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作品タイトル不明

第百五十八話 預ける血

天文二十年(一五五一年)二月。

阿蘇の山には、まだ冬の名残があった。

雪は深くない。

だが朝夕の空気は冷え、山より下りる風は肌を刺す。

その日、阿蘇の館に大内義隆が入った。

周防、長門を中心に、西国に大きな名を持つ大内家の当主である。

大仰な宴はない。

太鼓も鳴らさぬ。

広間も使わぬ。

だが、粗略にしたわけではなかった。

門には阿蘇の重臣が立ち、客間には最上の座が整えられていた。

炭はよく熾り、香も控えめに焚かれている。

膳も、茶も、器も、大内家の格に合わせてあった。

ただ、人目だけを避けた。

この会談は、天下に見せるためのものではない。

見せれば、山口が揺れる。

山口が揺れれば、まだ形にならぬものまで壊れる。

ゆえに、その一間に入ったのは五人だけであった。

阿蘇惟豊。

阿蘇惟種。

甲斐宗運。

大内義隆。

そして、その娘、珠光姫。

義隆は、静かに座していた。

疲れはある。

だが、崩れてはいない。

細くなったようにも見える。

けれどそれは弱さではなく、余分なものを削り落とした者の顔だった。

山口が揺れていることを、この男は知っている。

陶隆房が何を見ているかも、薄々分かっている。

文の者と武の者が、同じ大内の屋根の下で違う空を見ていることも知っている。

それでも義隆は、大内の当主として座っていた。

惟豊は、その姿を正面から受けた。

「義隆殿」

「惟豊殿」

「よくぞ、阿蘇までお越しくだされた」

義隆は深くは頭を下げなかった。

礼を失わぬ程度に、静かに一礼する。

「内々の話に座を設けていただき、かたじけない」

「義隆殿が直々に運ばれた話である。軽く扱えるものではございません」

惟豊の声は低かった。

「飾りの言葉は要りませぬ。御腹を聞かせていただきたい」

義隆は頷いた。

「では、申し上げる」

その声に、ためらいはなかった。

「此度、珠光を阿蘇へ預けたいと願ったのは、大内の血を後へ残すためにございます」

珠光姫の肩が、ほんのわずかに動いた。

惟種は、その動きを見逃さなかった。

だが、口は挟まない。

「山口には、不穏がある」

部屋の空気が、少し冷えた。

誰も名を出さなかった。

文の者。

武の者。

寺社。

商人。

博多の荷。

毛利の目。

名を出さずとも、この場の者はそれぞれを思い浮かべていた。

「されど」

義隆は静かに言った。

「大内はまだ折れておりませぬ。わしもまた、大内の当主であることを捨ててはおらぬ」

その一言で、場の重さが変わった。

これは命乞いではない。

逃げ道を求める話でもない。

大内の当主が、大内の名を残すために、阿蘇を選んだのである。

「ゆえに、阿蘇へ願うのは、わしの命ではございませぬ」

義隆は珠光姫へ目を向けた。

「この子を、大内の血として預かっていただきたい」

珠光姫は顔を伏せなかった。

「珠光は、ただの娘ではございませぬ。山口がいかに乱れようと、大内の名を後へ繋ぐための血にございます」

惟種は黙って聞いていた。

大内の血。

大内の名。

山口が割れた時の旗。

すべて、惟種自身が考えていたことである。

だが、義隆本人の口から聞くと重さが違った。

これは阿蘇が勝手に拾う旗ではない。

義隆が自ら差し出す、大内の名であった。

惟豊が、ゆっくりと口を開いた。

「阿蘇には、惟種にはすでに正室がおります」

「承知しております」

義隆の返事は早かった。

「島津の姫君にございますな」

「そうです」

惟豊は、珠光姫を見た。

「珠光姫を、正室として迎えることはできませぬ」

言葉は静かだった。

だが、軽くはない。

大内の姫である。

本来ならば、どの家に入っても軽く扱ってよい血ではない。

しかし、阿蘇には加世がいる。

島津との盟がある。

阿蘇の嫡流の筋もある。

そこを曖昧にすれば、後で必ず家の内が割れる。

「正室にせよとは申しませぬ」

義隆は言った。

「阿蘇の筋を乱せとも申しませぬ。大内の血を入れるために阿蘇の内を割っては、預ける意味がございませぬ」

そこで、義隆の声が少しだけ重くなった。

「ただし」

惟豊の目が、わずかに細くなる。

「珠光を粗略に扱うことは、大内を粗略に扱うことと同じにございます」

部屋の空気が止まった。

それは願いではなかった。

条件だった。

義隆は、頭を下げに来たのではない。

大内の血を預けるに足るかを、阿蘇に問うている。

「正室にせよとは申しませぬ。されど、大内の血として遇していただきたい。その一点だけは、譲れませぬ」

惟豊は、しばらく義隆を見ていた。

やがて、静かに頷く。

「よい」

短い一言だった。

「珠光姫を粗略には扱いませぬ。阿蘇の家中にも、そのように」

義隆は、そこで初めてわずかに息を吐いた。

「ありがたく」

惟豊は、惟種へ目を向けた。

「以後の細目は、惟種より申し上げさせる。これは阿蘇の総意となります」

義隆の目が、若い十一の男へ移る。

「惟種殿が、阿蘇の実を預かっておられると聞く」

惟種は深く頭を下げた。

「父の後見を受け、実務を預かっております。若輩の身ながら、阿蘇として申し上げます」

「聞こう」

惟種は、珠光姫へ向き直った。

「珠光姫」

「はい」

「阿蘇の正室は加世です。そこは変えられませぬ。珠光姫を粗略に扱うつもりはございませぬが、阿蘇の嫡流は正室の腹より生まれる子にございます」

珠光姫は、静かに頷いた。

「承知しております」

「それでも、よいのですか」

惟種は、義隆ではなく珠光姫へ問うた。

珠光姫は、すぐには答えなかった。

幼いわけではない。

だが、まだ若い。

そして、この場で問われているのは、ただの婚姻ではない。

自分の身。

父の名。

大内の血。

阿蘇の都合。

山口の火。

それらすべてを背負って答えねばならぬ。

珠光姫は、ゆっくりと息を吸った。

「私は、阿蘇の嫡を望んで参るのではございません」

声は小さい。

だが、折れてはいなかった。

「大内の名を残すために参ります」

宗運の目が、わずかに動いた。

「もし、山口に大内の名を立てる者がなくなった時は」

一度、言葉が止まる。

それでも、姫は逃げなかった。

「私の腹より生まれた子に、大内の名を継がせる道を、残していただきとうございます」

部屋は静まり返った。

義隆は目を伏せた。

それは、父が娘に言わせた言葉ではないように見えた。

少なくとも、珠光姫自身の覚悟がなければ出ぬ声だった。

惟種は、すぐには答えられなかった。

約束は重い。

軽く頷けば、加世への誓いを傷つける。

拒めば、大内の血を預かる意味が薄れる。

しばらくして、惟種は言った。

「約束はできませぬ」

珠光姫の指先が、膝の上で少しだけ固くなった。

「されど、その道を捨てぬことは誓います」

珠光姫が顔を上げる。

「大内の名を継ぐべき時が来たなら、その時に最も筋の通る形を探します。阿蘇の都合だけで、大内の名を潰すことはいたしませぬ」

それは甘い答えではなかった。

曖昧でもあった。

だが、嘘ではなかった。

珠光姫は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

惟種は、改めて義隆へ向き直った。

「義隆殿」

「申されよ」

「珠光姫を迎えるにあたり、阿蘇からも申し上げねばならぬことがございます」

「承ろう」

惟種は、言葉を一つずつ置いた。

「もし直近で山口に何かあっても、阿蘇は動けませぬ」

珠光姫の顔が、ほんの少し強ばった。

義隆は、動かなかった。

「九州はまだ固まりきっておりませぬ。山口へ大兵を出せば、筑前が揺れ、博多が止まり、豊後も肥前も浮きます。義を掲げて兵を出しても、その裏で九州の民が死ぬ」

宗運が、静かに続けた。

「短く見ても、五年は要りましょう」

五年。

その言葉が、部屋の中に重く落ちる。

惟種は義隆を見た。

「ゆえに、山口で近く何が起ころうとも、阿蘇は兵を出せませぬ」

義隆は、静かに頷いた。

「分かっておる」

惟種の目が、わずかに動いた。

「分かっておられる、と」

「だからこそ、わしは兵ではなく、血を預けに参った」

その一言は、重かった。

惟種が条件を突きつけたのではない。

義隆は、その条件を分かったうえで、ここへ来ている。

「もし山口が割れても、阿蘇の兵を軽々しく入れてはならぬ」

義隆は言った。

「それは、わしを見捨てよという意味ではございませぬ」

声が、少しだけ深くなる。

「大内を、大内の名のまま残してほしいという意味にございます」

珠光姫が、父を見た。

「阿蘇の兵に救われた大内は、もはや大内ではなく、阿蘇の庇護を受けた家となりましょう。それでは珠光を預ける意味がない」

義隆は、珠光姫へ目を向けた。

「この子に、大内の血を預ける。阿蘇には、その血を粗略にせず、後へ繋ぐ役を担っていただきたい」

そして、惟種を見た。

「わしの命より、その方が重い」

惟種の胸の内に、冷たいものが沈んでいた。

大寧寺。

その名が、頭の奥に浮かぶ。

もうすぐ起こる。

自分は、それを知っている。

知っていながら、動かぬと言っている。

見捨てる。

言葉を飾っても、それは変わらない。

これから阿蘇へ迎える女の父を、救わないのだ。

だが、動けばどうなる。

山口へ兵を入れれば、九州が裂ける。

博多の荷が止まり、筑前も豊後も肥前も乱れる。

義隆を救っても、大内の名は阿蘇に踏まれた名になる。

ならば。

惟種は、膝の上で拳を握った。

ならば、義隆ではなく、義隆が残そうとするものを救うしかない。

「珠光姫」

惟種は、姫へ向き直った。

「はい」

「もし近く山口に何かが起こったとしても、わしは、そなたの父を助けることはできませぬ」

珠光姫の目が揺れた。

義隆は黙っていた。

惟豊も、宗運も、口を挟まない。

「それでも、阿蘇へ来られますか」

長い沈黙が落ちた。

珠光姫はすぐには答えなかった。

当然だった。

父を助けられない。

それを面と向かって言われている。

それでも阿蘇へ来るのかと問われている。

しばらくして、珠光姫は口を開いた。

「よい、とは申しませぬ」

声は、わずかに震えていた。

「父が危ういと知って、苦しくないはずがございません」

惟種は黙って聞いた。

「ですが、父上は大内の名を私に預けると申されました」

珠光姫は、義隆を見た。

義隆は何も言わない。

「ならば、私は泣いて山口へ戻りたいとは申しませぬ」

珠光姫は、再び惟種を見た。

「父を助けるためではなく、大内の血を残すために参ります」

その声には、涙が混じっていなかった。

「父を助けられぬことを、恨まぬとは申せませぬ」

惟種の胸に、その言葉が刺さった。

「ですが、それでも参ります」

珠光姫は、深く頭を下げた。

「大内の名を、どうか残してくださいませ」

惟豊が、そこでようやく口を開いた。

「義隆殿の命を救うことだけが、義ではない」

声は低く、重かった。

「託されたものを守ることもまた、義だ」

惟種は、顔を上げなかった。

惟豊は続けた。

「阿蘇は珠光姫を預かりましょう。大内の血を粗略にはせぬ。大内の名を潰すためには使いませぬ」

義隆が、静かに頭を下げた。

「ありがたく」

「だが、阿蘇は今、九州を捨てて山口へ兵を出すことはできませぬ」

「承知しております」

「そのことを、義隆殿も、姫も、ここで聞いた」

「はい」

珠光姫も頭を下げた。

「聞きました」

惟豊は、小さく頷いた。

「ならば、話は定まりました」

話が定まった後も、珠光姫はしばらく座ったままだった。

義隆が立とうとした時、姫が小さく声を出した。

「父上」

義隆は振り向いた。

「何だ」

「山口へ、お戻りになるのですね」

「戻る」

「ここに残ることは」

「できぬ」

短い答えだった。

珠光姫は唇を噛んだ。

それでも、泣かなかった。

「では、私は阿蘇にて大内の名を忘れませぬ」

義隆の顔が、少しだけ歪んだ。

だが、すぐに大内の当主の顔へ戻る。

「それでよい」

「父上も、どうか」

そこで言葉が止まった。

無事で、とは言えなかった。

戻ってきて、とは言えなかった。

言えば、父を困らせる。

それを、姫は分かっていた。

義隆は、珠光姫へ歩み寄らなかった。

近づけば、父になる。

父になれば、離れがたくなる。

だから、大内の当主として、その場に立ったまま言った。

「珠光」

「はい」

「生きよ」

それだけだった。

珠光姫は、深く頭を下げた。

「はい」

やがて義隆は、阿蘇を発った。

大仰な見送りはない。

旗も少ない。

音もない。

ただし、礼は尽くされた。

阿蘇は大内を軽んじなかった。

大内もまた、阿蘇へ頭を垂れに来たのではない。

血を預けに来た。

そして、義隆は山口へ戻った。

逃げなかった。

阿蘇に残らなかった。

自分の死地かもしれぬ場所へ、大内の当主として戻った。

珠光姫は、阿蘇に残った。

大内の血が、阿蘇に残った。

惟種は、館の奥から義隆出立の報せを聞いた。

しばらく、何も言わなかった。

宗運がそばに控えている。

惟豊もまた、遠く庭を見ていた。

「若君」

宗運が静かに言った。

「これで、山口への線は引かれました」

「ああ」

「陶への文を整えます」

「分かっている」

惟種は、目を閉じた。

義隆を救うとは書けない。

陶を討つとも書けない。

ただ、越えてはならぬ線だけを置く。

珠光。

博多。

大内の名。

その三つを守るために、阿蘇は今、動かない。

それは、義か。

理か。

あるいは、ただの見捨てか。

答えは出なかった。

だが、やるべきことは決まっていた。

「宗運」

「は」

「陶への文、言葉を選べ」

「承知しております」

「優しすぎてもならぬ。脅しすぎてもならぬ」

「はい」

「阿蘇は山口へ兵を入れぬ。だが、見ている。そう読ませろ」

宗運は、深く頭を下げた。

「御意」

惟種は、外の冬空を見た。

山の風は冷たい。

だが、その冷たさよりも、胸の内の方が深く冷えていた。

もうすぐ、山口で火が上がる。

惟種はそれを知っている。

知っていながら、火を消しには行かない。

ただ、その火が大内の名まで焼き尽くさぬよう、遠くから線を引く。

それが、今の阿蘇にできるすべてだった。

義隆を救うことはできない。

だが、義隆が託したものは救う。

惟種は、静かに息を吐いた。

「珠光姫を、粗略にするな…」

誰に言うでもなく、そう呟いた。

それは義隆への答えであり、珠光姫への誓いであり、自分自身への戒めでもあった。

阿蘇は、大内の血を預かった。

その瞬間から、山口の火は、もはや遠い火ではなくなっていた。