作品タイトル不明
第二十五話 山を開く手
天文十四年(1545年)十一月
秋が深まるにつれて、阿蘇の山は色を変えた。
赤、黄、褐。朝の光を受けた尾根は美しい。だが惟種の目には、もう美しさだけでは映らなかった。あの山のどこに鉄気があり、どの沢筋に重い砂が溜まり、どの斜面なら水を逃がしながら坑を開けるか――そういう見方が、先に立つようになっていた。
その日、惟種は惟豊と宗運を相手に、館の奥で話していた。
いつもの小座敷である。
火鉢が一つ。
地図が三枚。
そして板に記した山の見取りが幾つも並んでいる。
惟豊が腕を組んだまま、惟種の前の板を見ていた。
「黒川、長陽、永水」
「はい」
惟種は頷く。
「まずはこの三つです」
前に自分が示唆した山だ。阿蘇郡内で、鉄気があるとされ、山見の者と猟師、炭焼きが皆それぞれ同じような場所を指した山々。宗運の耳が拾った話とも重なる。
惟豊が問う。
「本当にそこにあるのか」
惟種は少しだけ間を置いて答えた。
「あるはずです」
「夢か」
「夢でもあり、理でもあります」
宗運がその横から口を入れた。
「山見の者の話とも合っております。露頭のある沢筋、赤茶けた石、重い砂、火に入れた時の匂い。少なくとも、掘る価値は十分にございます」
惟豊は低く頷いた。
「よい。では改めて聞く。そなたは、どう掘るつもりだ」
そこだ。
ただ山へ人を入れて掘る、ではない。
惟種がやりたいのは、もっと違う。
「ただの手掘りではありませぬ」
惟種は板の一枚を引き寄せた。
「山師が露頭を見つけ、そのまま穴を穿って崩し、良い石だけを拾って去る――そういう山ではなくします」
宗運の目が、わずかに細くなる。
「ほう」
「坑道を整え、風を通し、水を逃がし、道具を分け、運ぶ筋を決め、記しで動かす山にします」
惟豊が少しだけ口元を動かした。
「大きく出たな」
「ですが、そうでなければ長うは続きませぬ」
惟種は続けた。
「掘るだけなら誰でもできます。だが、掘って、運んで、選んで、熔かして、銭にするには順が要る」
宗運が静かに言う。
「若君の言う順を、申してみよ」
惟種は待っていたように答えた。
「まず露頭の確認。次に浅い試掘。その後に主坑道。排水路を先に作る。運搬路を整えてから深く入る。さらに、空気の流れを考えて坑口を増やす」
惟豊はそこで黙った。
宗運は黙ったまま、しかし視線だけが鋭くなる。
惟種は、そこで板をもう一枚広げた。
簡単な絵だ。
だが、ただの絵ではない。
坑口。
主坑道。
枝坑。
床の排水溝。
横に置いた支柱。
運搬路。
坑外の洗鉱場と炉場。
そして少し離れたところに、木の箱のようなもの。
惟豊が指した。
「これは何だ」
「ふいごです」
「鍛冶場の、か」
「鍛冶場のふいごを、大きくして使います」
宗運が少しだけ体を前へ寄せた。
「坑道へ、でございますか」
「はい」
惟種は頷いた。
「坑道は、深く入るほど苦しくなります。灯が弱り、煙や悪い気がこもり、人が長く働けませぬ。だから、空気を動かします」
惟豊は眉を動かした。
「空気を、動かす」
「自然任せではなく、意図して送るのです」
惟種は板の木箱を指で叩いた。
「大きな箱ふいごを作ります。吸い口には逆さに戻らぬ弁を付け、吐き口を竹や木の管へつなぐ。それを人力、あるいは後には水の力も借りて、動かす」
宗運は、しばし無言だった。
そしてようやく言う。
「……ただの大きなふいごにございますな」
「最初はそうです」
「だが、それで坑内の灯が消えにくくなり、人夫が長く働けるようになる、と」
「はい」
惟豊はそこで、小さく鼻を鳴らした。
「笑われそうだな」
「最初は」
惟種は素直に答えた。
「ですが、奥の坑で苦しさが減れば、皆黙ります」
宗運の口元が、そこでわずかに動いた。
「確かに」
この人は、そういう地味な工夫の値をよくわかる。
派手な奇策より、現場が黙って従うものの方が強い。
「それだけではありませぬ」
惟種はさらに言った。
「道具も分けます」
「分ける」
「はい。掘る道具、割る道具、こじる道具、運ぶ道具、支える道具、測る道具を、それぞれ別にします」
惟豊は少しだけ笑った。
「今までは混ざっておったか」
「混ざっております」
惟種は即答した。
「何にでも使える道具は、何にも向かぬことが多い」
宗運がそこで宗傳の名を呼ばせた。
ほどなくして、 田代(たしろ) 宗傳(そうでん) が入り、惟種の前の板を見て、すぐ眉を上げた。
「……これは、忙しゅうなりますな」
「忙しくする」
惟種が言うと、宗傳は苦笑した。
「何を作ります」
惟種は待ってましたとばかりに、次の板を出した。
「つるはし」
「はい」
「幅広のものと、細身のもの」
「ほう」
「たがね。平たがね。小槌。大槌。楔。梃子棒」
宗傳はすでに半ば諦めたような顔で、光永を呼ぶよう視線を送った。どうせ記録が要るとわかっているのだ。
惟種は止まらない。
「掘る道具は柄の長さを揃える。重さも数種類に絞る。先の角度も役目ごとに変える。修理しやすいよう差し替えにする」
「それだけで、そんなに変わりますか」
宗傳が問う。
「変わる。特に人が変わっても同じように使える」
ここが近代化の肝だ、と惟種は思った。
名人芸に頼らず、誰が使ってもある程度同じだけ働くようにする。
それは道具の形を揃えることから始まる。
「運ぶものも要ります」
惟種はさらに続ける。
「背負い籠。木箱。そり。小車。二輪の荷車。滑車。巻上げ胴」
惟豊が首を傾げた。
「三輪ではないのか」
「山では二輪の方がよいです」
「なぜだ」
「三輪は平地ではよい。だが、山道ではかえって不安定になります」
宗運がそこで頷いた。
「なるほど」
「坑内も同じです。まず床をならし、幅を決め、良い石とズリの道を分ける。それだけで運びが違う」
惟豊は何も言わず、板の線を見ている。
坑口から坑道へ。
坑道から積み替え場へ。
積み替え場から洗鉱場へ。
洗鉱場から炉場へ。
全部に線がある。
「さらに」
惟種は、今度は細かな札のようなものを板の横に置いた。
「記しを入れます」
「記し」
宗運。
「どの坑道がどこへ伸びたか。どこで水が増えたか。どの班がどれだけ掘ったか。どの石の品位が高いか。どの道具が何日持ったか。毎日書きます」
宗傳が、そこで深く息を吐いた。
「……それ、誰が書きます」
「光永」
呼ばれた本人は、障子の外からもう半ば聞いていたらしく、静かに入ってきて頭を下げた。
「承ります」
「お前、嫌と言え」
惟種が言うと、光永は真顔で答えた。
「記しのない山は、いずれ崩れます」
宗運が思わず、といった顔で光永を見た。
たしかに、この少年は惟種に毒されている。
だが悪くない。
むしろ必要だ。
惟豊がそこで、ようやくはっきりと口を開いた。
「面白い」
短い。
だが、これはかなり前向きの時の声だ。
「単なる山師仕事ではないな」
「はい」
惟種は父を見た。
「一時掘って捨てる山ではなく、阿蘇の財と兵を支える山にします」
「すると、ただ掘るだけではない」
「道も要ります。鍛冶も要ります。木工も要ります。人夫小屋も、道具小屋も、洗う場も、炉場も、記しを置く場所も要ります」
惟豊は笑った。
「山一つで村が立つな」
「立てます」
そこで宗運が、静かに本質を言った。
「つまり若君は、山を掘るのでなく、山で一つの仕事場を作るおつもりだ」
「はい」
「妙に整いすぎて見える山になりますな」
「坑道はまっすぐ。床には排水溝。換気のための立坑。危ない場所には支柱。良鉱とズリは分ける。洗鉱と製錬も分ける。人夫は班で動かす」
宗傳が、もう半ば諦め顔で笑った。
「山師どもが見れば、気味悪がりましょうな」
「気味悪がらせる」
惟種は即答した。
「感覚でやるより、決まりでやった方が強い」
宗運は、そこで一つ頷いた。
「よろしい」
惟種は少し驚いた。
この人がそこまで早く腹を決めるとは思わなかった。
宗運は続ける。
「山の場所を知っている。掘る順を知っている。風の価値を知っている。道具を揃える。記しで動かす――ここまで揃えば、普通の山師には勝てませぬ」
惟豊も同じだった。
「ならばやれ」
短い。
だが、これも決裁の声だった。
「まずどこからだ」
惟種はすぐに答えた。
「黒川からが良いかと。露頭が取りやすく、まず当たりを見せやすい」
「長陽は」
「次です。永水はさらにその後」
「期間は」
ここも惟種はすでに考えていた。
「一〜三か月で石は出せます」
惟豊が眉を上げる。
「早いな」
「場所を知っているからです」
惟種ははっきり言った。
「普通は当たり外れに賭けます。ですが、こちらは最初から当たる山を掘る」
宗運がそこで低く笑った。
「夢とは、便利なものですな」
「便利でなければ困る」
惟種がそう返すと、宗傳まで吹き出しそうになる。
惟豊は板を指した。
「その後は」
「三〜六か月で坑道を整える。半年から一年で換気を入れる。さらにその先で洗鉱と製錬を分ける」
惟種は、一つずつ言った。
「一〜三か月で石が出る。三〜六か月で小さく銭になる。半年から一年で、風と道の効果が出る。一〜二年で歩留まりが安定する。三〜五年で本格の山です」
宗運が、そこで少しだけ口元を引き締めた。
「……三〜五年で、政治と軍を支える山になりますか」
「なります」
「その間、我らは人夫と職人を食わせねばならぬ」
「はい」
「それでもやる価値がある」
「あります」
答えながら、惟種は自分の中でそれをはっきり感じていた。
田は毎年の腹を支える。
市は銭を回す。
だが鉱山は、その先だ。
鍛冶を支え、道具を支え、いずれ兵の質まで変える。
惟豊が最後に言った。
「よし。まずは黒川を開く」
部屋の空気が、そこで決まった。
「人は」
宗運が言う。
「山の耳、炭焼き、猟師、杣、鍛冶、木工、荷運び。最初は少なく、だが信用のおける者で固めます」
「うむ」
「若君」
宗運が惟種を見る。
「最初の山を開くとき、何を優先します」
惟種は答えた。
「掘ることではなく、水です」
惟豊と宗傳が同時に少し驚いた顔をした。
「水か」
「はい。水に負ける山は、深く入れぬ。だから最初に排水路を切る。次に道。そしてそのあとで掘る」
宗運が深く頷いた。
「よろしい。山師は石を見ますが、若君はまず水を見る」
「山を殺すのは、崩れと水です」
宗傳が、そこで板へ書き留めた。
――まず水を見よ。
たぶん、後で宗傳自身が使うつもりなのだろう。
惟豊が立ち上がった。
「話は決まった。黒川を開く。まずは小さく当てる。だが、中は大きく作れ」
宗運も立つ。
「承知」
惟種も頭を下げる。
だが、その時になって、ふと思い出したことがあった。
「灯りも要ります」
宗運が足を止める。
「灯り」
「坑内の灯です」
惟種は言った。
「ガラスがあるなら、風除けの灯を作れる。油皿に芯を置き、ガラスで覆えば、坑口や浅い坑ではかなり持つ」
宗傳が目を瞬かせた。
「……提灯、のようなものにございますか」
「名は何でもよい。だが、灯が消えにくくなる」
宗運が、その言葉を受けるように言った。
「山でも、鍛冶場でも、夜の手が伸びるな」
「はい」
「では、それも作ります」
そこまで言われると、惟種は少しだけ笑った。
自分が次から次へ物を増やしても、宗運はもう止めない。
いや、止めるべきものと進めるべきものを分けたうえで、進める方は容赦なく通す。
だから阿蘇は速いのだ。
座敷を出る時、惟種は黒川の見取り板をもう一度見た。
山はまだ、静かなままだ。
だがその腹の中には、これから掘り出される鉄がある。
その鉄は、鍛冶へ回り、農具となり、道具となり、兵の力となる。
その山を、今度は阿蘇が管理する。
ただの戦国の穴山ではない。
風が通り、水が逃げ、道具が分かれ、記しで動く山。
見た目は、きっと奇妙だろう。
だが、それでよい。
未来はたいてい、最初は奇妙に見える。
外へ出ると、阿蘇の空はすでに夕方へ傾いていた。
風は冷たい。
けれど惟種の胸の内には、鍛冶場の火より少し深い熱があった。
次は山だ。
そして、山を開くということは、阿蘇の未来をまた一つ掘り当てるということだった。