軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百六十話 迎える者の責

天文二十年(一五五一年)三月。

阿蘇の館には、春の気配が差し始めていた。

山の風はまだ冷たい。

けれど、庭の端には小さな芽が出ている。

冬が終わることを、土だけは先に知っているようだった。

珠光姫が阿蘇に残ってから、数日が過ぎていた。

大内義隆は、すでに山口へ戻っている。

逃げたのではない。

残ったのでもない。

大内の血を阿蘇へ預け、自らは大内の当主として山口へ戻った。

その事実は、阿蘇の館の奥にも重く残っている。

珠光姫は、まだ正式に阿蘇の内に入ったわけではない。

婚姻の儀は、これからである。

その前に、どうしても済ませておかねばならぬことがあった。

加世との対面である。

部屋は、広すぎぬ一間が選ばれた。

広間ではない。

客を見せる場でもない。

家の内に人を迎えるための部屋である。

上座に加世が座っていた。

島津の姫。

阿蘇の正室。

祝言の時とは違い、装いは控えめである。

だが、座り方ひとつに、すでに阿蘇の内を預かる者の落ち着きがあった。

その少し横に惟種がいる。

そして、珠光姫は正面に座した。

珠光姫は、大内の姫として礼を失っていなかった。

若い。

だが、背筋は伸びている。

顔には緊張があった。

当然である。

ここは山口ではない。

大内の館でもない。

これから自分が入ることになる、阿蘇の内である。

加世が、静かに口を開いた。

「珠光殿」

「はい」

「阿蘇へ、ようお越しくださいました」

珠光姫は、深く頭を下げた。

「加世様におかれましては、突然のことにて、まことに恐れ入ります」

「突然ではあります」

加世は、正直に言った。

惟種が、わずかに身を固くする。

加世は、一度だけ息を置いた。

「私も、驚かなかったと言えば嘘になります」

珠光姫の指先が、膝の上でかすかに動いた。

「けれど、軽くは受けておりませぬ」

加世の声は穏やかだった。

「大内の姫君を迎えるということが、どれほど重いかは、私も承知しております」

珠光姫は、もう一度頭を下げた。

「ありがたく存じます」

加世は、珠光姫をじっと見た。

哀れむ目ではない。

値踏みする目でもない。

正室として、新しく阿蘇の内に入る者を見る目だった。

「先に、申し上げておきます」

「はい」

「阿蘇の正室は、私です」

その言葉は、静かだった。

だが、部屋の中にまっすぐ立った。

珠光姫は、顔を伏せなかった。

「承知しております」

「阿蘇の嫡流の筋も、そこは乱しませぬ」

「はい」

「けれど、あなたを軽んじるつもりもございません」

加世の声が、少し柔らかくなる。

「大内の血を預かる方として、阿蘇の内で遇します。あなたを粗略にする者があれば、それは私が許しませぬ」

珠光姫の目が、ほんの少し揺れた。

睨まれると思っていたのか。

哀れまれると思っていたのか。

だが、加世はそのどちらもしなかった。

ただ、線を引いた。

そして、その線の内側に居場所を置いた。

「ありがとうございます」

珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。

惟種は、二人のやり取りを黙って聞いていた。

加世は強い。

そう思った。

島津の姫としてではない。

阿蘇の正室として、強い。

惟種は、珠光姫を見た。

大内の姫。

義隆の娘。

大内の血。

そして、もうすぐ父を失うかもしれぬ娘。

惟種は知っている。

山口で何が起こるかを。

大寧寺の名を。

陶隆房が、やがて何をするかを。

知っていながら、動かないと決めた。

義隆からも、阿蘇の兵を軽々しく入れるなと言われた。

珠光姫にも、父を助けられぬと告げた。

それでも、目の前に座る姫を見ると、その決断が急に重くなる。

自分は、この姫を迎える。

だが、その裏で、姫の父を救わない。

そう思った瞬間、惟種の目がわずかに逸れた。

珠光姫は気づかなかったかもしれない。

だが、加世は気づいた。

「惟種様」

加世が静かに呼んだ。

「何だ」

「お顔がよろしくありませぬ」

惟種は、一瞬返答に詰まった。

「少し、考え事をしていただけだ」

「今は、考え事をなさる場ではございませぬ」

加世の声は穏やかだった。

だが、芯は硬かった。

珠光姫が、わずかに目を伏せる。

惟種は、加世を見た。

「加世」

「何をお考えかは、私には分かりませぬ」

加世は、はっきりと言った。

「分かりませぬし、今ここで聞くつもりもございません」

惟種は黙った。

「ですが、そのお顔で珠光殿を迎えるのは、阿蘇の当主として違います」

部屋が、しんと静まった。

正室が夫を諫めている。

しかも、新しく入る姫の前である。

だが、それは夫婦の言い争いではなかった。

加世は、阿蘇の正室として言っていた。

「お迎えすると決めたのでしょう」

「ああ」

「大内の血を預かると決めたのでしょう」

「ああ」

「ならば、迷いは胸の奥に置いてくださいませ」

惟種の目が、少し揺れた。

「迷い、か」

「はい」

加世は言った。

「当主ならば、決めたことから目を逸らしてはなりませぬ」

その言葉は、静かに刺さった。

「迷いがあるなら、後で私が聞きます。怒りがあるなら、後で私が受けます。苦しみがあるなら、後で私にお話しください」

加世は、珠光姫へ一度目を向けた。

そして、また惟種を見た。

「ですが、今は珠光殿を迎える場にございます」

惟種は、何も返せなかった。

「阿蘇の当主として、珠光殿の前に座ってくださいませ」

その声は厳しかった。

けれど、冷たくはなかった。

惟種は、小さく息を吐いた。

「……そうだな」

加世の眉が、わずかに動く。

「そうだな、ではございませぬ」

惟種は、少しだけ目を丸くした。

珠光姫も、思わず顔を上げる。

「当主ならば、そこは『分かった』でございます」

惟種は、完全に押された。

しばらくして、低く言う。

「……分かった」

「はい」

加世は、そこで初めて少しだけ表情を緩めた。

「それでよろしゅうございます」

惟種は、改めて珠光姫へ向き直った。

胸にあった冷たいものは、消えたわけではない。

消えるはずもない。

だが、それを珠光姫へ向けることは違う。

珠光姫に背負わせることではない。

これは、惟種が胸の奥で抱えるべきものだ。

「珠光姫」

「はい」

「すまなかった」

珠光姫は、少し驚いたように瞬きをした。

「今のわしは、迎える者の顔をしていなかった」

加世は黙って聞いていた。

「阿蘇は、そなたを粗略には扱わぬ」

惟種の声は、先ほどより落ち着いていた。

「大内の血を軽く見ることもない。義隆殿から託されたものを、阿蘇は違えぬ」

珠光姫は、まっすぐ惟種を見た。

「ただし」

惟種は続ける。

「加世が言った通り、阿蘇の正室は加世だ。阿蘇の嫡流の筋も乱さぬ」

「承知しております」

「そのうえで、そなたを阿蘇の内へ迎える」

珠光姫の目が、ほんの少し潤んだ。

だが、涙は落ちなかった。

彼女もまた、泣くためにここへ来たのではない。

「私は」

珠光姫は、ゆっくりと言った。

「阿蘇の嫡を望みに参ったのではございません」

「分かっている」

「大内の名を、忘れぬために参りました」

惟種は頷いた。

「ならば、忘れるな」

珠光姫の目が揺れる。

「阿蘇に入っても、大内を忘れるな。そなたが大内を忘れれば、義隆殿がそなたを阿蘇へ託した意味が消える」

珠光姫は、深く息を吸った。

「はい」

「だが、阿蘇の内に入る以上、阿蘇の人でもある」

惟種は、少しだけ言葉を選んだ。

「大内を忘れるな。だが、阿蘇を拒むな」

珠光姫は、しばらく黙っていた。

その言葉は簡単ではない。

大内の姫として来た。

阿蘇の側室となる。

父は山口へ戻った。

自分は阿蘇へ残る。

その身の置き場は、まだ定まっていない。

けれど、惟種は初めて、珠光姫へ逃げ場のない言葉を渡した。

大内を忘れるな。

阿蘇を拒むな。

その二つを抱えろ、と。

珠光姫は、ゆっくりと頭を下げた。

「承知いたしました」

加世が、静かに口を開いた。

「珠光殿」

「はい」

「阿蘇の内は、山口とは違うでしょう」

「はい」

「戸惑うことも多いと思います」

「はい」

「分からぬことは、私に聞いてください」

珠光姫が顔を上げる。

「大内の姫として守らねばならぬものもありましょう。阿蘇の内で覚えねばならぬこともありましょう。その二つがぶつかる時は、私に言ってください」

「よろしいのですか」

「もちろんです」

加世は、少しだけ微笑んだ。

「私は、阿蘇の正室ですから」

その言葉は、誇りであり、責任でもあった。

「珠光殿を迎えるなら、あなたの居場所を整えるのも私の役目です」

珠光姫の唇が、わずかに震えた。

「私は、加世様にご迷惑を」

「迷惑ではありません」

加世は即座に言った。

「ただし」

珠光姫の背が伸びる。

「遠慮ばかりされると困ります」

「遠慮、でございますか」

「はい」

加世は真面目に頷いた。

「遠慮ばかりする方は、何を望んでいるのか分かりませぬ。分からなければ、こちらも困ります」

惟種が、少しだけ口元を動かした。

加世はそれに気づき、横目で見る。

「惟種様」

「何だ」

「笑うところではございません」

「笑っていない」

「少し笑いました」

「……すまぬ」

珠光姫は、そのやり取りを見て、初めて少しだけ表情を緩めた。

阿蘇の内にも、人の息がある。

政だけではない。

血だけではない。

家の重さだけでもない。

そのことが、ほんの少しだけ見えたのかもしれない。

加世は、用意していた小さな箱を前へ出した。

「これは、阿蘇の内で使うものです」

珠光姫が、不思議そうに見る。

箱の中には、香袋と小さな櫛が入っていた。

豪華ではない。

だが、品よく整えられている。

「大内の姫君に差し上げるには、ささやかすぎるかもしれません」

「いいえ」

珠光姫は、首を横に振った。

「ありがたく存じます」

「これは、あなたを哀れむためのものではありません」

加世は言った。

「阿蘇の内に迎える印です」

珠光姫の目が、少し揺れた。

「迎える、印」

「はい」

加世は、まっすぐ珠光姫を見る。

「珠光殿。あなたは、大内の血として阿蘇に来ました。ですが、ただ預けられた荷ではありません」

その言葉に、惟種の胸が痛んだ。

荷。

自分は、どこかで珠光姫をそう扱いかけていたのではないか。

大内の血。

将来の旗。

中国筋への口。

そういう言葉の中で、この少女自身を見ることを後回しにしていたのではないか。

「あなたは、人です」

加世は静かに言った。

「阿蘇の内に入る方です。そこを、私も惟種様も違えてはなりませぬ」

惟種は、何も言えなかった。

珠光姫は、両手で箱を受け取った。

その手は、少し震えていた。

「加世様」

「はい」

「ありがとうございます」

珠光姫は、深く頭を下げた。

「私は、大内の名を汚さぬよう、阿蘇にて生きます」

加世は頷いた。

「それでよろしゅうございます」

惟種も、静かに頷いた。

珠光姫は、改めて姿勢を正した。

「加世様」

「はい」

「惟種様」

「ああ」

珠光姫は、二人を順に見た。

先ほどまでより、少しだけ目が定まっている。

「私は、山口を離れました」

その声は小さかった。

だが、部屋の中によく通った。

「父上は、山口へ戻られました。私には、父上をお止めすることはできませんでした」

惟種は、胸の奥が重くなるのを感じた。

「ですが、父上は大内の名を私に預けると申されました」

珠光姫は続けた。

「ならば、私は阿蘇で泣いてばかりいるわけには参りません」

加世は黙って聞いている。

「大内の名を忘れず、阿蘇の内で生きます」

珠光姫は、深く頭を下げた。

「どうか、よしなにお導きくださいませ」

加世は、静かに頷いた。

「こちらこそ」

惟種もまた、頭を下げた。

「阿蘇は、そなたを迎える」

その言葉を、今度は迷わず言えた。

珠光姫は、もう一度深く頭を下げた。

面会が終わった後、珠光姫は女房に伴われて下がった。

部屋には、惟種と加世だけが残る。

しばらく、二人とも何も言わなかった。

やがて、惟種が小さく息を吐いた。

「加世」

「はい」

「助かった」

「そう思うなら、次からは最初からしっかりしてくださいませ」

惟種は言葉に詰まった。

「……手厳しいな」

「手厳しくもなります」

加世は静かに言った。

「珠光殿は、不安の中でここへ来られました。大内の姫としての誇りも、父君への思いも、これからの阿蘇での立場も、すべて抱えておられます」

「ああ」

「そこへ、惟種様が迷ったお顔をなされば、姫君はどこへ立てばよいのか分からなくなります」

「……そうだな」

「はい」

加世は、少しだけ表情を和らげた。

「迷いがあるのでしょう」

惟種は答えなかった。

加世は、それ以上聞かなかった。

「今は聞きませぬ」

「よいのか」

「惟種様が話すべき時と思えば、話してくださるでしょう」

惟種は、加世を見た。

加世の目は、まっすぐだった。

「信じているのか」

「はい」

「わしは、時々ひどいことを考えるぞ」

「知っております」

「知っているのか」

「はい」

加世は、少しだけ微笑んだ。

「けれど、惟種様は、ひどいことを考えたまま、人をただの道具にする方ではありません」

惟種は、何も言えなかった。

「だから、今日のように迷うのでしょう」

その言葉は、慰めではなかった。

ただ、見ている者の言葉だった。

惟種は、目を伏せた。

「加世には、かなわぬな」

「正室ですから」

「そうか」

「はい」

加世は、静かに言った。

「阿蘇の内は、私も支えます」

惟種は、ゆっくり頷いた。

「ああ。頼む」

その声には、先ほどよりも少しだけ力が戻っていた。

珠光姫のための部屋には、その日のうちに香が移された。

大内から持ってきた文箱。

阿蘇が用意した調度。

加世から贈られた香袋と櫛。

それらが、一つの部屋に並べられた。

山口と阿蘇。

まだ混ざりきらぬ二つのものが、同じ部屋に置かれている。

山口の火は、まだ上がっていない。

だが、近い。

その火が上がる前に、阿蘇は珠光姫を迎える形を整えねばならない。

珠光。

大内の血。

そして、阿蘇の内に新しく置かれた一つの部屋。

それはまだ小さい。

けれど、その部屋はやがて、山口の火を受ける場所になる。