「何がだ」

高森が睨む。

「兵は少ないが、勝てば大きい」

「負ければ重いぞ」

「だから、よいのです」

北里はどこか楽しそうですらあった。

宗運が二人を軽く制し、板の上を指で叩いた。

「前へ出すのは三千」

「館と道は残す」

惟種が言う。

「番所も抜くな。父上が戻るまでは、なおさらだ」

「はい」

宗傳が帳面に書きつける。

「兵粮の積みは」

「あと十日で一段目が揃います」

「馬は」

「替えを含めて足りましょう」

「火薬は」

そこだけは宗運が、少しだけ声を落とした。

「足ります」

それ以上は広げない。

足りる。

それでよかった。

蒲池も少弐も、本格的に準備を始めた。

ならば阿蘇もまた、迎え撃つ形を静かに組み上げねばならぬ。

槍の三人組。

森羅衆の輪番。

荷駄の道筋。

火薬の運び。

名和勢の置き場。

島津二百の合流地点。

少弐が肥前筋からどう寄せるか。

蒲池が筑後筋からどう押すか。

すべてが、まだ土の上に線としてしかない。

だが、その線はもう戦の形だった。

日が傾くころ、座はようやく解かれた。

人が散り、板が下げられ、帳面が閉じられる。

それでも館の中には、少しも評定の終わった気配がなかった。むしろそこから先が本当の始まりであるかのように、足音だけが絶えず続いている。

宗運が低く言った。

「もう、隠す気もありませぬな」

「うむ」

惟種は短く答えた。

「向こうは、夏前には動くつもりだ」

「七月か」

「そのあたりだろう」

宗運は小さく息を吐いた。

「父上が戻られるまでに、形だけは整えておかねばなりませぬな」

「整える」

惟種は言った。

「向こうが隠さぬなら、こちらも慌てぬ」

その声は低かった。

だが、迷いはなかった。

夏はまだ来ていない。

それでも、もう誰の顔にも平時の色は残っていなかった。

蒲池と少弐は、表ではなお返答を濁しながら、裏では隠す気もなく手を整えている。

阿蘇もまた、迎え撃つための形を、静かに、だが確かに組み始めていた。

山の緑は、日ごとに濃くなる。

そしてその深まりと同じように、戦もまた、もう戻らぬところまで育ち始めていた。