軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百五十九話 早すぎた文

天文二十年(一五五一年)三月。

山口の春は、まだ冷えていた。

梅は咲く。

風も、冬の鋭さを少しずつ失っている。

だが、大内の館にある空気は春へ向かわなかった。

文の者は、武の者を疑う。

武の者は、文の者を軽んじる。

寺社は様子を見る。

商人は、荷の流れを止めぬ者が誰かを見ている。

国衆は、次に立つ者の影を探り始めている。

そこへ、さらに一つの火種が入った。

珠光姫である。

大内義隆の娘。

その姫が、阿蘇へ預けられた。

表向きは友誼。

西国静謐。

大内と阿蘇の橋。

だが、山口でその言葉をそのまま受け取る者は少ない。

文の者は、阿蘇筋が入れば武の者は軽々しく動けぬと見る。

武の者は、大内の姫を肥後へ差し出したと見る。

商人は、博多の荷が止まるかどうかを見る。

寺社は、大内の名が山口に残るか、阿蘇に移るかを見る。

誰もが、同じ火を違う名で呼んでいた。

大内の屋根が、揺れている。

陶隆房は、その揺れの中心に座っていた。

隆房の前には、文が置かれている。

阿蘇惟種からの文であった。

封は丁寧。

文面も乱れていない。

礼は尽くされ、友和の言葉もある。

だが、隆房は笑わなかった。

「友和、か」

声には冷えたものがあった。

向かいに座る江良房栄は、黙っている。

隆房は文へ目を落とした。

阿蘇は大内家を軽んじるものにあらず。

陶殿を敵と見るものにもあらず。

大内の内は、大内の忠臣が収めるべきもの。

阿蘇は九州の家にて、軽々しく山口へ兵を入れるものではない。

ただし。

珠光姫の身。

博多の荷。

大内の名。

この三つを損なうならば、その限りにあらず。

隆房は、その箇所を何度も読んだ。

文字は穏やかである。

だが、穏やかな文字ほど腹を隠す。

阿蘇惟種は、そういう男だ。

「江良」

「は」

「どう読む」

房栄は文を受け取り、静かに目を通した。

一度目は礼の文として。

二度目は政の文として。

三度目は、刃として。

やがて、文を畳む。

「阿蘇は、義隆様を救うとは書いておりませぬ」

隆房の目が、少しだけ細くなる。

「続けよ」

「隆房様を討つとも書いておりませぬ。置いたのは、線にございます」

房栄は、指を三つ折った。

「珠光姫。博多の荷。大内の名」

隆房は黙って聞いていた。

「この三つを越えぬ限り、阿蘇は山口へ兵を入れぬ。そう読めます」

「読める、ではない」

隆房は低く言った。

「そう読ませたいのだ。阿蘇惟種は、わしにそう読ませるため、この文を書いた」

「おそらくは」

房栄は頭を下げた。

隆房は、文を膝の上に置いた。

「面白くない」

阿蘇が義隆を救わぬこと。

陶を敵と断じていないこと。

山口の内は山口で収めよ、と読めること。

それだけなら、陶にとって利である。

だが、そこに珠光姫がいる。

大内義隆の娘。

大内の血。

しかも、阿蘇へ預けられた女である。

「義隆様は、何をなさるおつもりであったか」

隆房は、誰に問うでもなく言った。

房栄が答える。

「阿蘇の影を山口に落とすおつもりだったのでしょう」

隆房は鼻で笑った。

「その通りだ」

笑いに温かさはない。

「珠光姫を阿蘇へ預ける。婚姻の儀を済ませる。阿蘇惟種を大内の縁者にする。その影で、わしらを押さえる」

隆房は、文の上に指を置いた。

「悪い手ではない」

房栄の目が、わずかに動いた。

「阿蘇は九州を太らせている。博多も見ている。朝廷も幕府も、阿蘇を軽んじてはおらぬ。そこへ大内の血を預ければ、山口の者どもは考える」

文の者は阿蘇を頼る。

商人は荷を守るため阿蘇を見る。

寺社は大内の名がどこへ残るかを探る。

武の者は、陶隆房が動けば阿蘇が出てくるかもしれぬと疑う。

義隆が狙ったのは、それであった。

阿蘇の影を山口へ落とす。

落とした影で、陶を抑える。

隆房は、その手を正しく読んでいた。

だからこそ、顔は冷えていた。

「もう少し早ければ、効いたかもしれぬ」

房栄は何も言わなかった。

「あと一年早ければ。いや、せめて半年早ければ、山口の者どもも阿蘇の影に怯えたであろう」

隆房の声が低くなる。

「だが、今は遅い」

部屋の外で、風が鳴った。

「もう山口は、婚姻で戻るところにはございませぬな」

房栄が静かに言った。

隆房は頷いた。

「その通りだ」

義隆は、まだ大内の当主である。

その事実を否む者はいない。

だが、家中の目は、すでに義隆だけを見てはいなかった。

宴。

文。

公家。

寺社。

雅。

それらを愛することは、悪ではない。

だが、国が荒れる時、兵を持つ者は別のものを見る。

蔵。

米。

兵。

敵。

そして、主の背。

その背が遠いと思えば、武の者は不安になる。

不安が怒りになる。

怒りが理を得れば、刃になる。

隆房は、すでにその刃の重さを知っていた。

抜く気でもいた。

そこへ阿蘇が入った。

珠光姫が阿蘇へ移った。

惟種から文が来た。

山口には、阿蘇の影が落ち始めた。

「江良」

「は」

「阿蘇へ人を遣るべきと思うか」

「腹を探るために、でございますか」

「そうだ」

「不要かと存じます」

隆房は、わずかに口元を動かした。

「なぜだ」

「すでに腹は出ております」

房栄は文を見た。

「阿蘇は、義隆様の御命を守るとは申しておりませぬ。山口へ兵を入れぬとも書いております。ただし、線を越えれば別だと」

「うむ」

「ならば、こちらが確かめるべきは阿蘇の腹ではございませぬ」

「何だ」

「こちらが、その線を越えずに山口を収められるかどうかにございます」

隆房は、しばらく房栄を見ていた。

やがて、低く笑う。

「よい答えだ」

房栄は頭を下げた。

「恐れ入ります」

「阿蘇へ使者を出せば、山口に何が起こる」

「阿蘇の影が濃くなります」

「そうだ」

隆房は文を指で叩いた。

「義隆様が望んだものを、こちらから太らせることになる」

阿蘇へ使者を出す。

それは、陶が阿蘇の顔色を窺ったという形になる。

文の者は阿蘇を大きく見る。

商人は陶より阿蘇を測る。

寺社は、義隆の策が効き始めたと見る。

それではならない。

「阿蘇へは行かぬ」

隆房は言った。

「文だけで十分だ」

房栄は、静かに頷いた。

文だけで十分。

それは、安心という意味ではなかった。

むしろ逆である。

阿蘇惟種は、こちらへ線を置いた。

その線を読める者なら、次に何をすべきか分かる。

婚姻の儀が済む前に、山口を収める。

それしかない。

珠光姫は、すでに阿蘇にいる。

だが、まだ正式に阿蘇惟種の女となったわけではない。

婚姻の儀が済めば、話は変わる。

阿蘇は義隆の縁者となる。

その後に刃を向ければ、陶は別の名を負う。

珠光姫の父を討った者。

阿蘇の縁者を害した者。

大内の血を脅かす者。

まだならば違う。

まだ、阿蘇は大内の血を預かっただけである。

まだ、義隆と阿蘇の縁は結び切っていない。

まだ、山口の内は山口で収められる。

隆房は、そこまで読んだ。

惟種の文が、そう読ませた。

「義隆様は、急がれたのだろうな」

「はい」

房栄が答える。

「阿蘇と婚姻の儀を結び、山口の腹を固め直す。隆房様を押さえ、文の者を安心させ、商人には博多の荷を見せる」

「悪い手ではない」

「悪い手ではございませぬ」

「だが、遅い」

隆房の声に、迷いはなかった。

「山口は、すでにそこまで戻れる場所ではない」

房栄は、深く頭を下げた。

「では」

「支度を急ぐ」

その一言で、部屋の空気が変わった。

房栄の目が、わずかに鋭くなる。

「いつにございますか」

「早いほどよい」

「阿蘇の婚姻の儀より前に」

「当然だ」

隆房は言い切った。

「婚姻が済んでからでは遅い」

房栄は、しばらく黙っていた。

それから、低く言った。

「ただの乱では足りませぬ」

「分かっている」

隆房は答えた。

「山口を荒らすのではない。山口を収める」

「義隆様の御名は」

「辱めぬ」

「珠光姫は」

「触れぬ。阿蘇にいる以上、なおさらだ」

「博多の荷は」

「止めぬ」

「大内の名は」

「残す」

房栄は、そこで初めて深く息を吐いた。

「ならば、阿蘇の線は越えませぬ」

「越えぬ」

隆房は静かに言った。

「だが、線の際までは踏む」

房栄の目が、わずかに動いた。

「阿蘇の線を恐れて、手を緩めるつもりはない。珠光姫には触れぬ。博多の荷も止めぬ。大内の名も残す」

隆房の声が、さらに低くなる。

「だが、義隆様の周りに集まる者は散らす。文の者は黙らせる。迷う国衆は先に押さえる。寺社も商人も、口実を与えぬ範囲で縛る」

「……阿蘇に兵を出す名分を与えぬまま、山口を奪う」

「奪うのではない」

隆房の返しは早かった。

「保つのだ」

房栄は、口を閉じた。

隆房は文へ目を落とす。

「義隆様を討ちたいのではない。義隆様のままでは、もはや大内が保たぬ」

その声には、怒りだけではないものがあった。

失望。

惜しみ。

そして、自分を忠臣と信じようとする者の冷たさ。

「大内を壊すためではない。大内を残すための刃だ」

そう言い換えた時、隆房の腹は決まっていた。

房栄が、文箱を寄せた。

「まず、誰を押さえますか」

「文の者は、義隆様の近くへ集まりすぎぬようにせよ」

「寺社は」

「荒らすな。寺社を焼けば、阿蘇に口実を与える」

「商人は」

「博多の荷は止めぬと伝えよ。山口が荒れても、荷は流す。そう聞けば、商人は静かに見る」

「国衆は」

「迷う者から先に声をかける。遅れる者は、勝ち馬を見る」

「毛利は」

隆房は、そこで少し沈黙した。

「毛利は見る」

「動きますか」

「すぐには動かぬ。だが、見ている」

房栄は頷いた。

「阿蘇と同じにございますな」

「違う」

隆房の返しは早かった。

「阿蘇は遠い。遠いからこそ名分で動く。毛利は近い。近いからこそ、利で動く」

「では、毛利には」

「利を見せる。ただし、太らせすぎるな」

房栄は、その一言を胸に刻んだ。

陶隆房は怒っている。

だが、怒りに酔ってはいない。

阿蘇の文を読み、義隆の狙いを読み、山口の荒れを見て、毛利の腹まで測っている。

この男は、乱を起こす気でいる。

しかし、それを乱のままにはしない気でいる。

山口を収める刃にするつもりでいる。

隆房は、もう一度阿蘇の文を手に取った。

友和の言葉。

礼の言葉。

線を置く言葉。

どれも整っている。

整いすぎていた。

「惟種め」

隆房は小さく呟いた。

「若いくせに、嫌な文を書く」

房栄は何も言わない。

「義隆様を救うとは書かぬ。わしを敵とも書かぬ。だが、珠光、博多、大内の名は守ると置く」

隆房は文を畳んだ。

「つまり、今ならまだ山口の内で済む」

房栄が静かに言った。

「婚姻の儀が済む前ならば」

「ああ」

隆房は頷いた。

「だから急ぐ」

その声には、もう迷いがなかった。

「江良」

「は」

「阿蘇へ行く必要はない」

「承りました」

「支度を急げ」

「はっ」

「義隆様の手は、悪くはなかった」

房栄が顔を上げる。

隆房の声は冷えていた。

だが、そこにはほんのわずかに、主君への惜しみのようなものもあった。

「悪くはなかったのだ」

隆房は、もう一度言った。

「ただ、遅すぎた」

その日の夜、山口のいくつかの屋敷で、静かな使いが動いた。

兵を集める声ではない。

旗を掲げる動きでもない。

ただ、文が動いた。

人が動いた。

耳のよい者が呼ばれた。

迷っていた者へ、短い言葉が届いた。

博多の荷は止めぬ。

寺社は焼かぬ。

大内の名は残す。

珠光姫には触れぬ。

そして、山口は山口で収める。

その言葉は、刀よりも静かに広がった。

陶隆房は、まだ兵を挙げてはいない。

だが、火はもう移っていた。

義隆は阿蘇を使おうとした。

阿蘇の影で、山口をもう一度縛ろうとした。

手は悪くなかった。

しかし、山口はすでに、その影を待てるほど静かではなかった。

阿蘇惟種が陶隆房へ向けて送った友和の文。

それは、山口の火を鎮めるためのものだった。

だが、その文は今、史実よりも早すぎる結果を生み出そうとしていた。