作品タイトル不明
第二十九話 火を育てる丘
天文十五年(1546年)一月
冬の朝は、鍛冶場の火がやけに大きく見える。
阿蘇の空は青く高い。だが空気は冷え切っており、山の端にはまだ薄く霜が残っていた。そんな中で、惟種は膝の上の鉄砲を見下ろしていた。
日新斎が置いていった一挺。
南から来た、ただの贈り物ではない。
見てみよ。
学んでみよ。
育ててみよ。
そう言われているような一挺だった。
鍛冶場の一角には、宗運、宗傳、光永、それに親方たちが集まっている。火薬はまだ使わぬ。今日は撃つのではなく、分け、確かめ、記すための日だ。
惟種はゆっくりと言った。
「まず、銃そのものを真似るのでは足りぬ」
光永が板へ筆を走らせる。
「火をどう通すか、どこで弱るか、何を揃えれば毎度同じように撃てるか。そこを見ねばならぬ」
宗運が腕を組んだまま聞いている。
「筒の中、火皿、火縄、引金、台木。皆、役が違う」
惟種は一つずつ指した。
「そして、こやつだけでは鉄砲にならぬ。玉が要る。火薬が要る。火縄が要る。湿らぬ蔵が要る。撃つ者が要る」
宗傳が頷く。
「つまり、鉄砲一挺を得たのでなく、仕事を一山抱えたわけですな」
「その通りだ」
惟種は鉄砲を親方へ渡した。
「筒は内をもっと均せる。火皿は湿気に弱い。火縄の質も見ねばならぬ。だが、一番先に決めるべきは別にある」
宗運が問う。
「何にございます」
「火薬の置き場と作り場だ」
そこまで言うと、場の空気が少し変わった。
鍛冶なら、火のそばで話せる。
だが火薬となると、話は違う。
惟種は静かに続けた。
「硫黄は阿蘇山から取れる。木炭も焼ける。だが塩硝がない」
「硝石丘、にございますな」
宗傳が言う。
「うむ」
惟種は頷いた。
「古土を待っていては遅い。ゆえに丘を仕込む。二年で使えるところまで持っていく」
親方の一人が眉を寄せた。
「二年、でございますか」
「試しではなく、実用だ」
惟種は言い切った。
「ただし、普通の山のように作るのではない。硝石丘は汚い。病も出る。火も怖い。だからまず、場を分ける」
宗運の目が細くなる。
ここからは、ただの鍛冶の話ではなくなる。
管理の話。
秘密の話。
つまり、この人の領分でもある。
「分ける、とは」
「硝石丘の場。浸出と煮詰めの場。硫黄蔵。木炭場。配薬所。火薬蔵。全部だ」
惟種は板を引き寄せて、簡単な配置を書いた。
居住地から離す。
風下に置く。
飲み水の上流に置かぬ。
作業場と食う場を分ける。
病人を入れぬ。
出入りを限る。
「火薬は兵を強くする前に、人を殺す」
場が静まる。
「だから鍛冶より先に決まりが要る。病を出さぬ。盗まれぬ。燃やさぬ。これを守れぬなら、始めぬ方がましだ」
宗運が、ゆっくりと頷いた。
「よろしい」
短い。
だが、これはこの人が腹を決めた時の声だった。
「普通の作業衆には任せませぬな」
「任せられぬ」
「ならば、こちらで抱えます」
惟種は宗運を見た。
「耳の者か」
「耳であり、足であり、見張りであり、帳面も持てる者どもです」
宗運は少しだけ口元を動かした。
「新しく名を付けますか」
惟種は、ほんの少しだけ考えてから答えた。
「花音衆」
光永の筆が止まる。
「花、音」
「火花の花だ。発つ時の音でもある」
惟種は板へその字を書いた。
「見た目は風雅でも、中身は火薬だ」
宗傳が苦笑する。
「若君らしい名にございますな」
「それだけではない」
惟種は言った。
「火は咲く。音は響く。だが、その前に土と糞と灰の山がある。見えぬところで火を育てる者どもだ。花音衆はそのための衆だ」
宗運は、その名を口の中で一度転がした。
「悪くない」
「風雅すぎぬか」
「むしろそれがよろしい」
宗運は答えた。
「火薬を預かる衆と露骨に呼ぶより、表向きは柔らかい。ですが、内では意味を持つ」
惟種は頷いた。
惟種としては、分子式KNO3にかけた名でもある。
だがこの時代の人間には、もちろんそんな理はわからない。
それでいい。
名前は多くの意味を重ねて強くなる。
宗運がさらに言う。
「花音衆は、硝石丘の管理だけでは足りますまい」
「足りぬ」
惟種は即答した。
「硫黄蔵も見る。木炭場も見る。配薬所も火薬蔵も見る。出入りの記しも、量の記しも持たせる」
宗傳がそこをすぐ拾う。
「帳面を二つに分けましょうな」
「二つでは足りぬ」
惟種は板に線を増やした。
「硝石丘の帳面。硫黄蔵の帳面。木炭場の帳面。配薬帳。火薬蔵の出納帳。撃った量の帳面」
親方が思わず言った。
「そこまで分けますか」
「分ける。混ぜれば、何が足りぬか見えぬ」
宗運がまた頷いた。
「そのあたりは、もう山と同じですな」
「同じだ」
惟種は少しだけ笑った。
「山も火薬も、感覚でやると死ぬ」
その日のうちに、花音衆へ回す候補が挙げられた。
山の耳。
汚れ仕事を嫌がらぬ者。
口の堅い者。
そして、宗運が本当に信用する者。
そこへ、もう一つ新しい話が乗る。
「鉄砲隊も名を付けるか」
宗運が何気なく言ったようでいて、実はかなり本気の声だった。
惟種は火のそばに置かれた鉄砲を見た。
硫黄は山から。
塩硝は丘から。
木炭は森から。
自然の理を束ねて火となる兵。
「森羅衆」
惟種はそう言った。
今度は宗傳が筆を止める番だった。
「森羅、にございますか」
「森羅万象の森羅だ」
惟種は板へ二字を書いた。
「山、土、木、火、風。全部を束ねて撃つ。人の理ではなく、万の理を使う兵だ」
宗運の目が、わずかに細くなる。
「花音衆が火を育て、森羅衆がその火を撃つ」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「花音衆は裏。森羅衆は表だ」
宗傳が口元を緩めた。
「名だけで、もう家中が気味悪がりそうにございます」
「少し気味悪いくらいでちょうどいい」
惟種は淡々と言う。
「鉄砲は珍しいだけでは強くない。揃っているから強い。森羅衆は、その揃いを形にしたい」
ここでようやく、宗運が本題を口にした。
「若君。森羅衆を何人でお考えで」
「百だ」
すぐ答えた。
場が少し静まる。
少なすぎず、多すぎず。
だが常備兵として考えれば、決して軽くない数だ。
「百でございますか」
宗傳が言う。
「百でよい」
惟種は言い切った。
「三百では維持が重い。五十では足りぬ。百なら、常に抱え、訓練し、号令を通し、火薬も揃えられる」
宗運が、そこで納得したようにうなずいた。
「常備兵、にございますな」
「うむ。農繁期でも解かぬ。平時は警固、試射、火薬番、整備、訓練をする。戦時にはひと塊で動く」
親方が問う。
「百挺、二年で揃いますか」
「揃える」
惟種は鉄砲を見た。
「全部を新しく打つのではない。見本から複製し、部品を揃え、調達も使い、傷んだものは直す」
「火薬は」
「二年で森羅衆百を支える分を目指す」
ここは、はっきりと言った方がよい。
「最初から大軍の火薬自給ではない。まず百。だが百が揃い、揃ったまま撃てるなら、それで十分に強い」
宗運が低く言う。
「まことに」
「雑に集めた二百より、揃った百の方が強い」
「その通りだ」
惟種は続けた。
「森羅衆の内訳も分ける。撃つ者。予備。装薬と弾薬を支える者。小隊をまとめる者。整備する者」
宗傳が板へ書く。
六十。
二十。
十。
十。
「実射の本隊が六十。予備と交代が二十。装薬と火縄、玉薬の補助が十。小隊長と整備が十」
「ただの百人ではなく、組ですな」
「そうだ」
惟種はうなずいた。
「森羅衆は人数でなく、揃いで強い」
宗運はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「二年後、百の森羅衆が立つと」
「立てる」
「花音衆がそれを裏で支える」
「そうだ」
「ならば」
宗運は火鉢の赤い炭を見たまま言った。
「これはもう、ただの新兵器ではありませぬな」
惟種はその言葉に少しだけ笑った。
「最初からそうだ」
鉱山の報も、そのあと続けて入った。
黒川は、問題なく動いている。
露頭は当たり、浅い試掘坑では重い石が出ている。
排水路は先に切ってある。
支柱も規格で入っている。
小車とそりも通る。
ふいご式送風も、深いところではないが十分効いている。
長陽も道が整い始め、永水は遅れながらも動き出している。
「問題なく機能しております」
宗傳がそう言った時、惟種はようやく胸の中で大きく息を吐いた。
山は回っている。
鍛冶場も回る。
硫黄もある。
塩硝はこれから丘で育てる。
そして、その先に森羅衆百がある。
全部が一本につながった。
「よし」
惟種は立ち上がった。
「では決める。黒川を先に進める。鍛冶場は鉄砲の試しを始める。花音衆を置いて硝石丘を仕込む。森羅衆百の枠を、今から空けておけ」
宗運も立つ。
「承知」
宗傳も頭を下げる。
「承知いたしました」
光永の板には、もう言葉がびっしり並んでいた。
――花音衆。
――森羅衆。
――硝石丘。
――二年。
――百。
鍛冶場の火が、その板を赤く照らしていた。
外はまだ冬だ。
だが惟種には、二年後の景がもう少し見えていた。
百の鉄砲。
揃った装薬。
よく乾いた火縄。
段撃ちの声。
他家がまだ珍し物として見る火を、阿蘇は組織された兵として使う。
その時、阿蘇はもう、ただの山の家ではない。
山を掘り、丘を育て、火を束ねる家になる。
惟種は鉄砲へ手を置いた。
「火は、育てるものだ」
誰に言うでもなく呟く。
だがその言葉は、鍛冶場の火と同じように、確かにその場へ残った。