作品タイトル不明
第百五十七話 養生の文
天文十九年(一五五〇年)十二月。
尾張、末森。
冬の風は、城の外で低く鳴っていた。
末森は静かではない。
三河には今川と松平。
美濃には斎藤。
尾張の内にも、腹を一つにせぬ者はいくらでもいる。
その中で、織田信秀はまだ立っていた。
尾張の虎。
男の前には、いつもの膳がある。
塩の強い魚。濃い汁。漬物。酒。
信秀は杯を取り、ひと口飲んだ。
直後、軽く咳をした。
「父上」
部屋の端にいた信長が顔を上げた。
「何だ」
「今、咳をした」
「咳ぐらい誰でもする」
「近ごろ多い」
「数えておるのか」
「数えてはおらぬ。だが、分かる」
信秀は鼻で笑った。
「お前に心配されるほど、わしも弱ってはおらぬ」
「弱ってからでは遅い」
返しは早かった。
信秀は少し目を細める。
近ごろ、この息子は変わった。
相変わらず粗く、礼を踏み外し、言わずともよいことを言う。
だが、ただ暴れるだけではなくなっていた。
火の向け先を、少しずつ選び始めている。
その火へ、別の火を近づけた男がいる。
阿蘇惟種である。
◇
「父上」
信長が一通の文を差し出した。
「阿蘇からだ」
「またか」
信秀は封を見る。
宛名は、織田弾正忠信秀。
信長ではない。
信秀である。
そこが、阿蘇らしかった。
「お前宛ではないのか」
「別にある」
「読んだか」
「読んだ」
「早いな」
「面白かった」
信秀の眉が、わずかに動いた。
「面白い文か」
「父上も面白がる」
「ならば、ろくな文ではあるまい」
信秀は封を切った。
尾張との通交の礼。
津島と熱田の荷の流れ。
阿蘇と尾張が互いに利を得る道。
商人を太らせ、蔵を痩せさせぬこと。
火薬や鉄砲より先に、帳を乱さぬこと。
そこまでは普通だった。
だが、途中からおかしくなる。
織田弾正忠殿。
無礼を承知にて申し上げ候。
御身の養生を、尾張の軍法となされませ。
信秀の手が止まった。
「……何だ、これは」
信長が笑った。
「面白いだろう」
「面白いではない。無礼だ」
「無礼だな」
「お前が言うな」
信秀は文へ目を戻した。
酒は寒を払います。
されど、過ぎれば脈を荒らします。
塩は兵糧を守ります。
されど、身に過ぎれば血の川を荒らします。
弾正忠殿が倒れれば、尾張は揺れます。
尾張が揺れれば、三郎殿は早く燃えすぎます。
火は、大きければよいものではございませぬ。
薪が整わぬまま燃えれば、敵を焼く前に国を焼きます。
まず三十日。
酒を減らし、塩を薄くし、夜更かしを避け、怒りを急がせぬこと。
これは命惜しみにあらず。
尾張を太らせるための一手にございます。
信秀は黙った。
閉じるでもなく、読み進めるでもない。
ただ、その一節を見ていた。
「父上」
「何だ」
「当然、養生するんだろうな」
信秀は顔を上げた。
「誰にものを言っておる」
「父上にだ」
「わしに、酒を減らせと申すか」
「阿蘇はそう申している」
「お前はどう思う」
「織田家として、利しかない」
信秀の目が動いた。
「父上が長く立てば、尾張は乱れにくい。今川も美濃も、こちらの腹を読み違える。わしも動ける。津島も熱田も、荷を待てる」
「お前は、わしに長生きしてほしいのか」
「それもある」
「それも、か」
「一番は利だ」
信秀はしばらく信長を見て、低く笑った。
「正直だな」
「嘘を言っても仕方がない」
「親に向かって、利と申すか」
「親だからこそだ」
信長の声は軽くなかった。
「父上が倒れれば、尾張は割れる。わしを嫌う者は多い。弟を担ぐ者も出る。今川も動く。斎藤も見る。津島と熱田も腹を探る」
信秀は黙って聞いていた。
「だから、父上には生きてもらわねば困る」
「困る、か」
「困る」
信長は即答した。
「それに」
「まだあるのか」
「あの男が、父上の膳にまで口を出してきた」
「それがどうした」
「つまり、父上の膳を見ている者がいる」
信秀の眉が動いた。
「まさか」
「まさか、と思うだろう」
信長は笑った。
「だが、阿蘇家だぞ」
その一言で、信秀は黙った。
遠い。
だが、遠いだけの家ではない。
信長が阿蘇から戻って以来、尾張にはいくつもの細い糸が入り始めている。
商人。荷。紙。噂。帳。
どこまで見ているのか分からない。
それが一番厄介だった。
「ばれぬだろう」
信秀は、わざと軽く言った。
「酒を一杯増やしたところで、肥後の山家に何が分かる」
「父上」
「何だ」
「どこに目があるかわかりませぬぞ?」
「大げさだ」
「阿蘇家だからな」
信長は真顔だった。
「膳を運ぶ者か、酒を買う商人か、塩魚を納める者か。津島か熱田か。どこで拾われるか分からぬ」
「そこまで見るか」
「見る」
「なぜ言い切れる」
「あの家は、槍より先に帳が来る」
信秀は思わず笑った。
「お前がそこまで警戒するとはな」
「面白いが、油断してよい相手ではない」
「好きか」
「好きだ」
「恐いか」
「恐い」
「どちらだ」
「どちらもだ」
信秀は文をもう一度見た。
さらに続きがある。
なお、阿蘇にて新しき薬も試しております。
膿む傷、肺の熱、熱病の一部には効くこともございます。
されど万能にはあらず。
御身に異変あらば、隠さず知らせられたし。
隠した病は、敵よりも深く国を損ないます。
「隠すな、か」
信秀は呟いた。
「ますます無礼だ」
「だが、正しい」
「腹立たしいほどにな」
信秀は文を畳んだ。
◇
しばらく、二人は黙っていた。
火鉢の炭が、小さく音を立てる。
やがて、信秀が言った。
「三郎」
「何だ」
「仕事を増やす」
信長の目が光った。
「わしのか」
「そうだ」
「何を寄越す」
「津島の荷の一部。熱田の商人との話。阿蘇から来る文と帳の読み合わせ。火薬と鉄砲の数。鉛、硝石、火縄の入り」
信秀は一拍置いた。
「あと、道だ」
「道」
「三河へ入る道。美濃へ抜ける道。商人が使う道。兵が通る道。噂が流れる道」
信長は口元を吊り上げた。
「面白い」
「お前は、何でも面白がるな」
「つまらぬものは覚えぬ」
「ならば覚えろ」
信秀は言った。
「わしは養生する」
「本当に?」
「疑うな」
「ばれぬだろうと言った父だぞ」
信秀は返せなかった。
「酒は減らす。汁は薄くする。塩魚も控える。夜更かしも減らす」
「腹を立てるのは?」
「それは無理だ」
「ならば、最初の三つは守れ」
「命令か」
「織田家の利だ」
信秀は声を出して笑った。
その笑いには、少し咳が混じった。
だが、今度はすぐに杯へ手を伸ばさなかった。
「よかろう」
信秀は言った。
「阿蘇の若造に従うのではない」
「うむ」
「お前に言われたからでもない」
「うむ」
「織田家の利のためだ」
信長は満足そうに頷いた。
「それでよい」
「偉そうに」
「父上が生きておれば、わしが楽をできる」
「逆だ」
信秀は文を指で叩いた。
「これからは、お前が楽をできなくなる」
「望むところだ」
信長は即答した。
信秀は膳の上の杯を見た。
酒はまだ残っている。
いつもなら、もう一杯注がせていた。
だが、今日は違った。
信秀は杯を少し遠ざけた。
「酒は半分だ」
「塩魚は」
「一つ下げる」
「汁は」
「薄くする」
「よし」
「うるさい」
信秀はそう言ったが、怒ってはいなかった。
◇
その夜、末森の城で、小さな変化が起きた。
信秀の膳から、塩の強い魚が一つ減った。
酒は半分になり、汁は少し薄くなった。
ただ、それだけである。
代わりに、信長の前へ新しい帳が置かれた。
津島。
熱田。
道。
商人。
鉄砲。
火薬。
米。
人。
信秀は養生の名で、少しずつ仕事を信長へ渡すことにした。
阿蘇から届いた文は、薬ではなかった。
だが確かに、病を防ぐ文であった。
信秀の膳は軽くなった。
代わりに、信長の帳は重くなった。
本来なら、いずれ病に倒れ、ほどなく消えるはずだった織田信秀の火。
その火が、まだ消えぬ。
そしてこの日より、父を失って燃え上がるはずだった信長の歴史は、また一つ、大きく形を変え始めていた。