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作品タイトル不明

第百五十二話 笑って暮らせる国

天文十九年(一五五〇年)十一月。

阿蘇の館に、また小さな宴の支度が整えられていた。

ただし、今回は祝言のような大きなものではない。

席も少ない。

料理も華美にしすぎてはいない。

だが、甘味と果汁、鶏料理、温かな汁物、焼き菓子、そして少量の氷菓子は用意されている。

若者たちの会である。

惟種が以前に行った、若き者たちを集めて同じ膳につかせる会。

その延長であった。

「殿」

宗運が、部屋の入口で言った。

「何だ」

「念のため、わたくしも同席を」

「いらぬ」

「まだ何も申し上げておりませぬ」

「同席を、と言った」

「言いました」

「だから、いらぬ」

宗運は黙った。

その沈黙が、すでに不満を語っていた。

「本日は、島津の御子息方もおられます。龍造寺、鍋島、大友、相良、名和、島の若き者たちも。何かあっては」

「何かあるとしたら、宗運がいる時だ」

「なぜでございますか」

「宗運がいると、皆が固くなる」

「礼法とは、そういうものにございます」

「今日は礼法の会ではない」

惟種は言った。

「次代を担う者たちが、同じ膳で飯を食う会だ」

宗運は、少しだけ目を細めた。

「だからこそ、軽く扱うべきではございませぬ」

「軽く扱っているわけではない」

「では、なぜわたくしを外すので」

「宗運がいると、説教になる」

「なりませぬ」

「なる」

「なりませぬ」

「前回なった」

「……それは、若君が余計なことをおっしゃるからです」

「ほら、もう説教だ」

宗運は口を閉じた。

惟種は、その肩越しに別室を見た。

そこには戸次、島津貴久、相良晴広らが控えている。

貴久は少し心配そうだった。

戸次は静かに笑っている。

相良晴広は、茶碗を手にしながら事態を見守っていた。

「貴久殿も、別室で待ってもらう」

惟種が言うと、貴久は頭を下げた。

「承知しております」

「よいのか」

「はい」

貴久は穏やかに答えた。

「あれらも、いつまでも父の目の前でだけ話すわけにはまいりませぬ」

日新斎は来ていない。

いれば、きっと笑ってこう言っただろう。

子は子の場で伸びるものだ、と。

宗運はまだ納得しきっていなかったが、最後には深く頭を下げた。

「では、何かあればすぐお呼びください」

「分かった」

「本当に」

「分かった」

「若君」

「分かったと言っている」

宗運は、なお不安そうにしていたが、戸次に肩を叩かれて別室へ下がった。

襖が閉まる。

惟種は、ようやく息を吐いた。

加世が隣で小さく笑った。

「宗運様は、心配性ですね」

「心配性というか、わしを信用していない」

「信用しているから心配されるのでは?」

「そういうものか」

「そういうものです」

加世は、今日の会に同席している。

島津の姫として。

阿蘇の正室として。

そして、若者たちを迎える主の一人として。

惟種は、それを心強く思った。

最初に入ってきたのは、鍋島種茂だった。

数えで十三。

すでに若君というより、少し背伸びした小姓のように見える。

「鍋島種茂、参りました」

「楽にせよ」

「はい」

種茂は席に着くと、周囲を見た。

前よりも、目が落ち着いている。

龍造寺の乱を経て、少年の顔に少し影が差していた。

次に島種清が入る。

数え十一。

まだ幼さはあるが、元服したばかりの気負いが見える。

「島種清、参りました」

「新吉郎」

惟種がつい昔の名で呼ぶと、種清は一瞬だけ頬を赤くした。

「今は種清にございます」

「そうだったな」

「惟種様が烏帽子親でございますから」

「そうだった」

種清は、少し誇らしげに座った。

続いて、万満丸。

数え七。

まだ小さい。

きちんと礼をしようとするが、動きが少しぎこちない。

加世が柔らかく声をかけた。

「こちらへ」

万満丸はほっとしたように加世の近くへ座った。

その後ろから、大友隼人が来た。

五歳ほど。

小さな体で、緊張している。

大友の名を残された子。

それだけで、この幼子には重すぎるものが乗っている。

惟種は、できるだけ穏やかに声をかけた。

「隼人、今日は難しい話ばかりではない。菓子もある」

隼人は、少しだけ目を上げた。

「菓子」

「ああ」

加世が微笑み、皿を示す。

隼人は、ようやく小さく頷いた。

そして、島津の兄弟が入ってきた。

まず、長兄の島津義久。

十七ほど。

若いが、場を見る目がある。

入ってきた瞬間、座の配置、惟種と加世の位置、種茂や種清の表情を見ていた。

ただの若者ではない。

次に、島津義弘。

十五ほど。

体つきがよく、目がまっすぐだ。

武に向く者の気配がある。

続いて、又六郎――島津又六郎。後の歳久

十三ほど。

まだ元服前だが、目の奥が静かに鋭い。

声を出す前に考える者の顔である。

最後に、又七郎――島津又七郎。後の家久

三つほど。

歩くのもまだ危なっかしい。

兄たちに連れられ、部屋に入った途端、きょろきょろと辺りを見回した。

惟種は、その姿を見た瞬間、内心で震えた。

島津四兄弟。

ここにいる。

義久。

義弘。

又六郎。

又七郎。

史実を知る者からすれば、名前だけで背筋が伸びるような面々である。

だが、目の前の彼らは若い。

義久はまだ家を背負いきる前。

義弘はまだ戦場で鬼と呼ばれる前。

又六郎はまだ策を巡らせる重みを背負う前。

又七郎に至っては、小さな手で兄の袖を握っている。

惟種は、表情に出さないよう努めた。

努めたが、加世には少し見抜かれたらしい。

加世が小声で言う。

「惟種様、楽しそうです」

「そんなことはない」

「あります」

「ない」

その時、又七郎が惟種の方を見た。

惟種と目が合う。

又七郎は、少し首を傾げた。

惟種は、負けた。

「又七郎、こちらへ来るか」

又七郎は兄たちを見た。

義久が苦笑しながら頷く。

すると、又七郎はとことこと惟種の方へ歩いてきた。

惟種は、そっと抱き上げて膝に乗せた。

軽い。

あまりにも軽い。

この小さな子が、どのような未来を持つはずだったのか。

だが、その未来はもう変わっている。

龍造寺隆信は、すでにいない。

島津は阿蘇の外ではなく、内へ入った。

大友も龍造寺も阿蘇家中である。

九州そのものが、別の形を取り始めている。

史実は、もう地図としては使えない。

惟種は、膝の上の又七郎に菓子を持たせた。

「食べるか」

又七郎は、こくりと頷いた。

会は、静かに始まった。

堅苦しい挨拶は少なくした。

まずは、食べる。

鶏を柔らかく煮たもの。

香ばしく焼いたもの。

小さく切った甘い菓子。

果汁。

温かな汁。

万満丸と隼人は、菓子に目を輝かせた。

又七郎は惟種の膝の上で菓子を握り、少しずつ食べている。

義弘は鶏料理を見て、率直に言った。

「これは、うまいです」

「よかった」

「島津でも、これほどのものはなかなか」

言いかけて、義弘は義久に視線で止められた。

惟種は笑った。

「気にせず言え。ここは若者の会だ」

又六郎が静かに言う。

「若者の会にしては、料理が整いすぎております」

「そこに気づくか」

「気づきます」

又六郎は、器を見た。

「この器も、軽い。だが割れやすそうです。これは玻璃ですか」

「そうだ」

「このようなものを、若者の会にも出すのですね」

「見せるためだ」

惟種は答えた。

「阿蘇には、こういうものを作る職人がいる。こういうものを運ぶ商人がいる。こういうものを使える場がある。それを知ってほしい」

義久が、静かに口を開いた。

「つまり、これは宴ではなく、阿蘇の中を見せる場でもあるのですね」

惟種は義久を見た。

やはり、分かるか。

「そうだ」

義久は頷いた。

「父上が申しておりました。阿蘇は見せるものを選ぶ家だと」

「貴久殿が?」

「はい」

「では今日は、少し多めに見せる」

惟種は、部屋の隅に置かせていた絵地図を広げさせた。

九州の地図である。

子供にも分かるよう、山、川、港、道、蔵、城、田、寺が絵で描かれている。

又七郎が、菓子を食べながら地図を覗き込む。

「おやま」

「そうだ。山だ」

「うみ」

「海だ」

「とり」

「それは鶏ではなく船だ」

「ふね」

「そうだ」

加世が袖で口元を隠して笑った。

惟種は、地図の上に小さな木札を置いていった。

「ここが南。島津が支える」

義久、義弘、又六郎が地図を見る。

「ここが肥前。龍造寺が支える」

種茂が背を伸ばした。

「ここが府内。大友の名を残す」

隼人が、少しだけ顔を上げる。

「ここが人吉、球磨。相良が支える。ここが海辺。名和が支える」

惟種は、最後に阿蘇の札を中央に置いた。

「簡単に話したが、その他大小の家々が連なる」

「だが、全部が別々に動くのではない。阿蘇の帳でつながる」

義久が言った。

「別々の家ではなく、同じ大きな家の部屋に座っている、ということですか」

惟種は、少し驚いた。

「その通りだ」

義久は、地図を見たまま続ける。

「島津は南の部屋。龍造寺と鍋島は肥前の部屋。大友は府内の部屋。ですが、屋根は阿蘇にある」

「うまい言い方だ」

又六郎が、その言葉に続いた。

「ならば、部屋ごとに勝手な戸を作ってはいけませぬな」

惟種は又六郎を見る。

「又六郎も、よく見ている」

又六郎は少しだけ目を伏せた。

「見ているだけにございます」

「見ることは大事だ」

義弘が、地図の南を指した。

「南に敵が出れば、島津が戦うのですね」

「そうだ」

「阿蘇の兵は来ますか」

「必要なら来る。だが、最初に動くのは南を知る者だ」

義弘は頷いた。

「ならば、我らは南をよく知らねばなりませぬ」

「その通り」

種茂が口を開いた。

「肥前も同じでございますね」

「そうだ」

惟種は種茂を見た。

「肥前が乱れれば、西の口が乱れる。博多にも響く。だから龍造寺には、肥前を支えてもらう。鍋島はその支えだ」

「承知しております」

種茂は、まだ少年だ。

だが、その声には覚悟があった。

島種清が、少し緊張しながら聞いた。

「私は、何を支えればよいのでしょうか」

「まずは自分を支えろ」

「え」

「学べ。見ろ。失敗しろ。走れ。食え。眠れ」

種清は目を丸くした。

「それでよいのですか」

「若い者の仕事だ」

惟種は笑った。

「ただし、将来は種茂と共に宗運を補佐せよ。このままでは過労で死ぬ」

「それは若君―――殿が悪いのでは…」

惟種は何も答えなかった。

やがて惟種は、地図の横に別の絵を広げた。

そこには、まだ実在しないものが描かれていた。

広い道。

灯のある町。

子供が学ぶ場。

馬が走る広場。

芝居を見る建物。

医者がいる小屋。

蔵。

港。

大きな船。

義弘が首を傾げた。

「これは、どこの絵ですか」

「まだ、どこにもない」

「ない?」

「これから作る」

若者たちが、一斉に絵を見た。

「わしが作りたいのは、強いだけの国ではない」

惟種は言った。

「米があり、飢える者が少なく、病になれば医者が来る。子が字を学び、商人が道を歩き、職人が物を作り、兵が民を守る。そういう国だ」

万満丸が、ぽつりと言った。

「みんな、食べられるのですか」

「そうしたい」

隼人が、恐る恐る聞いた。

「病になっても、焼かれないのですか」

その問いに、部屋が少し静かになった。

幼い子供の問いは、ときに大人の言葉より鋭い。

惟種は、隼人をまっすぐ見た。

「焼かないために、医者を育てる。病を隠さぬようにする。隔てる時は隔てるが、見捨てるためではない」

隼人は、小さく頷いた。

加世がそっと隼人の皿に菓子を足した。

「それだけでは足りぬ」

惟種は続けた。

「いずれ、海の向こうから大きな船と大きな火器を持つ者たちが来る」

義久の目が鋭くなる。

「南蛮ですか」

「そうだ」

「今も来ております」

「今より、もっと来る」

惟種の声は静かだった。

「商いだけならよい。学べるものも多い。だが、相手は善意だけで来るわけではない。弱い国は、食われる」

義弘が拳を握った。

「ならば、兵を強くせねば」

「そうだ」

惟種は頷く。

「だが、兵だけでは駄目だ。大きな船を作る職人が要る。火器を作る鍛冶が要る。火薬を数える者が要る。海を知る者が要る。商人が要る。病を防ぐ医者が要る。字を読める者が要る。飯を作る民が要る」

又六郎が言った。

「つまり、国全部が兵になるのですね」

「違う」

惟種は首を振った。

「国全部が、国を支える」

又六郎は、はっとしたように黙った。

「兵は戦う。民は飯を作る。商人は運ぶ。職人は作る。医者は救う。僧や社人は言葉を届ける。子は学ぶ。それぞれの役目があって、初めて国は外に負けぬ」

義久が、静かに息を吐いた。

「大きな話です」

「大きすぎるか」

「いえ」

義久は顔を上げた。

「すごい、と思いました」

義弘も頷いた。

「強いだけでは足りぬというのは、初めて聞きました」

又六郎が小さく言う。

「でも、強くなければ守れない」

「そうだ」

惟種は又六郎を見る。

「だから、強さを間違えるな」

種茂が、慎重に問うた。

「それは、阿蘇だけで作るのですか」

「作れぬ」

惟種はすぐに答えた。

「阿蘇だけでは無理だ。島津だけでも、龍造寺だけでも、大友だけでも、鍋島だけでも、相良だけでも、名和だけでも無理だ」

地図の上に、惟種は手を置いた。

「だから、同じ家中として作る」

義久が、深く頷いた。

「同じ屋根の下で」

「そうだ」

「では、我らは競う相手ではなく、支え合う相手なのですね」

「競ってもよい」

惟種は笑った。

「ただし、民を痩せさせる競いはするな。米を増やす競い、道を整える競い、兵を鍛える競い、学ぶ者を増やす競いなら大歓迎だ」

義弘が目を輝かせた。

「兵を鍛える競いは、面白そうです」

「義弘はそこか」

「はい」

義弘は迷いなく頷いた。

「強い兵がいれば、民を守れます」

「その考えならよい」

又六郎がぽつりと言った。

「では、強い兵を持つ家が勝手に動かぬようにする仕組みも要りますね」

惟種は、思わず笑った。

「又六郎は、本当に厄介なところを見る」

又六郎は少しだけ首を傾げた。

「厄介ですか」

「褒めている」

「そうは聞こえませぬ」

「宗運にもよく言われる」

加世がまた笑った。

惟種は、若者たちを見渡した。

この場にいる者たちは、本来なら別々の道を歩むはずだった。

ある者は島津の柱となり。

ある者は戦場に名を残し。

ある者は策で家を支え。

ある者は幼くして歴史の荒波に呑まれ。

ある者は家の再興を背負い。

ある者は龍造寺と鍋島の間で苦しみ。

ある者は大友の名に押し潰される。

そのはずだった。

だが、もう同じ未来にはならない。

龍造寺隆信は死んだ。

大友義武も消えた。

島津は阿蘇の内にいる。

九州は阿蘇家中として動き出している。

史実は、もう遠い。

ならば、この子らには別の未来を見せたい。

「皆に言っておく」

惟種は、ゆっくり口を開いた。

「わしは、そなたらをただの臣下としてここに集めているのではない」

少し場が固くなった。

「家と家を結ぶには、人が動く。名が動く。顔を知ることが大事だ」

義久は静かに聞いている。

「今日、同じ膳で飯を食った者同士は、十年後、二十年後に別の立場になっているかもしれぬ。だが、その時に思い出してほしい」

惟種は、地図を指した。

「そなたらは、別々の国の敵ではない。同じ家中で、この九州を支える者だ」

種茂が、深く頭を下げた。

「はい」

種清も、慌てて頭を下げる。

義弘は真面目な顔になった。

又六郎は何かを考えていた。

義久は、まっすぐに惟種を見る。

「殿」

「何だ」

「それは、とても難しいことです」

「知っている」

「家は面目を持ちます。土地は古い恨みを持ちます。人は忘れませぬ」

「その通りだ」

「それでも、やるのですか」

「やる」

義久は、少しだけ目を伏せた。

「ならば、島津も学ばねばなりませぬ」

「頼む」

「父上が、阿蘇の内に入ると言った意味が、少し分かりました」

加世が、静かに義久を見た。

義久は、姉に向かって小さく頭を下げた。

その姿を見て、惟種は少し安心した。

場が少し重くなったので、惟種は話を変えた。

「ところで、皆の将来を少し見立ててみよう」

義弘が顔を上げた。

「見立て、ですか」

「そうだ」

加世が、少し不安そうに惟種を見た。

「惟種様、また妙なことを」

「大丈夫だ」

「本当ですか」

「多分」

「多分なのですね」

惟種は咳払いをした。

「義久」

「はい」

「そなたは、人をまとめる者になる」

義久は少し驚いた顔をした。

「私が、ですか」

「そうだ。自分が前に出て暴れるより、人を置くべき場所へ置く。そういう器がある」

義弘が笑った。

「兄上らしい」

義久は少し苦笑した。

「義弘」

「はい」

「そなたは、戦場で前に立つ者になる」

義弘の目が輝いた。

「本当ですか」

「多分な」

「多分」

「だが、前に立つなら、後ろを忘れるな。兵はそなたの背を見て進む」

義弘は、真剣に頷いた。

「心得ます」

「又六郎」

又六郎が顔を上げる。

「そなたは、人が見落とす筋を見る者になる」

「筋、ですか」

「そうだ。皆が正面を見る時、横の道を見る。そういう者は大事だ」

又六郎はしばらく黙り、やがて小さく頭を下げた。

「覚えておきます」

「又七郎は」

惟種は、膝の上の又七郎を見た。

又七郎は菓子を食べ終え、眠そうにしている。

「まだ分からぬな」

義弘が笑った。

「この又七郎が何かするとは思えませぬ」

又七郎は、兄の声に反応して義弘を見た。

「にい」

「うむ、又七郎」

惟種は、又七郎の頭をそっと撫でた。

「ただ、小さい者ほど、後で恐ろしくなることもある」

義弘が声を出して笑った。

「この子がですか」

「そういうものだ」

種茂も笑った。

種清もつられて笑った。

万満丸と隼人は意味が分からず、とりあえず笑った。

部屋に、柔らかな笑いが広がる。

惟種も笑った。

だが、その胸の奥には、少しだけ寂しさがあった。

笑える未来にしたい。

この子らが、史実の血と炎に呑まれぬ未来に。

会は、穏やかに終わった。

最後に、惟種は小さな木札を全員へ渡した。

阿蘇山と、米俵と、灯が彫られている。

裏には、短い言葉。

『名ある者を、阿蘇は見捨てぬ』

義久は、その木札をじっと見た。

「これは」

「約だ」

「名ある者、とは家名ある者のことですか」

「違う」

惟種は静かに首を振った。

「阿蘇の帳に名を記された者のことだ。百姓も、商人も、職人も、兵も、子も。名を記した以上、阿蘇はその者を数える。数える以上、飢えも病も戦も、見ぬふりはせぬ」

惟種は言った。

「阿蘇は、名を預かった者を見捨てぬ。だが、名を預けた者も阿蘇を裏切るな」

義久は、深く頭を下げた。

「承りました」

義弘も、又六郎も、種茂も、種清も頭を下げる。

万満丸と隼人は、それを見て真似をした。

又七郎は惟種の膝の上で木札を握りしめ、眠りかけていた。

加世がそっと言った。

「又七郎は、寝てしまいそうです」

「そうだな」

「殿、降ろしますか」

「いや、もう少し」

惟種は、又七郎を抱えたまま立ち上がらずにいた。

小さな重み。

未来の重み。

それは、重すぎるほどではない。

だが、確かに腕の中にあった。

襖の外では、宗運たちが待っていた。

会が終わったと聞き、宗運がすぐに入ってくる。

そして、惟種の膝で眠っている又七郎を見て固まった。

「殿」

「何だ」

「なぜ、島津の御子息を膝に乗せておられるのですか」

「寝た」

「見れば分かります」

「なら聞くな」

貴久が後ろから入ってきて、又七郎の寝顔を見た。

少し驚き、次に柔らかく笑った。

「又七郎が、失礼を」

「いや、よい。わしがしたかっただけだ」

義久が言った。

「父上。殿は、大きな話をなされました」

「大きな話?」

貴久が息子を見る。

義久は、木札を見せた。

「皆が笑って、飢えず、病に捨てられず、南蛮にも食われぬ国を作ると」

貴久は、惟種を見た。

惟種は少し気まずそうに視線を逸らした。

「また、大きく出ましたな」

貴久は笑った。

宗運は、深くため息をついた。

「若君」

「何だ」

「若者の会で、なぜ天下と南蛮の話になりますか」

「必要だからだ」

「必要なのは分かりますが、段階というものがございます」

「ほら、同席しなくても説教になった」

「なります」

宗運はきっぱり言った。

加世が笑った。

戸次も静かに笑っている。

貴久は、眠る又七郎を受け取ろうと近づいた。

惟種は、そっと又七郎を渡した。

又七郎は眠ったまま、木札を握っている。

貴久はその木札を見た。

『名ある者を、阿蘇は見捨てぬ』

貴久は、小さく呟いた。

「重い言葉ですな」

「だから、嘘にしない」

惟種は答えた。

貴久は深く頷いた。

「島津も、その言葉の内に入ったということですな」

「そうだ」

「ならば、南はお任せください」

「頼む」

若者たちは、それぞれの宿所へ戻っていった。

義久は地図を思い返しながら。

義弘は兵と民の話を胸に。

又六郎は帳と道と蔵の筋を考えながら。

種茂は肥前の役目を噛みしめ。

種清は自分に何ができるかを考え。

万満丸と隼人は菓子の味を覚え。

又七郎は木札を握ったまま眠っていた。

その姿を見送りながら、惟種は思った。

この子らの未来は、もう史実の通りではない。

ならば、自分が作らねばならない。

誰もが笑って暮らせる世界。

飢えがなく、病に見捨てられず、子が学び、民が働き、兵が守り、商人が道を歩ける世界。

そして、いずれ来る南蛮の大きな波に、飲み込まれない世界。

遠い。

あまりにも遠い。

だが、今日、その未来を聞いた若者たちがいた。

すごい、と目を輝かせた者たちがいた。

ならば、まだ進める。

惟種は、庭の向こうに見える阿蘇の山を見た。

神の山は、静かにそこにある。

その下で、次代の者たちは同じ膳についた。

それは小さな一歩である。

だが、国というものは、そういう小さな一歩から形を変えていく。

惟種は、静かに呟いた。

「笑える国にする」

誰に聞かせるでもない言葉だった。

だが、隣にいた加世だけは聞いていた。

「はい」

加世は、穏やかに答えた。

「私も、その国で笑っております」

惟種は少しだけ笑った。

若者の会は終わった。

しかし、彼らが同じ膳で見た未来は、これから長く九州の形を変えていくことになる。