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作品タイトル不明

第二十四話 南の家の悲願

天文十四年(1545年)十月

薩摩の秋は、阿蘇の秋より少し乾いていた。

風は高く、空は澄み、城の屋根瓦の上を渡る光は鋭い。南の国は温いという先入れを持っていれば、この季節の朝の冷たさに思わず背を正すことになる。

島津の館の一室で、伊集院忠朗は静かに口を閉ざしていた。

話し終えたからではない。

聞かれるのを待っているのだ。

上座には忠良――のちの日新斎。

その脇に貴久、少し下がって樺山善久。

灯は少ないが、この座敷には南九州の先の形を決めるだけの重さがあった。

灯は少ない。

広くもない座敷だ。

だがここにいる三人の前では、南九州の先の形が少しずつ決まってゆく。

忠朗は阿蘇から戻って、まだ半日も経っていない。休む間もなく呼ばれたということは、それだけ阿蘇の件が軽くないと見なされている証だった。

最初に口を開いたのは貴久だった。

「で」

短い。

「阿蘇はどうであった」

忠朗は膝の前に手を置いたまま答える。

「ただの神家ではございませぬ」

貴久の眉がわずかに動く。

「阿蘇大宮司家としての権威はもとよりございます。ですが、いまの阿蘇は、祈りの家にとどまる気がありませぬ」

樺山善久が腕を組んだまま言う。

「大きく出るな、忠朗」

「見て参りましたので」

忠朗は言葉を濁さない。

「田を太らせ、市を育て、飴と玻璃で銭を作り、その銭で鍛冶を育てようとしております。さらに山まで見始めた」

「山」

忠良がそこで、初めて声を出した。

静かな声だった。

「鉄にございます」

忠朗は答える。

「少なくとも、鉄気ある山を見ておる。鍛冶場も起こし、農具を改め、田の収穫を増やしております」

座敷の空気が少しだけ変わった。

ただ城を持つだけの国衆なら、ここまで重い空気にはならない。

田、市、鍛冶、山。

それは“国を太らせる”筋そのものだからだ。

貴久が忠朗を見た。

「宗運はどうだった」

そこを聞くか、と忠朗は内心で思う。

だが、当然でもある。阿蘇の今を支えているのが誰かといえば、まず甲斐宗運だ。

「切れます」

忠朗は迷いなく言った。

「見た通りにございます。話をまとめる速さ、言葉の置き方、出しすぎず、だが隠しすぎぬところ。あれは軽く見ぬ方がよろしい」

樺山が低くうなる。

「武の方は」

「まだじかには見ておりませぬ。ですが、近ごろの境目戦では兵を多く出し、伏兵を読んで勝っております」

「若君が読んだという話か」

樺山の問いに、忠朗は少しだけ口元を引き締めた。

「そう聞きました」

「噂ではなくか」

「兵の口から上がった名までございます」

貴久がそこで少し身を乗り出した。

「鬼童、だったか」

「はい」

樺山が鼻で笑うように息を吐く。

「兵はすぐ妙な名をつける」

「ですが」

忠朗はそのまま続けた。

「名が立つには、それだけのことをしたのでしょう」

忠良がそこで、初めて忠朗を正面から見た。

「おぬしは、その童をどう見る」

忠朗は一拍置いた。

ここは軽く答えるところではない。

「本物にございます」

樺山が少し顔をしかめる。

「童だぞ」

「ええ。ですが、童の話ではありませぬ」

忠朗は落ち着いて言う。

「わたくしに語らせたのは宗運でした。ですが、持たせた言葉は若君のものです。阿蘇は田を整え、市を育て、銭を作り、その銭で鍛冶を育て、その先で兵を整える――そう申しました」

「それは宗運の作った言葉ではないと」

貴久。

「違います」

忠朗は即答する。

「宗運はあれを“使える形へ直している”。ですが元の筋は、若君の目から出ております」

忠良の目が細くなる。

「ほう」

「しかも、その若君は、我らを今の勢いで見てはおりませぬ」

「……何と見ておった」

忠朗はそこで、阿蘇の座敷で聞いた言葉を、そのままではなく少しだけ整えて出した。

「島津は、これから家をまとめる。教えを持つ。戦ぶりにも癖が立つ。今の強さではなく、これからそういう国になる家として見ておる、と」

樺山の顔つきが変わった。

貴久も黙る。

そして忠良だけが、ほとんど動かなかった。

だが、忠朗にはわかった。

いちばん深く刺さったのは、この人だ。

少ししてから忠良が言う。

「誰を見て、そのように申した」

「御前にございます」

忠朗は頭を下げた。

「忠良様のことかと」

座敷に静けさが落ちた。

風の音すら遠い。

その沈黙を、貴久が先に破った。

「面白い童だ」

「面白い、で済めばようございますが」

忠朗が言うと、樺山が低く笑った。

「済まぬか」

「済みませぬ」

忠朗ははっきり言った。

「阿蘇の若君は、ただ利にさといだけではありませぬ。家の作り方を見ております」

忠良が、そこで小さく息を吐いた。

「それは恐ろしい」

穏やかな声だった。

だが、樺山も貴久も、その一言の重さをわかっている顔だった。

「人は城の数や兵の数を見ておれば楽だ。だが、家の骨を見る者は厄介よ」

忠良の目は、障子の向こうでも見ているように静かだった。

「しかも幼い」

「はい」

「若くしてその目を持つなら、長く育てば大きくもなろう」

樺山がそこで口を開く。

「育てば、だ」

武辺者らしい、乾いた言い方だった。

「幼い若君など、戦国では長う生きぬことも多い。名が立つほど狙われる」

忠朗はそれに頷いた。

「それもまた、あちらは承知しております。宗運がかなりきつく締めておるように見えました」

「では宗運と若君、両方を見ねばならぬか」

「はい」

忠朗が答えると、樺山は腕を組んだまま天井を見た。

「厄介だな」

「厄介にございます」

貴久は、そこでようやく口元を少し動かした。

「だが、放っておくには惜しい」

それがこの場の結論の芯だと、忠朗は感じた。

阿蘇は、今すぐ従えるべき小勢ではない。

だが敵に回して消耗するには惜しい。

まして、これから北へ目を向けるなら。

貴久が静かに言う。

「われらの悲願は、三州を一つにすることだ」

樺山も忠朗も、黙って聞く。

忠良は目を伏せている。

貴久の声は大きくない。だが、この場ではそれで十分だった。

「薩摩、大隅、日向」

言葉が一つずつ置かれる。

「この三州を押さえ、家中を一つにまとめ、南の地をわれらのものとしてようやく、島津は本当に立つ」

忠朗は頭を下げたまま、その言葉を聞いていた。

そうだ。

これがこの家の奥底にある願いだ。

薩摩だけでは足りぬ。

大隅だけでも足りぬ。

日向まで押さえて、初めて南の国として一つの形になる。

それが三州制覇。

忠良がそこで、静かに言葉を添えた。

「三州制覇とは、ただ土地を取ることではない」

貴久も樺山も、黙って聞いている。

「薩摩をまとめ、大隅を抑え、日向へ及ぶ。そのうえで家中を割らず、人を逃がさず、外へも顔を持つことよ。三つの州を持っていても、ばらばらなら意味はない。一つの国のように動いてこそ、悲願は成る」

忠朗は、やはりこの人がいちばん本質を見ると思った。

ただ軍を進める話ではない。

国の作り方そのものだ。

そしてその話は、阿蘇の若君が考えていることと、どこか響き合っていた。

貴久が続けた。

「三州を取るなら、いずれ北を見ぬわけにはいかぬ」

ここで、ようやく阿蘇の話へ戻る。

「肥後東寄りにある阿蘇を、敵として置くか、縁を通じた相手として置くか。それは今のうちに考えて損はない」

樺山が言う。

「今すぐ刃を向ける利は薄い。あの家を噛んで得るものより、結んで得るものの方が多そうだ」

「うむ」と貴久。

「しかも大友がいる。北で大友とやる時、阿蘇がどう動くかは軽くない」

忠朗がそこで補う。

「阿蘇もまた、大友をただの遠い名では見ておりませぬ。あちらは肥後で“話を通さねばならぬ家”を目指している」

樺山が笑った。

「大きく出る童だ」

「大きく出ているだけではございますまい」

忠朗は静かに返した。

「すでに田は増え、市は動き、境目の館を落とした。口だけの家ではございませぬ」

忠良が頷いた。

「ならば、いま島津が取るべき道は一つよ」

座敷が静まる。

「敵にするな。

だが、呑み込む気で近づくな。

縁を保て。

先を見よ。

その童が本当に育つかを見よ」

貴久がその言葉を受けた。

「うむ。誓紙までは急がぬ。だが糸は切らぬ。商いも、言葉も、返礼も返す」

「返礼の品は」と忠朗。

「玻璃に対しては、こちらもただの土産では軽い」

貴久は少し考えた。

「南の珍を選べ。だが、見せびらかしになりすぎるな」

樺山がそこで、初めて少しだけ笑った。

「それと、鬼童殿には何と返す」

忠良が答えた。

「“先を見る者を、島津は嫌わぬ”と」

忠朗は、その一言を心の中で反芻した。

短い。

だが十分だ。

若君はきっと、この言葉の重みを理解するだろう。

そして、忠良はさらに続けた。

「ただし、同時に伝えよ。先を見すぎる者は、時に早く死ぬともな」

樺山が低く笑う。

「脅しですか」

「いや」

忠良は静かだった。

「忠告よ」

その声に、少しだけ冷たいものがあった。

これは敵意ではない。

むしろ、見込んだからこそ出る冷たさだ。

貴久が最後に言った。

「いずれ、若君本人も見たい」

忠朗は頭を下げた。

「承知いたしました」

「だが今はまだよい。阿蘇がもう一段太るか、あるいは一段危うくなるか、そのどちらかを見てからで足りる」

忠朗は、そこまで含めてよくわかると思った。

島津は、いま阿蘇を取り込もうとはしていない。

しかし切る気もない。

見ている。

値を測っている。

そして、使い道があると見ている。

それだけで、十分大きな成果だった。

座を辞したあと、廊へ出ると、樺山が後ろから声をかけてきた。

「忠朗」

「は」

「宗運は、本当に切れるのか」

「切れます」

忠朗は迷わず答えた。

「では、若君が本物でも、しばらくは宗運が阿蘇を持たせるな」

「そのように見えました」

樺山は腕を組んだまま、少し空を見た。

「面白い」

「何がにございます」

「阿蘇は、いま育ちかけの木だ。だが、支える手が良い」

忠朗はその言葉に頷いた。

忠朗はふと思う。

阿蘇の若君は、島津を今でなく先で見た。

では島津は、阿蘇をどう見るか。

答えは、もう出ている。

いまの力ではなく、これからどういう家になるか。

それを見ているのだ。

南の空は高く、乾いた風が吹いていた。

三州制覇の悲願はまだ遠い。

だが、その遠い道の北側に、阿蘇という小さからぬ結び目があることを、島津の家は今、はっきりと知った。