作品タイトル不明
第百六十話 迎える者の責
天文二十年(一五五一年)三月。
阿蘇の館には、春の気配が差し始めていた。
山の風はまだ冷たい。
けれど、庭の端には小さな芽が出ている。
冬が終わることを、土だけは先に知っているようだった。
珠光姫が阿蘇に残ってから、数日が過ぎていた。
大内義隆は、すでに山口へ戻っている。
逃げたのではない。
残ったのでもない。
大内の血を阿蘇へ預け、自らは大内の当主として山口へ戻った。
その事実は、阿蘇の館の奥にも重く残っている。
珠光姫は、まだ正式に阿蘇の内に入ったわけではない。
婚姻の儀は、これからである。
その前に、どうしても済ませておかねばならぬことがあった。
加世との対面である。
◇
部屋は、広すぎぬ一間が選ばれた。
広間ではない。
客を見せる場でもない。
家の内に人を迎えるための部屋である。
上座に加世が座っていた。
島津の姫。
阿蘇の正室。
祝言の時とは違い、装いは控えめである。
だが、座り方ひとつに、すでに阿蘇の内を預かる者の落ち着きがあった。
その少し横に惟種がいる。
そして、珠光姫は正面に座した。
珠光姫は、大内の姫として礼を失っていなかった。
若い。
だが、背筋は伸びている。
顔には緊張があった。
当然である。
ここは山口ではない。
大内の館でもない。
これから自分が入ることになる、阿蘇の内である。
加世が、静かに口を開いた。
「珠光殿」
「はい」
「阿蘇へ、ようお越しくださいました」
珠光姫は、深く頭を下げた。
「加世様におかれましては、突然のことにて、まことに恐れ入ります」
「突然ではあります」
加世は、正直に言った。
惟種が、わずかに身を固くする。
加世は、一度だけ息を置いた。
「私も、驚かなかったと言えば嘘になります」
珠光姫の指先が、膝の上でかすかに動いた。
「けれど、軽くは受けておりませぬ」
加世の声は穏やかだった。
「大内の姫君を迎えるということが、どれほど重いかは、私も承知しております」
珠光姫は、もう一度頭を下げた。
「ありがたく存じます」
加世は、珠光姫をじっと見た。
哀れむ目ではない。
値踏みする目でもない。
正室として、新しく阿蘇の内に入る者を見る目だった。
「先に、申し上げておきます」
「はい」
「阿蘇の正室は、私です」
その言葉は、静かだった。
だが、部屋の中にまっすぐ立った。
珠光姫は、顔を伏せなかった。
「承知しております」
「阿蘇の嫡流の筋も、そこは乱しませぬ」
「はい」
「けれど、あなたを軽んじるつもりもございません」
加世の声が、少し柔らかくなる。
「大内の血を預かる方として、阿蘇の内で遇します。あなたを粗略にする者があれば、それは私が許しませぬ」
珠光姫の目が、ほんの少し揺れた。
睨まれると思っていたのか。
哀れまれると思っていたのか。
だが、加世はそのどちらもしなかった。
ただ、線を引いた。
そして、その線の内側に居場所を置いた。
「ありがとうございます」
珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。
◇
惟種は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
加世は強い。
そう思った。
島津の姫としてではない。
阿蘇の正室として、強い。
惟種は、珠光姫を見た。
大内の姫。
義隆の娘。
大内の血。
そして、もうすぐ父を失うかもしれぬ娘。
惟種は知っている。
山口で何が起こるかを。
大寧寺の名を。
陶隆房が、やがて何をするかを。
知っていながら、動かないと決めた。
義隆からも、阿蘇の兵を軽々しく入れるなと言われた。
珠光姫にも、父を助けられぬと告げた。
それでも、目の前に座る姫を見ると、その決断が急に重くなる。
自分は、この姫を迎える。
だが、その裏で、姫の父を救わない。
そう思った瞬間、惟種の目がわずかに逸れた。
珠光姫は気づかなかったかもしれない。
だが、加世は気づいた。
「惟種様」
加世が静かに呼んだ。
「何だ」
「お顔がよろしくありませぬ」
惟種は、一瞬返答に詰まった。
「少し、考え事をしていただけだ」
「今は、考え事をなさる場ではございませぬ」
加世の声は穏やかだった。
だが、芯は硬かった。
珠光姫が、わずかに目を伏せる。
惟種は、加世を見た。
「加世」
「何をお考えかは、私には分かりませぬ」
加世は、はっきりと言った。
「分かりませぬし、今ここで聞くつもりもございません」
惟種は黙った。
「ですが、そのお顔で珠光殿を迎えるのは、阿蘇の当主として違います」
部屋が、しんと静まった。
正室が夫を諫めている。
しかも、新しく入る姫の前である。
だが、それは夫婦の言い争いではなかった。
加世は、阿蘇の正室として言っていた。
「お迎えすると決めたのでしょう」
「ああ」
「大内の血を預かると決めたのでしょう」
「ああ」
「ならば、迷いは胸の奥に置いてくださいませ」
惟種の目が、少し揺れた。
「迷い、か」
「はい」
加世は言った。
「当主ならば、決めたことから目を逸らしてはなりませぬ」
その言葉は、静かに刺さった。
「迷いがあるなら、後で私が聞きます。怒りがあるなら、後で私が受けます。苦しみがあるなら、後で私にお話しください」
加世は、珠光姫へ一度目を向けた。
そして、また惟種を見た。
「ですが、今は珠光殿を迎える場にございます」
惟種は、何も返せなかった。
「阿蘇の当主として、珠光殿の前に座ってくださいませ」
その声は厳しかった。
けれど、冷たくはなかった。
惟種は、小さく息を吐いた。
「……そうだな」
加世の眉が、わずかに動く。
「そうだな、ではございませぬ」
惟種は、少しだけ目を丸くした。
珠光姫も、思わず顔を上げる。
「当主ならば、そこは『分かった』でございます」
惟種は、完全に押された。
しばらくして、低く言う。
「……分かった」
「はい」
加世は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。
「それでよろしゅうございます」
◇
惟種は、改めて珠光姫へ向き直った。
胸にあった冷たいものは、消えたわけではない。
消えるはずもない。
だが、それを珠光姫へ向けることは違う。
珠光姫に背負わせることではない。
これは、惟種が胸の奥で抱えるべきものだ。
「珠光姫」
「はい」
「すまなかった」
珠光姫は、少し驚いたように瞬きをした。
「今のわしは、迎える者の顔をしていなかった」
加世は黙って聞いていた。
「阿蘇は、そなたを粗略には扱わぬ」
惟種の声は、先ほどより落ち着いていた。
「大内の血を軽く見ることもない。義隆殿から託されたものを、阿蘇は違えぬ」
珠光姫は、まっすぐ惟種を見た。
「ただし」
惟種は続ける。
「加世が言った通り、阿蘇の正室は加世だ。阿蘇の嫡流の筋も乱さぬ」
「承知しております」
「そのうえで、そなたを阿蘇の内へ迎える」
珠光姫の目が、ほんの少し潤んだ。
だが、涙は落ちなかった。
彼女もまた、泣くためにここへ来たのではない。
「私は」
珠光姫は、ゆっくりと言った。
「阿蘇の嫡を望みに参ったのではございません」
「分かっている」
「大内の名を、忘れぬために参りました」
惟種は頷いた。
「ならば、忘れるな」
珠光姫の目が揺れる。
「阿蘇に入っても、大内を忘れるな。そなたが大内を忘れれば、義隆殿がそなたを阿蘇へ託した意味が消える」
珠光姫は、深く息を吸った。
「はい」
「だが、阿蘇の内に入る以上、阿蘇の人でもある」
惟種は、少しだけ言葉を選んだ。
「大内を忘れるな。だが、阿蘇を拒むな」
珠光姫は、しばらく黙っていた。
その言葉は簡単ではない。
大内の姫として来た。
阿蘇の側室となる。
父は山口へ戻った。
自分は阿蘇へ残る。
その身の置き場は、まだ定まっていない。
けれど、惟種は初めて、珠光姫へ逃げ場のない言葉を渡した。
大内を忘れるな。
阿蘇を拒むな。
その二つを抱えろ、と。
珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
◇
加世が、静かに口を開いた。
「珠光殿」
「はい」
「阿蘇の内は、山口とは違うでしょう」
「はい」
「戸惑うことも多いと思います」
「はい」
「分からぬことは、私に聞いてください」
珠光姫が顔を上げる。
「大内の姫として守らねばならぬものもありましょう。阿蘇の内で覚えねばならぬこともありましょう。その二つがぶつかる時は、私に言ってください」
「よろしいのですか」
「もちろんです」
加世は、少しだけ微笑んだ。
「私は、阿蘇の正室ですから」
その言葉は、誇りであり、責任でもあった。
「珠光殿を迎えるなら、あなたの居場所を整えるのも私の役目です」
珠光姫の唇が、わずかに震えた。
「私は、加世様にご迷惑を」
「迷惑ではありません」
加世は即座に言った。
「ただし」
珠光姫の背が伸びる。
「遠慮ばかりされると困ります」
「遠慮、でございますか」
「はい」
加世は真面目に頷いた。
「遠慮ばかりする方は、何を望んでいるのか分かりませぬ。分からなければ、こちらも困ります」
惟種が、少しだけ口元を動かした。
加世はそれに気づき、横目で見る。
「惟種様」
「何だ」
「笑うところではございません」
「笑っていない」
「少し笑いました」
「……すまぬ」
珠光姫は、そのやり取りを見て、初めて少しだけ表情を緩めた。
阿蘇の内にも、人の息がある。
政だけではない。
血だけではない。
家の重さだけでもない。
そのことが、ほんの少しだけ見えたのかもしれない。
◇
加世は、用意していた小さな箱を前へ出した。
「これは、阿蘇の内で使うものです」
珠光姫が、不思議そうに見る。
箱の中には、香袋と小さな櫛が入っていた。
豪華ではない。
だが、品よく整えられている。
「大内の姫君に差し上げるには、ささやかすぎるかもしれません」
「いいえ」
珠光姫は、首を横に振った。
「ありがたく存じます」
「これは、あなたを哀れむためのものではありません」
加世は言った。
「阿蘇の内に迎える印です」
珠光姫の目が、少し揺れた。
「迎える、印」
「はい」
加世は、まっすぐ珠光姫を見る。
「珠光殿。あなたは、大内の血として阿蘇に来ました。ですが、ただ預けられた荷ではありません」
その言葉に、惟種の胸が痛んだ。
荷。
自分は、どこかで珠光姫をそう扱いかけていたのではないか。
大内の血。
将来の旗。
中国筋への口。
そういう言葉の中で、この少女自身を見ることを後回しにしていたのではないか。
「あなたは、人です」
加世は静かに言った。
「阿蘇の内に入る方です。そこを、私も惟種様も違えてはなりませぬ」
惟種は、何も言えなかった。
珠光姫は、両手で箱を受け取った。
その手は、少し震えていた。
「加世様」
「はい」
「ありがとうございます」
珠光姫は、深く頭を下げた。
「私は、大内の名を汚さぬよう、阿蘇にて生きます」
加世は頷いた。
「それでよろしゅうございます」
惟種も、静かに頷いた。
◇
珠光姫は、改めて姿勢を正した。
「加世様」
「はい」
「惟種様」
「ああ」
珠光姫は、二人を順に見た。
先ほどまでより、少しだけ目が定まっている。
「私は、山口を離れました」
その声は小さかった。
だが、部屋の中によく通った。
「父上は、山口へ戻られました。私には、父上をお止めすることはできませんでした」
惟種は、胸の奥が重くなるのを感じた。
「ですが、父上は大内の名を私に預けると申されました」
珠光姫は続けた。
「ならば、私は阿蘇で泣いてばかりいるわけには参りません」
加世は黙って聞いている。
「大内の名を忘れず、阿蘇の内で生きます」
珠光姫は、深く頭を下げた。
「どうか、よしなにお導きくださいませ」
加世は、静かに頷いた。
「こちらこそ」
惟種もまた、頭を下げた。
「阿蘇は、そなたを迎える」
その言葉を、今度は迷わず言えた。
珠光姫は、もう一度深く頭を下げた。
◇
面会が終わった後、珠光姫は女房に伴われて下がった。
部屋には、惟種と加世だけが残る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
やがて、惟種が小さく息を吐いた。
「加世」
「はい」
「助かった」
「そう思うなら、次からは最初からしっかりしてくださいませ」
惟種は言葉に詰まった。
「……手厳しいな」
「手厳しくもなります」
加世は静かに言った。
「珠光殿は、不安の中でここへ来られました。大内の姫としての誇りも、父君への思いも、これからの阿蘇での立場も、すべて抱えておられます」
「ああ」
「そこへ、惟種様が迷ったお顔をなされば、姫君はどこへ立てばよいのか分からなくなります」
「……そうだな」
「はい」
加世は、少しだけ表情を和らげた。
「迷いがあるのでしょう」
惟種は答えなかった。
加世は、それ以上聞かなかった。
「今は聞きませぬ」
「よいのか」
「惟種様が話すべき時と思えば、話してくださるでしょう」
惟種は、加世を見た。
加世の目は、まっすぐだった。
「信じているのか」
「はい」
「わしは、時々ひどいことを考えるぞ」
「知っております」
「知っているのか」
「はい」
加世は、少しだけ微笑んだ。
「けれど、惟種様は、ひどいことを考えたまま、人をただの道具にする方ではありません」
惟種は、何も言えなかった。
「だから、今日のように迷うのでしょう」
その言葉は、慰めではなかった。
ただ、見ている者の言葉だった。
惟種は、目を伏せた。
「加世には、かなわぬな」
「正室ですから」
「そうか」
「はい」
加世は、静かに言った。
「阿蘇の内は、私も支えます」
惟種は、ゆっくり頷いた。
「ああ。頼む」
その声には、先ほどよりも少しだけ力が戻っていた。
◇
珠光姫のための部屋には、その日のうちに香が移された。
大内から持ってきた文箱。
阿蘇が用意した調度。
加世から贈られた香袋と櫛。
それらが、一つの部屋に並べられた。
山口と阿蘇。
まだ混ざりきらぬ二つのものが、同じ部屋に置かれている。
山口の火は、まだ上がっていない。
だが、近い。
その火が上がる前に、阿蘇は珠光姫を迎える形を整えねばならない。
珠光。
大内の血。
そして、阿蘇の内に新しく置かれた一つの部屋。
それはまだ小さい。
けれど、その部屋はやがて、山口の火を受ける場所になる。