作品タイトル不明
第百五十八話 預ける血
天文二十年(一五五一年)二月。
阿蘇の山には、まだ冬の名残があった。
雪は深くない。
だが朝夕の空気は冷え、山より下りる風は肌を刺す。
その日、阿蘇の館に大内義隆が入った。
周防、長門を中心に、西国に大きな名を持つ大内家の当主である。
大仰な宴はない。
太鼓も鳴らさぬ。
広間も使わぬ。
だが、粗略にしたわけではなかった。
門には阿蘇の重臣が立ち、客間には最上の座が整えられていた。
炭はよく熾り、香も控えめに焚かれている。
膳も、茶も、器も、大内家の格に合わせてあった。
ただ、人目だけを避けた。
この会談は、天下に見せるためのものではない。
見せれば、山口が揺れる。
山口が揺れれば、まだ形にならぬものまで壊れる。
ゆえに、その一間に入ったのは五人だけであった。
阿蘇惟豊。
阿蘇惟種。
甲斐宗運。
大内義隆。
そして、その娘、珠光姫。
◇
義隆は、静かに座していた。
疲れはある。
だが、崩れてはいない。
細くなったようにも見える。
けれどそれは弱さではなく、余分なものを削り落とした者の顔だった。
山口が揺れていることを、この男は知っている。
陶隆房が何を見ているかも、薄々分かっている。
文の者と武の者が、同じ大内の屋根の下で違う空を見ていることも知っている。
それでも義隆は、大内の当主として座っていた。
惟豊は、その姿を正面から受けた。
「義隆殿」
「惟豊殿」
「よくぞ、阿蘇までお越しくだされた」
義隆は深くは頭を下げなかった。
礼を失わぬ程度に、静かに一礼する。
「内々の話に座を設けていただき、かたじけない」
「義隆殿が直々に運ばれた話である。軽く扱えるものではございません」
惟豊の声は低かった。
「飾りの言葉は要りませぬ。御腹を聞かせていただきたい」
義隆は頷いた。
「では、申し上げる」
その声に、ためらいはなかった。
「此度、珠光を阿蘇へ預けたいと願ったのは、大内の血を後へ残すためにございます」
珠光姫の肩が、ほんのわずかに動いた。
惟種は、その動きを見逃さなかった。
だが、口は挟まない。
「山口には、不穏がある」
部屋の空気が、少し冷えた。
誰も名を出さなかった。
文の者。
武の者。
寺社。
商人。
博多の荷。
毛利の目。
名を出さずとも、この場の者はそれぞれを思い浮かべていた。
「されど」
義隆は静かに言った。
「大内はまだ折れておりませぬ。わしもまた、大内の当主であることを捨ててはおらぬ」
その一言で、場の重さが変わった。
これは命乞いではない。
逃げ道を求める話でもない。
大内の当主が、大内の名を残すために、阿蘇を選んだのである。
「ゆえに、阿蘇へ願うのは、わしの命ではございませぬ」
義隆は珠光姫へ目を向けた。
「この子を、大内の血として預かっていただきたい」
珠光姫は顔を伏せなかった。
「珠光は、ただの娘ではございませぬ。山口がいかに乱れようと、大内の名を後へ繋ぐための血にございます」
惟種は黙って聞いていた。
大内の血。
大内の名。
山口が割れた時の旗。
すべて、惟種自身が考えていたことである。
だが、義隆本人の口から聞くと重さが違った。
これは阿蘇が勝手に拾う旗ではない。
義隆が自ら差し出す、大内の名であった。
◇
惟豊が、ゆっくりと口を開いた。
「阿蘇には、惟種にはすでに正室がおります」
「承知しております」
義隆の返事は早かった。
「島津の姫君にございますな」
「そうです」
惟豊は、珠光姫を見た。
「珠光姫を、正室として迎えることはできませぬ」
言葉は静かだった。
だが、軽くはない。
大内の姫である。
本来ならば、どの家に入っても軽く扱ってよい血ではない。
しかし、阿蘇には加世がいる。
島津との盟がある。
阿蘇の嫡流の筋もある。
そこを曖昧にすれば、後で必ず家の内が割れる。
「正室にせよとは申しませぬ」
義隆は言った。
「阿蘇の筋を乱せとも申しませぬ。大内の血を入れるために阿蘇の内を割っては、預ける意味がございませぬ」
そこで、義隆の声が少しだけ重くなった。
「ただし」
惟豊の目が、わずかに細くなる。
「珠光を粗略に扱うことは、大内を粗略に扱うことと同じにございます」
部屋の空気が止まった。
それは願いではなかった。
条件だった。
義隆は、頭を下げに来たのではない。
大内の血を預けるに足るかを、阿蘇に問うている。
「正室にせよとは申しませぬ。されど、大内の血として遇していただきたい。その一点だけは、譲れませぬ」
惟豊は、しばらく義隆を見ていた。
やがて、静かに頷く。
「よい」
短い一言だった。
「珠光姫を粗略には扱いませぬ。阿蘇の家中にも、そのように」
義隆は、そこで初めてわずかに息を吐いた。
「ありがたく」
惟豊は、惟種へ目を向けた。
「以後の細目は、惟種より申し上げさせる。これは阿蘇の総意となります」
義隆の目が、若い十一の男へ移る。
「惟種殿が、阿蘇の実を預かっておられると聞く」
惟種は深く頭を下げた。
「父の後見を受け、実務を預かっております。若輩の身ながら、阿蘇として申し上げます」
「聞こう」
惟種は、珠光姫へ向き直った。
「珠光姫」
「はい」
「阿蘇の正室は加世です。そこは変えられませぬ。珠光姫を粗略に扱うつもりはございませぬが、阿蘇の嫡流は正室の腹より生まれる子にございます」
珠光姫は、静かに頷いた。
「承知しております」
「それでも、よいのですか」
惟種は、義隆ではなく珠光姫へ問うた。
珠光姫は、すぐには答えなかった。
幼いわけではない。
だが、まだ若い。
そして、この場で問われているのは、ただの婚姻ではない。
自分の身。
父の名。
大内の血。
阿蘇の都合。
山口の火。
それらすべてを背負って答えねばならぬ。
珠光姫は、ゆっくりと息を吸った。
「私は、阿蘇の嫡を望んで参るのではございません」
声は小さい。
だが、折れてはいなかった。
「大内の名を残すために参ります」
宗運の目が、わずかに動いた。
「もし、山口に大内の名を立てる者がなくなった時は」
一度、言葉が止まる。
それでも、姫は逃げなかった。
「私の腹より生まれた子に、大内の名を継がせる道を、残していただきとうございます」
部屋は静まり返った。
義隆は目を伏せた。
それは、父が娘に言わせた言葉ではないように見えた。
少なくとも、珠光姫自身の覚悟がなければ出ぬ声だった。
惟種は、すぐには答えられなかった。
約束は重い。
軽く頷けば、加世への誓いを傷つける。
拒めば、大内の血を預かる意味が薄れる。
しばらくして、惟種は言った。
「約束はできませぬ」
珠光姫の指先が、膝の上で少しだけ固くなった。
「されど、その道を捨てぬことは誓います」
珠光姫が顔を上げる。
「大内の名を継ぐべき時が来たなら、その時に最も筋の通る形を探します。阿蘇の都合だけで、大内の名を潰すことはいたしませぬ」
それは甘い答えではなかった。
曖昧でもあった。
だが、嘘ではなかった。
珠光姫は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
◇
惟種は、改めて義隆へ向き直った。
「義隆殿」
「申されよ」
「珠光姫を迎えるにあたり、阿蘇からも申し上げねばならぬことがございます」
「承ろう」
惟種は、言葉を一つずつ置いた。
「もし直近で山口に何かあっても、阿蘇は動けませぬ」
珠光姫の顔が、ほんの少し強ばった。
義隆は、動かなかった。
「九州はまだ固まりきっておりませぬ。山口へ大兵を出せば、筑前が揺れ、博多が止まり、豊後も肥前も浮きます。義を掲げて兵を出しても、その裏で九州の民が死ぬ」
宗運が、静かに続けた。
「短く見ても、五年は要りましょう」
五年。
その言葉が、部屋の中に重く落ちる。
惟種は義隆を見た。
「ゆえに、山口で近く何が起ころうとも、阿蘇は兵を出せませぬ」
義隆は、静かに頷いた。
「分かっておる」
惟種の目が、わずかに動いた。
「分かっておられる、と」
「だからこそ、わしは兵ではなく、血を預けに参った」
その一言は、重かった。
惟種が条件を突きつけたのではない。
義隆は、その条件を分かったうえで、ここへ来ている。
「もし山口が割れても、阿蘇の兵を軽々しく入れてはならぬ」
義隆は言った。
「それは、わしを見捨てよという意味ではございませぬ」
声が、少しだけ深くなる。
「大内を、大内の名のまま残してほしいという意味にございます」
珠光姫が、父を見た。
「阿蘇の兵に救われた大内は、もはや大内ではなく、阿蘇の庇護を受けた家となりましょう。それでは珠光を預ける意味がない」
義隆は、珠光姫へ目を向けた。
「この子に、大内の血を預ける。阿蘇には、その血を粗略にせず、後へ繋ぐ役を担っていただきたい」
そして、惟種を見た。
「わしの命より、その方が重い」
◇
惟種の胸の内に、冷たいものが沈んでいた。
大寧寺。
その名が、頭の奥に浮かぶ。
もうすぐ起こる。
自分は、それを知っている。
知っていながら、動かぬと言っている。
見捨てる。
言葉を飾っても、それは変わらない。
これから阿蘇へ迎える女の父を、救わないのだ。
だが、動けばどうなる。
山口へ兵を入れれば、九州が裂ける。
博多の荷が止まり、筑前も豊後も肥前も乱れる。
義隆を救っても、大内の名は阿蘇に踏まれた名になる。
ならば。
惟種は、膝の上で拳を握った。
ならば、義隆ではなく、義隆が残そうとするものを救うしかない。
「珠光姫」
惟種は、姫へ向き直った。
「はい」
「もし近く山口に何かが起こったとしても、わしは、そなたの父を助けることはできませぬ」
珠光姫の目が揺れた。
義隆は黙っていた。
惟豊も、宗運も、口を挟まない。
「それでも、阿蘇へ来られますか」
長い沈黙が落ちた。
珠光姫はすぐには答えなかった。
当然だった。
父を助けられない。
それを面と向かって言われている。
それでも阿蘇へ来るのかと問われている。
しばらくして、珠光姫は口を開いた。
「よい、とは申しませぬ」
声は、わずかに震えていた。
「父が危ういと知って、苦しくないはずがございません」
惟種は黙って聞いた。
「ですが、父上は大内の名を私に預けると申されました」
珠光姫は、義隆を見た。
義隆は何も言わない。
「ならば、私は泣いて山口へ戻りたいとは申しませぬ」
珠光姫は、再び惟種を見た。
「父を助けるためではなく、大内の血を残すために参ります」
その声には、涙が混じっていなかった。
「父を助けられぬことを、恨まぬとは申せませぬ」
惟種の胸に、その言葉が刺さった。
「ですが、それでも参ります」
珠光姫は、深く頭を下げた。
「大内の名を、どうか残してくださいませ」
◇
惟豊が、そこでようやく口を開いた。
「義隆殿の命を救うことだけが、義ではない」
声は低く、重かった。
「託されたものを守ることもまた、義だ」
惟種は、顔を上げなかった。
惟豊は続けた。
「阿蘇は珠光姫を預かりましょう。大内の血を粗略にはせぬ。大内の名を潰すためには使いませぬ」
義隆が、静かに頭を下げた。
「ありがたく」
「だが、阿蘇は今、九州を捨てて山口へ兵を出すことはできませぬ」
「承知しております」
「そのことを、義隆殿も、姫も、ここで聞いた」
「はい」
珠光姫も頭を下げた。
「聞きました」
惟豊は、小さく頷いた。
「ならば、話は定まりました」
◇
話が定まった後も、珠光姫はしばらく座ったままだった。
義隆が立とうとした時、姫が小さく声を出した。
「父上」
義隆は振り向いた。
「何だ」
「山口へ、お戻りになるのですね」
「戻る」
「ここに残ることは」
「できぬ」
短い答えだった。
珠光姫は唇を噛んだ。
それでも、泣かなかった。
「では、私は阿蘇にて大内の名を忘れませぬ」
義隆の顔が、少しだけ歪んだ。
だが、すぐに大内の当主の顔へ戻る。
「それでよい」
「父上も、どうか」
そこで言葉が止まった。
無事で、とは言えなかった。
戻ってきて、とは言えなかった。
言えば、父を困らせる。
それを、姫は分かっていた。
義隆は、珠光姫へ歩み寄らなかった。
近づけば、父になる。
父になれば、離れがたくなる。
だから、大内の当主として、その場に立ったまま言った。
「珠光」
「はい」
「生きよ」
それだけだった。
珠光姫は、深く頭を下げた。
「はい」
◇
やがて義隆は、阿蘇を発った。
大仰な見送りはない。
旗も少ない。
音もない。
ただし、礼は尽くされた。
阿蘇は大内を軽んじなかった。
大内もまた、阿蘇へ頭を垂れに来たのではない。
血を預けに来た。
そして、義隆は山口へ戻った。
逃げなかった。
阿蘇に残らなかった。
自分の死地かもしれぬ場所へ、大内の当主として戻った。
珠光姫は、阿蘇に残った。
大内の血が、阿蘇に残った。
惟種は、館の奥から義隆出立の報せを聞いた。
しばらく、何も言わなかった。
宗運がそばに控えている。
惟豊もまた、遠く庭を見ていた。
「若君」
宗運が静かに言った。
「これで、山口への線は引かれました」
「ああ」
「陶への文を整えます」
「分かっている」
惟種は、目を閉じた。
義隆を救うとは書けない。
陶を討つとも書けない。
ただ、越えてはならぬ線だけを置く。
珠光。
博多。
大内の名。
その三つを守るために、阿蘇は今、動かない。
それは、義か。
理か。
あるいは、ただの見捨てか。
答えは出なかった。
だが、やるべきことは決まっていた。
「宗運」
「は」
「陶への文、言葉を選べ」
「承知しております」
「優しすぎてもならぬ。脅しすぎてもならぬ」
「はい」
「阿蘇は山口へ兵を入れぬ。だが、見ている。そう読ませろ」
宗運は、深く頭を下げた。
「御意」
惟種は、外の冬空を見た。
山の風は冷たい。
だが、その冷たさよりも、胸の内の方が深く冷えていた。
もうすぐ、山口で火が上がる。
惟種はそれを知っている。
知っていながら、火を消しには行かない。
ただ、その火が大内の名まで焼き尽くさぬよう、遠くから線を引く。
それが、今の阿蘇にできるすべてだった。
義隆を救うことはできない。
だが、義隆が託したものは救う。
惟種は、静かに息を吐いた。
「珠光姫を、粗略にするな…」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
それは義隆への答えであり、珠光姫への誓いであり、自分自身への戒めでもあった。
阿蘇は、大内の血を預かった。
その瞬間から、山口の火は、もはや遠い火ではなくなっていた。